25 ペットでもいい
夜になるのがこんなに長く感じるのは、初めてかもしれない。
今日の昼過ぎ、エドウィンは私の体調を確認した後、仕事に戻っていった。程なくしてサイネリアたちが戻ってきたのでいろいろ事情を説明し、私たちは城に戻った。本当はこの後もサイネリアと打ち合わせすることがあったけれど、「今日はもう離宮に戻りなさい」と言われたので、謝罪しつつもありがたく本城を辞した。
エドウィンは真剣な眼差しで、「お伺いしたいことがあります」と言っていた。それに対し、「えー、何だろう?」と思うほど私は馬鹿ではない。
風呂に入り、寝仕度を整えて寝室でエドウィンを待つ。間もなく彼はやって来たけれど、いつもの快活な笑顔は欠片も見えず、緊張が明らかなほどその顔は引きつっていた。
「……隣、どうぞ」
「……失礼します」
お互い言葉少ななまま、私たちはベッドに並んで腰掛ける。
夜、どちらも寝間着、真っ白なベッドの上で二人きりというシチュエーションだけど、そこに艶めいたものは存在しない。むしろ、ピリピリと肌を刺すような緊張で満ちている。
「……お休み前にすみません」
「いいえ、気にしないで。……お話を、どうぞ」
律儀に頭を下げる彼を促すと、エドウィンは膝の上に置いていた拳をぐっと固め、しばらく目を閉じて深呼吸した後、灰色の目を開いた。
「……俺、ちょっと前から気になっていたことがあるんです。でも、俺の気のせいだろうし、まさかそんなことは起こるまいと思ってました」
――どくん、と心臓が嫌な音を立てる。
「でも今日、訓練中に騎士団仲間からあなたの体調不良を聞いたとき――言われたことがあるんです。それを聞いて、俺の不安はますます強くなっていって――このまま、なあなあにしたくないと思ったんです」
――どくん、どくん、と体中が心臓になったかのように、耳の後ろで激しい脈動を感じる。
灰色の目は逸れることなく、真っ直ぐ私を見ている。もともと鋭い目つきをしているけれど、今の彼の眼差しは泣きそうで、辛そうで――見ているだけで、呼吸が苦しくなってくる。
彼にそんな顔をさせているのは――私だ。
「……教えてください、カトレア様。あなたは――ジルベール殿下を、愛しているんですか……?」
彼にこんなことを聞かせたのも、愚かな私だ。
脳みそがぎゅっと絞られたかのような感覚。
体中の血液が凍り付いたかのように、全身から温もりが消える。
それなのに心臓だけはさっきからフルに活動していて、私自身自分の体が今どうなっているのか分からず、真っ直ぐにこちらを見つめる夫をただただ見つめ返すことしかできない。
私は、何と答えればいい?
「そんなわけないでしょう!」と驚いたように反応する? ……いや、エドウィンは確信をもって問うているのだろうから、あまりにも白々しすぎる。
だからといって、「そうなんです」と認めればいいかっていうと、そうじゃないだろう。それはきっと、エドウィンが一番望まない返答だろうから。
それじゃあ、どうすればいい?
私が答えに窮している空白を、エドウィンは是の答えの代わりだと受け取ったようだ。
その灰色の目からふっと光が消え、「……そうだったんですね」と力のない言葉が唇から漏れる。
「なんとなく、そんな感じはしてたんです。あなたがジルベール殿下を見るときの目は熱が籠もっていて、俺に見せるときの眼差しとは全然違っていて――でも、それは憧れの一種みたいなもんだろうと、自分に言い聞かせていたんです」
でも、今日、仲間が――と、彼は落ち込んだ声で淡々と続ける。
「俺に言ったんです。あなたが――カトレア様がジルベール殿下と話しているときの表情は、恋をする女性のそれだったと」
――それはきっと、今日オペラハウスの庭園で護衛をしていた騎士の誰かだろう。
彼が訓練中のエドウィンを呼びに行ったとなれば、ある程度の事情説明、そして――明らかに様子のおかしかった私に関する報告をしてもおかしくない。
気を付けていたのに。
やっぱり私は、弱くて、愚かで、冷酷な人間だった。
何も言葉を返せず、かさかさに乾いた唇を意味もなく開閉させるだけの私を見て、エドウィンは何を思っているのだろうか。
「そいつ、俺に忠告してきたんです。もしかするとカトレア様は本当はジルベール殿下が好きだったけれど、いろいろ考慮しておまえを選んだ。おまえは『女王家のペット』になったんじゃないか、ってね」
「そんなことない――!」
それまではうまい言葉が出てこなかったのに、驚くほど素直に否定の返事が口を衝いて出てきた。
「女王家のペット」――それは女王制のエルフリーデ王国において、王女や姫に婿入りしながらも妻の愛情を得られなかった男に対する蔑称だ。
世の中は、女王家の娘に対して非常に甘い。王太子でない王女や姫の一番のつとめは、エルフリーデ王家の血を継ぐ子をたくさん産むことだ。
極端な話、夫は誰でもいい。王族女性が産んだのであれば、父親が誰であろうと女王家の子であるからだ。
王女や姫の婿になった男はエルフリーデ王国の男性の中ではトップクラスに位置することになるから、当然尊敬される。でもそれは、妻の愛情を一身に受けられた場合に限る。
過去には、王配を持ちながら何人もの愛人と浮き名を流し父親不明の子を何人も産んだ女王がいたり、最愛の人を婿に迎えながら浮気をし、夫を追放して若い愛人と再婚した姫がいたりと、かなりアレなケースもあったそうだ。
そういった行為に対して国民が非情になりきれないのは――誰もが、偉大なる初代エルフリーデ女王の血を継ぐ王族を優先させているからだ。時代によっては女王によって王女や姫に対し、「夫以外の男と関係を持ってもよいから、とにかく子を産め」という命令が下ることもあったという。
女王や王女、姫から一番の愛情を受けられなかった婿や恋人は、「女王家のペット」と陰で囁かれる。もちろんそんなことを堂々と言えばよくて重罰、最悪処刑だ。でも、そういった差別も甚だしいスラングが存在するという時点で、エルフリーデ王国における王族女性の絶対的存在、そしてその婿となった男の立場の危うさが見て取れる。
とりわけ、エドウィンのように後ろ盾のない状態で婿入りした男性は「女王家のペット」となる確率がぐっと高くなる。「カトレア」もエドウィンも、それを承知した上で結婚したんだ。
それなのに――
「それは絶対に違う! 私はそんなつもりであなたと結婚したわけじゃ――」
「カトレア様、あなたはお優しいですね」
すぐさま反論しようとしたのに、エドウィンはやんわり私を止めてくる。
お優しい――こんな私が、優しいだって!?
