53 暗転④
しばらくすると、アルジャーノンが戻ってきた。彼は振り向き様に部屋の中に向かって手を振った後、ドアを閉めた。それまで笑顔だった彼は瞬時に表情を引き締め、私たちのもとにやってくる。
「結構話ができたよ。いろいろ気になることはあるけれど、まずはカトレア姉様も話しに行ってみてよ」
「……大丈夫かしら」
「少なくとも僕と話している間のエディは、ちょっと元気がなくて長く喋るのが辛そうだったけど、以前君と話しているときに出たという症状は見られなかった。それに、姉様と話がしたいって言っていたんだ」
アルジャーノンが縋るような目で私を見ている。彼にとってのエドウィンは「友だち」と呼べるような存在なので、アルジャーノンもエドウィンが復活することを願っている。
それに、エドウィン本人が私と話がしたいと言っているのなら、まごついている場合じゃない。
私は背筋を伸ばし、頷いた。
「……分かった。キティ、アルジャーノンを客間にお通しして。エディとの話が終わったら私もそちらに向かうわ」
「……かしこまりました」
「あとで打ち合わせしようね」
アルジャーノンとキティを見送り、私は寝室のドアをじっと見つめた。よくある木製のドアだけど、今はそれが処刑場に繋がる鋼鉄の門扉であるかのように感じられた。
ドアをノックし、名乗る。中でゴトッと物音がしたけれど、「お入りください」と言うエドウィンの声が聞こえたので一安心だ。
部屋に滑り込むと、ベッドに横たわるエドウィンが私を見ていた。目はしっかり開いていて、以前のようにまどろんでいたり目の焦点が合っていなかったりするわけでもなさそうだ。
「……その、エディ。近づいてもいい?」
「もちろんです。……どうか、こちらに来てください」
そう答える声は掠れているけれど、ちゃんと聞き取れた。
動けないエドウィンの側の椅子に座ると、彼は震える手を持ち上げてきた。
「……触れたい。あなたの、頬に――」
「……ええ。私も、あなたに触れてほしい」
遠慮がちに囁かれたのは、謙虚すぎる彼の我が儘。
体が辛い彼のために身を乗り出すと、エドウィンは嬉しそうに目尻を緩ませて私の頬に触れてきた。その指先は相変わらず冷たいし、かさかさに乾燥している。水分が足りていないのだろう。
「エディ、ご飯は食べられた? 水は飲んだ? 何かほしいものはない?」
「さっき食べました。水も、飲みました。……ほしい、ものは」
「ええ」
「……あなたとお喋りしたいです。本当に、たわいもないことでいいので、たくさん、喋りたいです」
彼が望むのなら、なんでも持ってこようと思っていた。だから彼の願いが「お喋りしたい」であると知って、正直拍子抜けだ。
「……お話をするだけでいいの?」
「いいんです。それが、俺にとって、かけがえのないものなんです」
そう言ってエドウィンは微笑む。笑ってはいるけれど、その笑みには以前のような覇気はない。体は辛いけれど、私に会えたのが嬉しいから、一生懸命笑顔で気持ちを伝えてくれている。
……本当は、以前うなされていたときのことを聞きたい。「ちがうんです」「だめです」が意味するのは何なのか、聞き出したい。
でもきっと彼はそれを望まない。彼の願いは、「たわいもないことでいいから、たくさん喋る」こと。うなされていた原因を解明することじゃないんだ。
話をするだけでいい……そう言われて、まるで彼が死を予期しているんじゃないかという不安がちらっと胸に芽生えたけれど、私は努めて笑顔で頷いた。
「……うん。分かった。でも、エディも体が辛いよね。だからあんまり長い時間は居られないけれど――たくさんお喋りしましょう」
そう言って、さっきから私の頬に愛おしげに触れていたエドウィンの手に自分の手を重ねる。
私より大きくて分厚かった彼の手が今は薄く頼りないものに感じられるのは、きっと気のせいじゃないはずだ。
エドウィンの願い通り、私たちはとりとめもない話をして過ごした。
話題は、「最近のサイネリア様」とか、「今日の朝ご飯で食べたデザートがおいしかった」とか、「子どもの頃の思い出話」とか、「前世の私」とか。
エドウィンは長く喋るのが辛いみたいで、話しているのは専ら私だったけれど、どの話をしているときもエドウィンはすごく嬉しそうに微笑んでいて、「そうなんだ」「それ、いいですね」「へえ、知らなかった」と、相槌を挟んでくれる。時折小さく咳き込んだけれど、すぐに侍医を呼ばなければならないほどじゃないみたいで安心した。
