49 ぬくもりの行方
R15
ティータイムから夕食までの間の記憶は、ほとんどない。多分、部屋に戻って読書したり刺繍でもしたりしたんだろうけれど、覚えていない。
『夜、俺からお返ししますんで。覚悟していてください』
甘く蠱惑的に囁いた言葉がいつまでも耳の奥に残っているようで、気を抜けば彼の眼差しと吐息の熱さ、囁かれた言葉の甘美さがまざまざと思い出され、腰がとろけてしまいそうになる。
ふわふわとした気持ちのまま夕方まで過ごし、夕食を食べ、寝仕度を整えた。
ティータイムのときに唯一側にいたキティは何も言わなかったけれど、真面目な顔で例の媚薬の瓶を差し出してきた。
彼女の言わんとすることを察し、私は頷いて瓶の中身をしっかり体に塗り込んだ。飲んでもいいとは書いていたけれど、それは今回の様子を見ながらまた今度の機会に、ということにしておく。
下着とネグリジェはどっちも白系統ですごく可愛いデザインだけど、キティ曰く「とても脱がしやすい」構造になっているらしい。寝室まではキティに同行してもらい、寝室前の廊下で別れた。「よい夜を」と告げたときのキティは、慈愛に満ちた優しい眼差しをしていた。
いつも通り、エドウィンの方が先に仕度を終えてベッドに腰掛けて待っていた。彼は私を見て大股で歩み寄るとひょいっと抱き上げ、そのままベッドに直行した。
ベッドに座らされ、履いていた柔らかいルームシューズを丁寧に脱がされる。そうして身を起こしたエドウィンは私の肩に両手を置き、キスしてきた。
「……カトレア様。俺、幸せです」
触れるだけのキスの合間に囁いた彼の表情は見えないけれど、呼吸は荒くて抱き合った体もいつもよりずっと熱い。背中に手を宛うと、繊細なガラス細工でも扱っているかのように丁寧にベッドに寝かされた。
アッシュブロンドの巻き毛がシーツに零れ、冷えた布の感触が背中を震わせる。でも、ベッドに両腕を突っ張って私をじっと見下ろす灰色の眼差しを受けているとすぐに体が熱くなり、うるさいくらい心臓が高鳴ってきた。
「あなたは、飾らなくても、背伸びしなくても、俺を愛してくれる。そう思うと……すげぇ嬉しいし、胸が苦しくなるくらい幸せな気持ちになれます」
薄闇の中、微笑んだエドウィンの唇の隙間から白い歯が覗いている。彼の犬歯は人よりちょっと大きめらしく、鋭い牙を前にするとそれこそ、猟犬に襲われた獲物の気持ちになる。
……いや、あながち間違いじゃないだろう。
私はエドウィンに捕らわれ、食われようとしている。
そして捕食対象たる私が、それを強く望んでいる。
熱っぽい目を細め、エドウィンは腕を折り曲げて私の首元に顔を寄せる。そしていつも彼が好んでやっているように首にキスを落とし、軽く噛みながら、ネグリジェの襟元を飾るリボンに触れた。
……キティが推してきたこのネグリジェは、襟元のリボンで服全体を支えている。つまりこのリボンを解かれたら、いとも簡単に剥かれてしまうんだ。
「エディ……」
「あなたがほしい、あなたを抱きたい。カトレア様、俺、待ちました。ですから……どうか、お情けをいただけませんか」
こんなときでも、彼は臣下の態度を崩さない。
本気になれば、私を組み敷いて問答無用で抱くことだってできるはず。でもそんな行為は絶対にせず、最後まで私の意志を尊重し、謙虚な姿勢を貫いている。
本当に、この人は――
「ていっ」
「――いっで!?」
「エディ、私はあなたにあげる情けなんて持っていません」
額に手を当ててぽかんとするエドウィン。
私はベッドに仰向けになったまま、めっ、と指を立てて彼を見上げた。
「普段は、姫婿としての立場を貫かなければならない事情も分かるわ。でも……今の私たちは王家の姫と婿じゃなくて、夫婦なんだから。……あなたはずっと、私のことを思ってくれた。我慢して、待ってくれた。だから、今夜は……どうか、あなたの思うままにしてください」
私にしてはかなり勇気のいる台詞だった。
