2 町中にペンギンはおかしいと思う
私は、加藤れな。
そこらに掃いて捨てるほど存在する、くたびれたOLだ。
うちの会社の社長は、始業時間に遅れたら「時間を守れないなんて社会人失格だ!」とブチ切れてヒステリーを起こすくせに、終業時間には緩い。自分はさっさと退社してお気に入りのガールズバーに行くくせに、私たち社員には「終わるまで帰るな!」と命じるお方だ。しかも残業代をケチる。さっさとくたばれ。
今日も今日とて、私は華麗なる残業を果たしてきた。終電までには時間があるけれど、帰宅したら午前様になってしまうだろう。明日が午後出勤なのがまだ救いだ。
大学を卒業してすぐに今の仕事に就いたので就職難民にならずに済んだのはありがたかったけれど、社長が最低だった。あれはゴミだ。粗大ゴミだ。
入社数日にして、「あ、ここヤバいわ」と気づいたものの、社長がゴミなだけで先輩は優しいし、基本給は悪くなかった。それに社長の一人息子がとてもできた人なので、彼が海外留学から戻ってきて父親に代わって社長になるまでの辛抱だ、と皆で声を掛け合って頑張っている。
会社を出て、駅に向かう。私が勤める会社は都内だけれどちょっと外れにあるので、この時間になると付近の人の往来はぐっと減る。
私は腕時計で時間を確認した後、この調子なら余裕で終電に乗れそうだと判断したため近くの公園に立ち寄ってベンチに腰掛け、鞄の中からポーチを取り出した。
そこから出したのは、スマホ。すぐに機内モードを解除し、アプリを起動した。今日最後にプレイしたのは昼休憩のときだから、そろそろ体力も回復しているはずだ。
毎日忙しい私の癒しとなっているのは、「シークレット・プリンセス~思いの花を君に~」という恋愛シミュレーションゲームだった。いわゆる乙女ゲームというやつで、攻略対象のルートを選択してイケメンたちとの甘い日々を送るという物語。
いくつか似たようなアプリをやってみたけれど、今の私はSP――シークレット・プリンセスの頭文字を取った略称だ――にどっぷり浸かっていた。スチルはきれいだし、有名声優のボイス付き。公式のサポートも手厚くて、季節配信イベントも豊富。
それになんといっても、私にはこのストーリーが気に入った。主人公は十六年間田舎で育ったのだけど、ある日突然「あなたはエルフリーデ王国の姫なのです」と言う遣いがやってきて、わけも分からぬまま王城に連れて行かれる。そこで主人公は、自分の母が現女王の姉で、駆け落ちした後行方不明になっていたこと、自分がエルフリーデ王家の血を継ぐ者であると説明される。
ここで、「あなたは次期女王です」と言われたら、「いや、いくらなんでもムリっしょ」となるけど、主人公は次期女王である従妹サイネリアの補佐として立派なレディになるよう命じられる。女王が姪である主人公を気に懸ける理由も側に置きたがる理由も説明されていて、主人公はいろんな人と接しながら淑女教育を受けていき、イケメンと恋に落ちるってストーリーだ。
ちなみに私の最推しは、正当派王子様のジルベール。煽り文句は、「とろけるほどの愛情をあなたに」。甘いマスクのキャラデザインもさることながら、私の大好きな某声優がボイス担当、しかも煽り文句のとおり、とろっとろに甘やかしてくれるというのは疲れたOLである私にぴったりだった。メインストーリーのフルボイスシーンは、イヤホン着用必須だ。リップ音付きのシナリオなんて、マジで腰が砕ける。
真っ先にジルベールルートを全て踏破した私だけど、他のキャラを選んだらスチルがもらえるし、限定アバターが手に入る。そういうわけで現在、ジルベール最推しだけど他のキャラのルートも進めている。
アプリを起動し、タイトル画面で――あっ、嬉しい。ジルベールが「シークレット・プリンセス」ってタイトルを読み上げてくれた。今日はいいことがありそう。あと十五分で終わるけど。
予想通り、昼から一切触っていないので体力――淑女教育を受けるためのポイントが全回復していた。画面には、現在ルート選択しているキャラの立ち絵が映っている。
うーん……今私が進めているルートのキャラ、もうすぐエンディングなんだけど正直そこまでノれなかったな。
「一途な愛情をあなたに」が煽り文句の年下わんこ系騎士なんだけど、体育会系の彼はちょっと見た目がチャラくて声がでかく、目つきが鋭いを通り越して獰猛で怖い。「そこがいい!」というファンもいるけど、私には合わなかった。でもエンディング後にもらえるアバターのドレスがすごく可愛いから、なんとか進めている状態だ。
指先で画面をタップしていた私は――ふと、目の前を何かが過ぎったように見えたため、顔を上げた。
ああ、なんだ。大きい犬かと思ったらペンギンだった。
再び画面に視線を戻し、「レッスン開始!」をタップする。
……。
……いやいや、ペンギン!?
思わず二度見する。
やっぱりそこにはペンギンがいた。
街灯が等間隔に並ぶ市街地。車の通りも寂しくなっているこの時間、ぺたぺたと歩いて私の目の前を通過していったのは、紛れもなくペンギンだった。あれは確か――フンボルトペンギンだったか?
最初は、ペンギンの着ぐるみをした子どもかと思った。でも、そうじゃない。体を左右に揺らしながら歩く様はまさに、動物園にいるペンギン。町中に、ペンギン。
私はペンギンを見、画面を見、もう一度ペンギンを見、そして「レッスン開始!」をタップして体力がある程度減ったのを確認して、スマホをポーチに入れた。
ペンギンは、ひょっこひょっこと怪しい足取りで公園の前を通り過ぎていった。バッグを担いだ私はすぐにそのあとを追い、街灯に照らされた不気味なシルエットをじっと観察する。
この辺には動物園も水族館もない。ペンギンを誰かが飼うとも思えないし……疲労のあまり幻でも見えた? いや、確かに私の前方十メートルほどのところにペンギンがいる。
ひょこひょこ揺れながらペンギンは人気のない歩道を進み――夜間のため信号の明かりの消えた横断歩道へ向かった。
え、これ、まずくない?
案の定、ペンギンは左右を見ることなくひょこひょこと横断歩道を渡る。でも、ペンギンの右の方から、車のライトが――
私はバッグを放り、だっと駆け出した。
無謀じゃない。ちゃんと勝算はあった。
近づく車の速度、ペンギンの位置、そして私の走る速さから、車が来る前にペンギンをふん捕まえてそのまま横断歩道を渡りきることができる、という予測が立っていた。
私は横断歩道に飛び出し、ペンギンに向かって両手を差し出した。相手は小柄なペンギンだ。並程度の握力しかない私だけど、両手で抱えられるはず――
だったのに。
ペンギンが、振り返った。
そのつぶらな瞳がほんの少しだけ大きくなった――と思った瞬間、ふっとペンギンの姿がかき消え、私の両手がすかっと宙を掻いた。
「えっ?」
ペンギンを捕まえる気満々だった私はそのまま前のめりに倒れ、両手をアスファルトに突くこともできず、ずでんっとその場に倒れ込んでしまった。
「うぁっ!」
視界が揺れ、横倒しになった私の視界には、九十度回転した世界が広がる。
どうして、なんで、と思う間もなく――背後から、クラクションが迫ってきた。
灰色のアスファルトが煌々と照らされ、そして――
衝撃と、痛み。
でもそれも一瞬のことで、轢かれた、と理解するよりも前に、私の体中の力という力が抜けていった。




