ほのぼのを目指すエッセイとなむいひけるもの~5回目~
桜が咲く頃思い出す。
春が近くなっているのを、夜明けが早くなっている事で確認する、朝5時30分。朝6時には明かり無しでも外を歩けるくらいに成りました。
二月も末が近いので、そろそろ梅が咲いているはずです。梅と桜の見所の違いと言ったら、梅は全体的に木の枝がどっしりしてる所でしょうか。
梅は途中から枝を切って育てるものなので、花が咲く部分は小枝になっています。この小枝の部分にちまちまと紅色の花が咲くの梅の特徴なのかな。
桜はよっぽどの事がない限り、徹底的に枝を伸ばさせて、花房がたくさんできるように育てるので、姥桜とかでない限り、幹がどっしりしたりもしないし、枝も数が多い分そんなに太くなりません。
梅は「楚々」とした様子、桜は「繚乱」な様子を鑑賞する花なのかなと思っております。
僕が小学校低学年だった頃、ソメイヨシノのはずなのに、実が成っている桜の木がありました。大人になってから得た知識としては、ソメイヨシノでも、別品種の桜と交配すると実を付ける事があるそうです。
もちろん、小学校低学年の僕は、そんな知識より「あのサクランボは食べられるんだろうか」と言う事に興味が湧きました。
家に帰って、親と祖父母にその疑問を聞いてみました。「食べるな」「食べれるわけがない」「不衛生だ」と言う意見はくれましたが、食べるとどんな味がするとか、そもそもなんで食べちゃならないのかと言う所は教えてくれませんでした。
なので、当時の僕は、実際に、ソメイヨシノに出来たサクランボを食べてみました。
期待と違って、甘くはなかったです。渋みと苦みと不愉快な酸味があったように記憶しています。飲み込むことが出来ず、ぺって口から出してしまいました。
よく考えてみれば、雨ざらしにされていて、毎日排気ガスにまみれているサクランボをよく食べたものだと思いますが、そんな風に気が回るようになるのは、「疑問の根源」が解消されてからです。
「実が成っている。あれは食べられるのか。食べてはならないと言われるが、何故なのだ」と言う、「何故」の部分を解消したいために、子供と言うのは実体験をしてみるものなのだと思います。
「火傷をした事が無い子供は、ストーブが危険であることが分からない」って、一昔前に言われてたんですよ。
ストーブに触ったら本当に痛いほど熱いのだって言う経験がないから、昔風の火の見えるストーブを使っている家の子供達はストーブに触ってみたがっていたんですね。
そう言う風に、実体験を伴わない知識っていくらでも疑えるし、信用して無い大人達から「あれは駄目これは駄目」って言われても、「お前の言うとることは本当なのか?」って子供は疑問を持つでしょう。
大昔の哲学者のデカルトさんが「全てを疑ってみる」って言う思考実験をしていたのは有名ですが。僕の記憶が確かなら、あの方は身体が弱くて、公認の遅刻が許されていたので、主に寝室で横に成りながら考え事をしていたんですって。
たぶんですけど、自分の感覚で体験した事が少ないと、「この知識は正しいのか。この認識は正しいのか」って言うのを疑ってみたくなるのかなーって、凡俗な僕などは思うのです。
デカルトさんが到達したと言われている、「私は考えている。だから私は居るのだ」って言う、ある種の真理の言葉とやらがあるではないですか。
もっと自分が生物として生きていることを実感できる生涯だったら、そんな事で悩まなかっただろうに…って思う反面、デカルトさんの真理とやらの言葉が多数の方に指示され共感を得るほど、「自分と言う存在は本当に存在しているのか」って言う事に疑問を持ってしまう人々が、世には溢れているんですねぇって思うんですよ。
とてもお腹が空いている時に食べる一枚のバターパンの美味しさとか。とても寒い時に飲んだポタージュスープの温かさとか。散歩をしていて、何処からか花や料理の良い香りが漂ってくる時の和み感とか。空を泳いでいる雲が理想的な美しい形をしていたので嬉しい気持ちになるとか。春先に、皮膚にあたる風がほんのり温かくなって来たことが分かるとか。
そう言う、実体験を通した充足感って、人間が生きる上で必要だと思うんです。全部を疑いたくなるほど実体験が少ないってなると、正常ではいられないですよね(デカルトさん中二病説浮上)。
人間が関わって来る事だったら、音楽を聴いたり、詩や物語を読んだり、演劇を観たり、類友(デカルトさんだったら哲学者仲間?)と会話をしたり。
そう言う、「生きてるって良いなぁ」って言う事が、デカルトさんにはあんまりなかったのかも知れないですね。
因みに、僕が読んだ資料集では、デカルトさんが「真理を発見した」のは、歩いている最中みたいな挿絵が書いてありました。え? デカルトって言う人物、美化されてる? って思いました。
世に不条理を覚える人ほど哲学者になると、何処かの古代ローマの人が言ってましたが、働きもせずに少年達をはべらせておしゃべりに夢中になる旦那を持ってしまった奥さんの苦労を考えると言う「第三者目線」が失われている人ほど、古代ローマ式の哲学者になるのかも知れないと、些末に考えてみるのです。
古代ローマでは、女性は男性の所有物と考えられていて、奥さんが旦那に対して怒るって言うのは非常識だと思われてたんですけど、その哲人の奥さんは、働かない旦那に対してしっかり怒る奥さんだったんですね。
その、しっかり怒る奥さんをもらった、おしゃべりと少年が大好きなソクラテスと言う人物は、「僕の奥さん、僕に働けって言って怒るんだ! なんで『僕ともあろうもの』が働かなきゃならないんだよぉ!」と言う、世の不条理? から、哲学を考えるようになったんですって。
現代の感覚に照らしてみると、ソクラテスさんは「生活保護を受給してギリギリの生活をしているのに家庭を顧みない駄目亭主」なんですけど、おしゃべりが人一倍上手かったおかげで、弟子と多数のファンを得て、後世になってから「哲学者」って言われるようになりました。
家庭を作ったなら、責任は果たしましょうよ、痩せたソクラテスさんよ。
そんな事を考えながら、チョコパイと言う幸せをかみしめています。美味しいです。
(追記:読者様からソクラテスさんはギリシア人であると言うご指摘をいただきました。ローマでの女性の地位も、そんなに低くなかったのではないかと言う旨も。
ご指摘に納得は行ったのですが、僕の頭の中で古代ローマと古代ギリシアがカオスになっているので、書店に文献を漁りに行く旅に行きます。つまり、この話…続きます)
本当は、春が近くなって来たねぇって言う事だけ書いて、僕流の「哲学者って結構痛い人達だぜ」って言う解説は書かない事にしようかな…文章を綺麗にまとめようかな…って思ってたんですけど、彼等のアイタタタって言う所を僕の心の中だけにしまっておいても、つまらないじゃないかと思って、此処に公開しました。
一頻り面白がりましたが、ほのぼのから離れて言っているような気がしてならない。