言い切った後、私は緊張のため何度も深呼吸する。体全体が心臓になったかのようにバクバク鳴る音がばかでかく聞こえて、体は熱いのに指先は冷たくなっている。
エドウィンも同じように思ったようで、えっ、と驚いたような声が上の方から聞こえた。
「そんなこと軽々しく言わないでくださいよ! そんなことを言われたら俺、本当に好き勝手やっちゃいますよ!? 俺、なんというか……初めてですし、最後まであなたを気遣えるって自信もないのに」
「初めてなのは私もです。……だったら初めて同士、一緒にやっていきましょう」
許してほしい、とか情けがほしい、とかじゃなくて。
手探りでいい、ちょっと乱暴になってもいいから、あなたに全てを委ねたい。
エドウィンの目が潤み、そして頬にちゅっと柔らかいキスが落とされた。
「カトレア様……ありがとうございます。愛しています」
「私も愛してるわ。……優しくしてね?」
「が、頑張りますっ!」
エドウィンは一度にっこり笑った後、すぐに真剣な顔になって私にキスの嵐を降らせてきた。
頬、唇、耳、喉、鎖骨、と彼の唇が余すことなく私の肌を愛撫し、その男らしい手がネグリジェを脱がしに掛かってくる。
「エディ……あっ」
「愛しています。カトレア様――ッぁ」
ややぎこちなくもネグリジェを脱がされ、胸に触れられた――と思ったとたん、エドウィンが弾かれたかのようにいきなり体を起こし、両手で顔を覆った。
くしゃみでもするのかと思ったけれど、彼はその格好のまましばらくの間動かず、やがて体を小刻みに震わせ始めた。
「ッ……ぅ……」
「……エディ? ちょっと、どうしたの?」
今この場でくしゃみかぁ……そりゃ生理現象だし仕方ないけど……と思っていたけれど、さすがに様子がおかしい。
甘い期待と快感に浸っていた体に鞭打って私は上半身を起こし、顔を手で覆ったまま前傾姿勢になったエドウィンの腕に触れ――その冷たさに、ざあっと体中の血液が凍るように思われた。
薄いシャツ一枚のエドウィンの体はびっくりするほど冷たく、痙攣しているかのようにガクガク小刻みに震えている。緊張のための冷や汗とか、そんなレベルじゃない。
そのまま彼は体をぐらつかせ、私の胸に寄り掛かるように倒れ込んできた。
「エディ!?」
「カトレア……様……俺、なんだか、おかしい……」
切れ切れに告げるその声もまた震えていて、私を見上げる顔はランプの明かりがおぼつかない中でも、病的なほど青白いことが分かる。
エドウィンの体調がよくない。
私はすぐさま彼をベッドに寝かせ、ネグリジェを着る間も惜しんでベッドサイドのベルを鳴らしまくった。
「キティ! すぐ来て、キティ!」
私たちが二人きりの夜を過ごせるよう、キティはいつもより離れた部屋で休んでいるのだろうか。なかなかキティが来てくれず、私は半ばやけくそになりながらベルを鳴らしまくった。
ガンガン鳴らし、勢いあまって私の手からすっぽ抜けたベルが壁にぶつかって哀れな音を立ててようやく、ランプを手にしたキティが駆け込んできた。
「カトレア様、どうなさったのですか?」
「エディの様子がおかしいの! 医者を呼んで!」
ベッドに横伏せになって震えるエディの背中を撫でながら、私はひっくり返った声で叫ぶ。
どうしよう、なんで、エディが、と頭の中は大混乱で、キティに指示を出しているのはもはや本能のなせる技だろう。
「いきなり苦しみ始めて、震えて――お願い、早く!」
「か、かしこまりました! すぐに皆を起こし、医者を呼びます!」
キティもエドウィンの様子がただならないと分かったのか、最初はおずおずといった様子だったのが一転、すぐに廊下を駆け戻っていった。
キティが皆をたたき起こして回る音を遠くに聞きながら、私はエドウィンの顔を覗き込む。彼は固く目を閉じ、荒い息をつきながら半分気を失っているようだ。顔は冷や汗でびっしょりで、きつく固めた拳が震えている。
「エディ……」
ついさっきまでは、幸せの絶頂にいたはずなのに。
今私の目の前にいる愛しい人は、生死の境を彷徨っていたのだった。




