すり減った踵と、鉄の森の鼓動
絶壁の街アイリエでの滞在を終え、イリスが再び「地を這う」旅路へと戻ったのは、それから三日後のことだった。
降りる時もまた、あの千の石段を一段ずつ踏みしめていく過酷な作業が待っていた。登る時よりも膝にくる衝撃は強く、不格好な豚革のブーツは、今や彼女の身体の一部のように馴染んでいる。
崖の下へと辿り着き、平坦な街道に足をついた瞬間、イリスは思わず地面に口づけしたいほどの安心感に包まれた。
「……フンッ。やはり、確かな大地があってこその人生ですわ。空なんて、たまに見上げるくらいが丁度いいんですのよ」
イリスは、別れ際にルカから贈られた『鳥の王の羽根』をマントの胸元に挿し直すと、腕を組んでそっぽを向いた。
アイリエを離れ、街道を北西へと進む。景色は刻一刻と表情を変えていった。
かつての色彩豊かな森や、灰色の死の世界とも違う、新しい異質さがそこにはあった。
地面からは草花の代わりに、錆びついた真鍮のゼンマイや、カチカチと規則正しい音を立てる鉄の歯車が半分埋もれるようにして生えている。木々は金属でできており、風が吹くたびに葉と葉が触れ合って、硬質な鈴のような音を奏でていた。
「なんなんですの、この騒々しい森は……」
イリスは立ち止まり、不意に足元に違和感を覚えた。
右足の裏に、地面の冷たさがダイレクトに伝わってくる。慌ててブーツを脱いで確認すると、あんなに分厚かった豚革の靴底が、ついに磨り減って小さな穴が開いていた。
「……あ」
家出をしてから、どれほどの距離を歩いただろうか。
雨の森を抜け、市場を駆け回り、千の石段を往復した。どんな困難からも彼女を守り抜いてくれた「不格好な相棒」が、ついに限界を迎えようとしていた。
イリスは一瞬だけ、泣きそうな顔で穴の開いた靴底を見つめた。しかし、すぐに唇を噛み締め、再び靴を履き直した。
「……泣き言は言いませんわ。直せばいいんですのよ、直せば!」
彼女は、ご先祖さまのスケッチブックを捲った。
次のページには、歯車を組み合わせた巨大な門と、煙突から黒煙を上げる『鉄の都・ギアハイム』が描かれている。
ここを抜ければ、あの「花畑」まではあとわずか。……しかし、その絵の隅には、先人の手による不穏な一筆があった。
『ここは、数と効率がすべてを支配する街。不正確な感情は、錆びた歯車と同じく排除される』
鉄の森を抜けた先に現れたのは、巨大な蒸気機関によって自動で開閉する、重厚な鋼鉄の門だった。
そこでは、全身を精密な真鍮の鎧で包んだ『時計仕掛けの衛兵』たちが、入国者の荷物を厳格に検査していた。
「停止せよ。入国希望者」
衛兵の声は、人間味のない金属音だった。
彼はイリスの前に立つと、その目を光らせ、彼女の姿を上から下までスキャンするように見つめた。
「服装:不潔。マント:規格外の粗悪品。……特筆事項:右足のブーツ、底部の摩耗率87%。歩行効率が極めて低い。……お前、この街で何をするつもりだ」
「……失礼な機械ですわね! 歩行効率がどうこうなんて、大きなお世話ですわよ!」
イリスはいつものように腕を組んでそっぽを向いたが、衛兵は動じない。
「当街『ギアハイム』は、完璧な調和と効率によって維持されている。入国税として、お前の『最も正確な技術』を提示せよ。基準値以下の誤差は認めない」
イリスはフンと鼻を鳴らし、鞄から『銀のペンとスケッチブック』を取り出した。
「正確さ、ですって? 笑わせないでちょうだい。私は屋敷で、どんな百科事典の図案も寸分違わず写し取れるよう教育されてきましたのよ。……描きなさいというなら、描き出してあげますわ。あなたの体の構造、その歯車の一枚一枚までね!」
イリスは、かつての「冷たく正確な目」を取り戻し、真っ白なページに向き合った。
彼女は目の前の衛兵を観察し始めた。装甲の繋ぎ目、蒸気が漏れるバルブ、一秒間に三回転するメインギア。
しかし。
ペンを走らせようとしたその瞬間、イリスの脳裏を、市場で出会った老婆の笑顔や、アイリエの少女の涙、そしてあの不格好なブーツの「優しさ」がよぎった。
(……あ。線が……)
彼女が引いた線は、かつての定規で引いたような直線ではなかった。
どこか柔らかく、わずかに震え、対象の「機能」ではなく、その冷たさの中にある「孤独」を写し取ろうとするような、感情の乗った線になっていたのだ。
「判定。……誤差2.4%。不合格」
衛兵が無慈悲に宣告した。
「お前の絵には『余計な情報』が多すぎる。影の付け方に情緒が含まれており、構造の再現性が著しく損なわれている。……お前のような不正確な表現者は、この街に入る資格はない」
イリスは、自分の手が震えていることに気づいた。
かつての自分なら、完璧に描けたはずの対象。しかし、旅をして、人々の温もりに触れてしまった今の自分には、もう「無機質な正確さ」だけで世界を描くことができなくなっていた。
「……なんですって? この絵の価値が分からないなんて、やっぱりただのポンコツですわね!」
イリスは叫んだが、その声にはわずかに不安が混じっていた。
技術が「劣った」のではない。「変わってしまった」のだ。
街の入り口で立ち往生するイリス。靴底の穴からは、鉄の地面の冷たさが容赦なく伝わってくる。
その時だった。
「……面白いね。そんな『熱い』線を描く旅人を、門の前で追い返すなんて、この街の歯車もいよいよ錆びついてきたかな」
背後から聞こえてきたのは、油の匂いを漂わせた、少しだけ人間味のある低い声だった。
振り返ると、そこには頭にゴーグルを乗せ、巨大なスパナを背負った一人の職人の男が立っていた。




