第2話 名前も知らない恋のはじまり
昼休みの図書室は、静かな空気に包まれていた。
本棚の陰から突然現れた金髪ショートの少女―が差し出してきた一冊の文庫本を、俺はしばらく手に取ったまま見下ろしていた。
(……さっきの、なんだったんだ?)
俺に話しかけて、すぐに逃げるように立ち去った彼女の姿が、頭から離れない。
ギャルっぽい見た目に反して、声は小さくておどおどしていて……。
「……ありがと、って言っとくべきだったかな」
ぼそっと呟きながら、俺はその場で文庫本を開いた。
数ページめくると、意外と読みやすくて、主人公の台詞がすんなりと心に入ってくる。
恋愛小説って苦手だったけど、これは――悪くないかも、なんて思った。
昼休みが終わるチャイムが鳴るころ、俺は借りた本を抱えて教室に戻った。
未玲のグループはまだ楽しそうに盛り上がっていた。俺は特に誰とも目を合わせることなく、自分の席へ戻る。
そして次の日――。
昼休み、俺はまた図書室へと足を運んでいた。
昨日の空気が、なんとなく心地よくて。理由を言葉にするのは難しいけれど、自然と足が向いた。
すると、またいた。あの子が。
園宮さんが、昨日と同じ棚の近くで、そわそわと落ち着かない様子で立っていた。
俺が視線に気づいてそちらを向くと、彼女はビクッと肩を揺らし、少しだけうつむく。
「……こんにちは」
気まずさを払うように、俺の方から声をかけると、彼女は小さく会釈した。
「こ、こんにちは……」
「昨日、ありがとう。あの本、面白かったよ」
「……っ」
その言葉だけで、顔をぱっと赤らめる彼女。
(……やっぱ、緊張してるのかな)
俺はなるべく柔らかく笑ってみせる。
相手を怖がらせたくない、ただそれだけなのに、彼女はさらにうつむいて、視線を本棚に泳がせた。
――なんか、すごく人見知りな子なのかもしれない。
「名前、聞いてもいい?」
思い切って聞いてみると、彼女はびくりと肩を揺らしてから、小さく答えた。
「……園宮、栞です」
「園宮さん、栞さん、か。よろしく」
笑ってそう言うと、彼女はかすかにうなずいた。
「えっと、俺の名前は……」
「知ってます! 山城泰介先輩……、あっ…」
「え?」
「そ、その……教室から出てくるところ、見ましたし……あと……名札、に……」
「あ、そっか。名札か……」
俺は自分の胸元を見下ろして、名札を指でつついた。
「まあ、名前は隠してないしね。俺の方が聞いてごめん」
「い、いえっ……!」
園宮さんは大きくかぶりを振ったあと、また口元をきゅっと引き結んで、黙り込んだ。
さっきまで少しだけ顔を上げていたのに、また下を向いてしまった。
なんか、怒らせたか? いや、そうじゃないよな。多分。
とにかく、園宮さんは話すたびにオロオロしていて、悪い子じゃないのは伝わってくる。
そして、なぜか俺には、その不器用さがちょっとだけ可愛らしく見えた。
「昨日の本、続きも読んでみようと思ってさ。おすすめしてくれて、ありがとう」
「……いえ、わたし……あの、好きなだけで……」
「うん。俺も、好きになれそうかも」
そんなふうに言うと、彼女は一瞬だけこちらを見上げて、すぐにまた目を逸らした。
でも、その頬がほんの少しだけ、嬉しそうに緩んだのを、俺は見逃さなかった。
「……また、図書室に来ますか?」
かすれたような声でそう聞かれて、俺はすぐにうなずいた。
「うん、来ると思う。ここ、落ち着くし」
「……わかります」
その言葉には、ほんの少しだけ、昨日よりもはっきりした音があった。
会話はそれで終わったけれど、図書室の静かな空気のなかに、確かに優しい何かが残っていた。
そして、俺はまだ知らなかった。
この静かな図書室で交わした、ぎこちないやり取りが――
これから始まる、少し不器用で、ちょっと優しい恋の、最初の一歩だったことを。