「……ねえ、エディ。体調はどう? 見たところ、今日は安定しているみたいだけれど」
話が一段落ついたところで私が思いきって尋ねると、エドウィンはそれまでの陽気な笑顔を引っ込め、少し困ったように眉根を寄せた。
「うーん……俺も、今日は調子がいいみたいです。メシも食べましたし、アルジャーノン殿下とも話をしました」
「そう、よかった。それじゃ、こうしてしばらく体を休めていればきっとよくなるわね」
キティもそうだったけれど、エドウィンが回復するということに確信があるわけじゃない。でもエドウィンを――それ以上に自分自身を勇気づけたく、努めて笑顔でそう言った。
でもエドウィンは難しい顔のままで、私から視線を逸らしてベッドサイドのテーブルを睨むように見ていた。
「……エディ?」
「……カトレア様。俺の体調が安定していて、あなたとお喋りができることで、あなたも心穏やかでいられる――それは分かっております」
「う、うん?」
「でも、それじゃだめです。……すみません、カトレア様。どうか、俺が苦しんでも、おかしくなっても、最後まで話を聞いてください」
いきなり、エドウィンは早口になって言いつのってきた。
まるで、何かから逃げようとしているかのように。何かに追いつかれる前に私に何かを託そうとしているかのように、急いた様子で言う。
そして彼は私の意見を聞くことなく、いきなり体を起こした。
「えっ!? ちょっと、エディ――!」
「愛してます、カトレア様! この世の誰よりも、愛しているんです!」
私の方をきりっと見据えてそう言った、瞬間――エドウィンは目を剥き、げほっと噎せた。
体が小刻みに震えて、目を見開く――その姿はまさに、あの夜に起きた発作と同じ。
――どうして?
「やっ……! だめ、エディ! 黙って、そのまま寝て――」
「っぐ……カトレア、さま……本当に、あなたは、優しい……でも、もういいんです」
苦しそうに喘ぐその体を抱きしめていると、エドウィンは弱々しい声で囁く。震える両手で私の背中にしがみついているけれど、今にも離れてしまいそうなほど握力も弱い。
黙っていればいいのに、苦しいのに、彼は必死になって言葉を紡ぐ。
「エディ、変なことを言わないで! 明日もちゃんと、お喋りに来るから! だから今は――」
「カトレア様、俺が、死んだ後、どうか――と、――になっ、て、くださ……」
血を吐くような――いや、私の肩口でげほっと噎せたエドウィンは、本当に血を吐いた。
べったりとした生温かい感触が私の肩から胸に掛けて広がり、ぎょっとすると同時に、目の前の愛しい人が吐血したという事実で頭の中が真っ白になってしまう。
「エディ! やだ、なんで……だ、誰か! 誰か来て!」
「姉様!?」
「カトレア様!」
ばんっ、ばん、とドアが開く。二回音がしたのは、廊下側のドアからアルジャーノンが、続き部屋から侍医が駆け込んできたからだ。
私は口元を真っ赤に染めて気絶したエドウィンの姿を見て何もできなかったけれど、アルジャーノンが私を抱き寄せてエドウィンから引きはがし、侍医がエドウィンを寝かせて処置を始めた。すぐにキティも飛んできて、血まみれの私を見て悲鳴を上げていた。
「まあっ! カトレア様……!」
「キティ、キティ! エディが……し、死んじゃう!」
アルジャーノンの腕から逃れようともがきながら、私は青い顔をした侍女に必死に呼びかけた。
「エディが、お、俺が死んだ後って……そんなこと言って、血を吐いて――!」
「分かった! 分かったから、姉様は向こうに行こう!」
「嫌! エディが苦しんでるのに、私、私がエディを止めてれば、こんなことには――!」
「自分を責めないでよ! 姉様、あなたは今混乱している。ここから離れるんだ!」
いつもふわふわとしていて天使のようなアルジャーノンが、初めて私に対して――いや、ひょっとしたら人に対して初めて、声を荒らげた。
細くて小柄な彼らしくもない力でベッドから引きはがされ、そのままキティにも両脇から抱えられて私は寝室から引きずり出されてしまう。
エドウィンがさっき吐いた血は、今は冷たくなってしまっていた。吐いた直後は生温かいと感じたのに。
……エドウィンの体も、こうなるの?
冷たくなるの――?
「カトレア様!」
キティが私の名前を呼んでいる気がする。
でも、それ以外は何も分からなくなった。




