極夜の中で
ボヤっとした視界の中、逆さになった机が目に入ってくる。
倦怠感に負けてそのままぼんやり考える。
また起きてしまったのか、仕事へ行く憂鬱に今日も打ち勝たなきゃいけないのか。
何か楽しさでもあればきっとこの気持ちも我慢出来るのに。
ゲームもアニメもスポーツも、アイドルもお笑いも映画もドラマも勉強も仕事も何ひとつとして好きになれなかった。
それでもこの世界は美しい。
だからきっと僕に問題があるのだ。
僕の中の細い何かが切れた音がした。
あまりにもうるさく鳴り響く携帯に僕は起こされた。
いつの間にか寝てしまっていた様だ。
「……うるさい。」
狭いワンルームに響く自分の声。嫌気がさして壁に携帯を投げつける。
それでもうるさく鳴り続けている携帯を眺めているとお隣から壁ドンが来た。
一体何をしているのだろうか。また人に迷惑をかけて。もううんざりだ。
拾い上げた携帯はまだ震えている。
洗面所でシンクに水をため、そっと水の中に沈める。
抵抗なく音が小さくなった携帯を見て、
水に沈むとなると僕は何分耐えるのだろうとふと思いつく。
自分がいなくなる事を思うと気分はなんとなく軽くなった。
「君はどれだけ耐えられるの?君の性能なんて興味もなくて覚えていないから比べも出来ないけれど。」
小さくなった振動を撫でながら呟く。
昔に比べて独り言が本当に多くなった。
あれはいつだっただろうか。
「君には話す人がいないから独り言でもいいから話した方がいい。じゃないと声が出せなくなるよ。」
誰に言われたかも分からない言葉。
そんな言葉を鵜呑みにして従っていた。
誰だったのか、しかしもうそんなのもなんだっていい。
着替える気力もないまま、財布だけをポケットにしまい、駅へ向かう。
駅に着き、適当に来た電車に乗り込む。
十駅先で降りれば、歩いて数分の場所に目的地がある。
あまりにも眠くて、電車の揺れに身を任せるうちに意識が落ちていく。
「…おにいさん、おにいさん?大丈夫ですか?…おにいさん!やっと起きた!大丈夫ですか?うなされてましたよ。」
はつらつとした、その澄んだ声で、僕の意識は一気に現実へと引き戻された。
声に引き上げられるように、重いまぶたを開ける。
目の前には、おそらく高校生くらいの整った顔立ちの少年がいた。
「あぁすみません。あ、ありがとうございます。」
「大丈夫ですか?冷や汗すごかったから電車内の空気が良くないのかと思ってホームのイスまで運ばせていただきました」
「大丈夫です。すみません…ご迷惑を…ありがとうございました。」
「…何か嫌な夢でも見ましたか?何か辛いことでもあるんですか?」
「……あ、ありません。すみません、ありがとうございます。えっと、行きますね。あっでもお礼にお茶でも買います」
「いいですよそんなの。何処か行かれるんですか?」
「いえ、これどうぞ。えっと、海にでも」
そう答え頭を下げ、あわててその場を後にしようとしたとき。
「…行かないで。」
不意に、手を掴まれる。
少年の真っ直ぐな吸い込まれるような瞳に戸惑い、思わず目を背ける。
「家、海の近くなんです。寄っていきましょ?」
断るよりも早く、強く手を引かれる。
「あの…。僕は海に…。」
僕の言葉を遮るように知らない玄関に押し込まれる。
勢いあまって僕は盛大にこけた。
「いた、ぃたい」
床に膝をついた僕の前に、少年がしゃがみ込む。
「ごめんね。思ったよりお兄さん軽いから勢い余って飛ばしちゃった。」
優しい声で、目を細めて笑う少年に戸惑う。
逃げなきゃ。
そう思うのに、身体が言うことをきかない。
「逃げないで」
低い声。
腕を掴まれ、何か黒いものが視界に入る。
――スタンガン?
「ちょっとビリってするだけだから」
こわい。恐怖で目頭があつい。
逃げたいのに、ただ混乱だけが膨らむ。
「……ごめんね。こんなつもりじゃなかったのに。」
悲しい顔をした少年に頬を撫でられた。
その手はあたたかくて、頭が追いつかない。
震える喉を無理やり動かす。
「……これ、なにしてるんですか」
「君を攫ったんだよ」
あまりにも軽い声で、淡々とそう言う少年が不気味で、冷や汗が首筋を伝う。
「……逃げたい?」
少年はゆっくり立ち上がり、引き出しから紐を取り出し微笑んだ。
紐の感触が手首に食い込む。
「……っ、いた」
「ごめんね。すぐ緩めるから」
「……臓器とか売るんですか」
「違うよ」
少年は少しだけ、哀しそうに笑った。
その微笑みになぜか胸が締め付けられる。
「よしっ。ご飯食べよっか。家に何も無いからさ、買ってくるよ。すぐ戻ってくるから。逃げないでね」
鍵の音。静かになる部屋。
僕はゆっくりと紐を見る。
よし、逃げよう。僕にこれ以上生きる苦しさは耐えられない。逃げないと。こんなことならもっと早く逃げればよかった。
紐はいとも簡単にほどけた。
玄関を抜け出して、ただ走る。
潮の匂いが近づく。息が切れて、胸が痛くて。
――海が見えた。
幸いな事に冬の海には1人として人はいなかった。
バシャバシャと冷たすぎる水に入っていく。心臓が飛び上がるような冷たさだ。
生きる苦しさに比べれば我慢出来る。今まで僕は色んなことを我慢してきたのだ。
冷たい。寒い。痛い。そんな中沖の方へ歩く。
水に抵抗するように一生懸命歩く。足がつかなくなってきた。もう少しだ。この辛さから開放されるんだ。
体全体が水に囲まれる。息ができない苦しさに耐える。耐えきれずに息をしようとすると大量の海水が口に入ってくる。
はたから見たら滑稽な姿だろう。僕が溺れる姿なら見てみたいな。面白く、滑稽な姿を。
水が怖いので目をつぶっていたが目を開けたらどんなのなのだろう。それよりも苦しい。心臓が変な動き方をしているような気がする。
きっと、もう少しだ。苦しい。頑張れ。早く、気を失ってくれ。もう意識が。
良かった。
「ぐはぁっ。おえぇ。」
気持ち悪くて思い切り吐いた後、なぜ生きているのか理解出来ずに周りを見渡す。
「馬鹿!!!!何してんの!!よかった、」
少年が涙目で怒鳴った。声も震えている。肩を掴まれたと思った瞬間、強く引き寄せられる。
苦しいくらいに抱き締められて息が詰まった。
胸元に顔を押しつけられて、温かい水滴が胸元に落ちた。
「こっちこそなにやってんのなんだけど」
僕は邪魔された事の怒りと何故か泣いている彼に困惑して冷たい言い方で突き放した。
「ねえ、二度とこんなこと、…ほんとにやめて。酷いよ、、こんな事になるなら一緒に連れていけばよかった」
「僕にそっちの事情は知らないよ。」
「もう。戻るよ。」
少年は諦めたようにそう言い僕の手をとった。
引かれた手を振りほどく気力もなくて、ただ歩く。
冷え切った身体が、じわじわと痛み出す。
それでも少年の手には熱があった。




