旅立ち
冷たい雨粒が、容赦なく「夜明けの空色」の特注シルクを打ち据えていた。
数時間前まで、そのドレスは春の微風を孕んでふわりと舞い、イリスの可憐さを際立たせる芸術品だった。しかし今は違う。泥水と氷雨をたっぷりと吸い込んだ布地は、まるで濡れた鉛のように重くまとわりつき、華奢な体を容赦なく地面へと引きずり込もうとしている。
「……ッ、なんなんですの、この下品な雨は!」
灰色の空の下、鬱蒼と生い茂る森の獣道に、イリスの苛立った甲高い声が虚しく響いた。
最高級の仔牛革で作られた編み上げブーツは、そもそも大理石の床や、手入れの行き届いた庭園の芝生を歩くためだけに作られたものだ。鋭い木の根や尖った石が転がる泥濘を歩くことなど、一秒たりとも想定されていない。
一歩踏み出すごとにぐちゃりと不快な音が鳴り、靴擦れで皮の剥けた足の裏に、焼け火箸を押し当てられたような激痛が走る。
毎朝メイドに一時間かけて結わせていた完璧な縦ロールの髪も、今はただの濡れたロープのように顔にへばりつき、視界を無惨に塞いでいた。
「私の屋敷の庭園なら、こんな泥水なんて一滴も跳ねませんわよ……っ!」
誰もいない虚空に向かって、イリスは力いっぱい腕を組み、ぷいっとそっぽを向いてみせた。
そうして「自分は気高き貴族の娘である」という強固なプライドの鎧を纏わなければ、今にも泥の中にへたり込み、子供のように泣き叫んでしまいそうだったからだ。
しかし、無情にも「きゅるる……」と、彼女の気品を粉々に打ち砕く情けない音が腹の虫から鳴り響く。
イリスは一人で顔を真っ赤にし、ついに耐えきれず、太い木の根元にうずくまった。
「寒いですわ……。それに、お腹も空きましたし……」
ガチガチと鳴る歯を食いしばりながら、彼女は雨除けのマントの下から、防水加工された革の鞄を引っ張り出した。かじかむ指で留め具を外し、中から取り出したのは、彼女の最大の武器である『銀のペンとスケッチブック』。
絵を描くことだけは、幼い頃から息をするのと同じくらい当たり前だった。対象の構造をじっくりと観察し、精緻な線で紙に写し取る。それが正確であればあるほど、この銀のペンは描いたものを現実世界に実体化させてくれるはずなのだ。
(図書室の暖炉の前なら、燃え盛る業火の精霊など十秒で描けましたのに……!)
震える手で、真っ白なページにペンを走らせる。カリカリという鋭い音が雨音に掻き消される。
燃え上がる炎の形、薪の質感、立ち上る火の粉。頭の中には完璧な設計図があるのに、寒さとパニックで指先が全く言うことを聞かない。どうしても線がブレてしまい、炎の切っ先は丸くなり、威厳ある精霊の姿はみるみるうちに崩れていく。
これ以上描いても無駄だという焦りの中、彼女はなんとか形にしたページをビリッ、と破り捨てた。
ふわり、と銀色の光の粒子が雨粒を弾いて舞い上がり――ポンッ、と気の抜けた音がした。
「……きゅ?」
現れたのは、猛々しく周囲を乾かす炎の精霊などではない。線が震え、輪郭が風船のように丸く歪んでしまった、足の短い謎の「ゆるキャラ」のような火の玉だった。
パチパチと頼りない火花を散らしながら、イリスの泥だらけの足元で見上げるように首を傾げている。雨粒が一つ当たるたびに「じゅっ」と音を立てて身をすくませる様は、護衛にも暖炉代わりにも到底なりそうになかった。
「もうっ、私の腕まで鈍ってしまったんですの!? 本当に……役立たずですわね……っ」
涙声で悪態をつきながらも、イリスはその微かな熱にすり寄るように両手をかざした。
か弱い炎が放つじんわりとした温かさが、凍えて紫がかった指先を溶かし、張り詰めていた心を少しだけ解きほぐしていく。
少しだけ人心地がついたイリスは、鞄のさらに奥底、油紙で幾重にも大切に包んだ「もう一冊の古いスケッチブック」をそっと取り出した。
雨だれが絶対に落ちないよう、自分の体を丸めて覆いかぶさり、祈るようにページを開く。
古い羊皮紙の匂い。そこに描かれているのは、見ず知らずのご先祖さまが遺した、あの生き生きとした『花畑の絵』。
何度見ても、定規で引いたような冷たい自分の線とは違う。その温かい筆致と、吹き抜ける風の音まで聞こえてきそうな息づかいに、胸が締め付けられる。
この絵を見たから、屋敷という完璧で退屈な鳥籠を飛び出すことができたのだ。
「……こんなところで、泣いて帰るわけにはいきませんわ」
イリスはパタンと古いスケッチブックを閉じ、再び鞄の奥底へとしまった。
そして、幹に手をついてゆっくりと立ち上がる。
役目を終えた足元のゆるキャラ精霊が、フッと光の粒になって空気に溶けて消えた。再び容赦のない冷たい風が吹き付けたが、彼女は泥だらけの顔を上げ、気高く背筋をピンと伸ばした。
雨の向こう。森の木々が途切れた先に、巨大な石造りの壁が黒々としたシルエットとなって霞んで見えている。
箱入りのお嬢様にとって最初の試練となる、「物々交換の街」の正門は、もう目と鼻の先に迫っていた。