でもエドウィンは私のさらなる反論を私の口を手で塞ぐことで封じ、微笑んだ。
悲しそうな、悟ったような、彼らしくもない儚い笑顔だ。
「いいんです。いいんですよ、カトレア様」
「……はにが?」
「俺、ペットでもいいです。あなたがジルベール殿下を愛しているのなら、それでいいです。離婚は嫌だけど……名ばかりでも夫として、あなたを守る騎士としていられるなら、最愛じゃなくてもいいんです」
ゆっくりと、噛みしめるように告げられた言葉に、私は目を見開いた。
ペットでもいい?
エドウィンは……何を言っている?
「きっと、ジルベール殿下を想っているけれどうまく思いを伝えられなくて、仕方なく俺の求婚を受けてくださったのでしょう。初夜、あなたを抱こうとしたときに嫌だと言われたのも、恥ずかしかったからとかじゃなくて、好きでもない男に抱かれたくなかったからだったんじゃないですか?」
言い返せなかった。
今になって、あのとき従順に体を委ねなかった自分が憎らしく思えてくる。
現状に不満があろうと、嫌だろうと、大人しく彼に抱かれていればこうはならなかったかもしれない。
反論できなかった――それはつまり彼の言葉を肯定したも同然だ。
それでも、エドウィンはなおも穏やか眼差しで続ける。
「俺、あなたの気持ちをちゃんと考えて差し上げられなかったんですね。俺一人調子に乗って、あなたを振り回して――本当に申し訳ありませんでした。これからは、ジルベール殿下とゆっくりお過ごしくださればいいですよ。それであなたが幸せなら、あなたの笑顔をすぐ近くで見られるなら、俺はそれだけで十分なんです」
……どうして、こんなことを言うんだ。
いや、違う。どうして私は、彼にこんなことを言わせているんだ。
ジルベール様への未練を断ち切れなかった。冷静でいようと努めたのに、いざ彼とのイベントもどきが発生すると、狼狽えた。第三者からすれば、私がジルベール様に浮気していると考えてもおかしくない状況だった。
「女王陛下は……あなたのことが大切だから、きっとご理解なさるでしょう。でも俺、ちゃんと夫としての責務は果たします。ですから……お飾りの夫でも、ペットでも、虫除けでも、なんでもいいから――どうか、これからもお側に置いてください。俺の願いは、それだけです」
「ま、待って! 私はそんな酷いことは、望んで――」
「こんなときまで俺を気遣ってくださり、ありがとうございます。でも、大丈夫です」
何が大丈夫なものか。
エドウィンはさっきよりだいぶすっきりした顔になっていた。自分の言いたいことは全部言った、ってところだろうか。
彼はベッドから降りるとその場に膝をつき、「失礼します」と一言断ってから私の左脚を持ち上げ、柔らかいルームシューズを脱がせた。そして私が何か言うよりも早く身を屈め、何も履いていない足の甲にそっと、唇を落とした。
――足の甲へのキスが表すのは、「隷属」。
この世界でも、その認識は同じだ。だって、日本産のゲームだし。
「たとえあなたが俺を愛していなくても、俺の忠誠と愛情はあなただけに」
「っ……嫌……! 待って、エディ! 話を――」
立ち上がったエドウィンは、もうこれからこの寝室で眠るつもりはないのだろう。
私も急ぎ立ち上がるけれど、片足だけ履き物を脱がされているから、ずるっと滑ってしまう。慌てて両手を前方に突き出したけれど、床に転ぶよりも早く脇から伸びてきた腕が私の腹に回り、支えてくれた。
それができるのは、エドウィン一人だけ。
「エディ……」
「……許可もなく御身に触れてしまい、申し訳ありません」
彼は硬い口調で言うとそっと私をベッドに座り直させ、目を閉じて一礼した。
「俺は今夜から、空き部屋で休みます。……ご安心を。明日からもあなたの夫として恥じないよう行動しますし、あなたの名誉を汚すような噂は決して流させません。騎士団の皆はうまく言いくるめますので、あなたは公務をなさり、ご自分の願いのまま行動なさってください。……おやすみなさい、カトレア様。俺の、愛するあなた」
……私の夫は真面目な顔で妻の浮気を推奨し、そしてきびすを返した。
その背中が表すのは――拒絶。
早足で出て行った彼はもう振り返ることはなく、ドアは静かに閉められた。