12 推しの試練
女王陛下の謁見を終えて、やれやれ一息――といきたいところだけれど、午前中に挨拶を済ませないといけない。
そして、本日私が一番懸念している事案も――
「カトレア、エドウィン。このたびは結婚おめでとう」
早速来た。
今日の挨拶回りは私たちに皆が会いに来るという形なのでソファに座って待っていたら、真っ先に私の推しが登場した。
黄色い薔薇の花束を携えてやって来たのは、ジルベール様。女王陛下譲りのさらさらの金髪に、王配殿下譲りらしい水色の目。常に微笑みをたたえていて、世界中の女性に優しく、男性からの評判も高い完璧な紳士。
そして一度好きになった相手はとことん甘やかし、とろっとろになるような甘ーい台詞を吐く。液晶画面の向こうでいったい何千人の乙女たちを陥落させたか分からない王子様だ。
そんな彼は、私の最推し。私が「シークレット・プリンセス」を始め、課金し、グッズも集めた理由。仕事で疲れた私をあの甘いボイスで癒し、特典ボイスドラマCDでは腰が砕けそうなほどの愛の言葉を囁いた人。
その人が今、目の前にいる。
薔薇の花束を手に微笑み、私たちの結婚を祝福してくれる。
……平常心を保とうとしたのに、最初の一言を聞いた瞬間、私の脳みそは機能停止した。
私はエドウィンの妻だから、別ルートだから、と言い聞かせていたというのに、いざ有名声優の生ボイスを耳にしたとたん、この様だ。
さすがに私の様子がおかしいと気づいたのか、エドウィンが私の顔を覗き込んできた。
「……カトレア様? どうかなさいましたか?」
「おしがめのまえにいる」
「え?」
「……。……あ、い、いえ! なんでもありません!」
「もしかして……式の直後ですし、お疲れなのでは?」
ジルベール様もまた私がおかしいことに気づいたようで、心配そうに眉根を寄せて身を屈めてきた。あっ、そんな、スチルで見たのより一億倍素敵な推しが目の前で、息をしていて、困った顔も素敵で、アッ。
花束をキティに預けたジルベール様がその場にしゃがみ、すっと尖った顎に手を宛って私の顔を見上げてくる。あ、だめです、そんな、むり、至近距離で、ご尊顔が……!
「少し顔が赤いようだね。エドウィン、君の奥方は体調が優れないのか?」
「いえ、ついさっきまでは元気そうでしたが……」
エドウィンも困っている。ああ、ゲームでは一切絡みのなかった攻略キャラ二人が会話してる、しんどい、いやそうじゃない、物理的にしんどい、動悸やばい。
思わず私が胸を押さえて体をぐらつかせたからか、はっとしたエドウィンが立ち上がる――より早く、ジルベール様が私の体を腕で抱き留めた。あ、そんな、匂いが、すごくいい匂いがする、やばい。
「……体が熱いな。やはり体調が優れないのだろう。少し休んではどうだ?」
「……あ、あの……ジルベール様、その、すみません、なんだかいろいろ――」
「何を言うか。可愛い従妹殿を気遣って当然だろう?」
そう言って微笑むジルベール様はもうなんか、やばい、「可愛い従妹殿」って、可愛いって、うえっ、尊い。
私の混乱が収まらないどころかヒートアップする一方だからか、ジルベール様はふむ、と唸り、私の体をエドウィンに託して立ち上がった。
「カトレアは、しばし休みなさい。この後確かサイネリアやアルジャーノンも会いに来る予定だったと思うが、少し時間をずらさせよう」
「申し訳ありません、ジルベール殿下」
「気にしなくていい。だが……そうだな」
ジルベール様は、私に代わって礼を言ってくれたエドウィンを見、私を見、再びエドウィンに視線を戻した。
「……ついさっきまで元気だったのにいきなりここまで体調を崩すというのは、あまり考えられない。エドウィン、あなたは王家の姫を娶ったんだ。誰よりもカトレアの近くにいることを許されたのだから、彼女のことをもっとよく見てやってほしい」
少しだけ硬い口調でジルベール様が言った瞬間、私は一気に目を覚ました。
最推しのボイスにデロデロになっている場合じゃない。
私はエドウィンの妻としての責務を放棄したのみならず、エドウィンに謂われない叱責を受けさせる羽目にしてしまった。
「ち、違います、ジルベール様! 今のはなんか私が勝手におかしくなっただけで、エドウィンに咎はありません!」
なんだかちょっと言葉遣いが怪しくなっている気がするけれど、エドウィンを責められたのが申し訳なくて、自分の馬鹿っぷりが情けなくて、早口で言いつのった。
「エドウィンの言うとおりです。私は元気ですので、時間をずらす必要もございません。……尊敬する従兄君に嬉しいお言葉をもらえて、少し動揺してしまいました。取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」
喋るうちにだいぶ頭も冷えてきて、私は頭を下げた。精一杯の虚勢は張ったけれど、膝の上で重ねた手は汗でびっしょりで、ドレスのスカートで隠された足はガクガク震えている。
今の私は、画面越しの推しに萌えているだけでいいプレイヤーじゃない。
この世界で生き、エドウィンの妻として既に認められているカトレア・ケインズだ。
ただでさえ、女王陛下に無理を言って結婚を承諾してもらったというのに、新婚初っぱなで私がジルベール様に片思いしているなんて知られてしまったら――
しばしの沈黙の後、ジルベール様が小さく息を吐き出す音がした。
「……君がそう言うのなら、大丈夫なのだろうね。では、サイネリアたちが来るまで茶でも飲みながらゆっくり待っていなさい。だがまた体に不調が起こるようなら、隠さずにエドウィンに言うこと。いいね?」
「はい。すみません、ジルベール様」
「いいんだよ、カトレア。……エドウィンも、私たちの大切な従妹を頼んだよ」
ジルベール様はそう言うと私の手の甲に挨拶のキスを落とし――うん、耐えた私、偉い――、去っていった。
キティは何も言わずいそいそと薔薇の花束を奥の部屋に持っていき、部屋には私とエドウィンが残される。うん、気まずい。
「……あの、エドウィン」
「どうしました?」
おずおず名を呼んだのだけど、エドウィンは私が拍子抜けるほど「いつも通り」に応じ、私の方を見る。そして私のカップを目にして、「あっ」と小さな声を上げた。
「茶がなくなっていますね。俺、淹れますよ」
「えっ、そんな、いいですよ」
「遠慮しないでくださいよ。俺だって、剣を振り回すしか能がないわけじゃないんで」
へへっと笑うエドウィンは本当に「いつも通り」で――無理をして笑っているのが丸わかりで、胸がぎゅっと苦しくなった。
「……ごめんなさい、エドウィン」
「それって、さっきのことですか? だったら、気にしないでください。というか、やっぱりお疲れなんじゃないですか」
エドウィンは明るい調子で言った後、ティーポット片手に私の顔を見つめてきた。彼の澄んだ灰色の目に、私の情けない顔が映っている。
彼の真っ直ぐすぎる眼差しは、私の愚かな心をも見透かしているかのようだ。
「なんというか……正直ちょっと驚きました。ほら、カトレア様はサイネリア殿下やアルジャーノン殿下とは親しくなさってましたけど、ジルベール殿下とはそれほど親密でもなかったでしょう?」
うん……それはまさに、ジルベール様の好感度がエドウィンルートクリアに全く関係ないからだ。
あのペンギンの手抜きゆえなのか、それとも「カトレア」の判断なのか、おそらく今のジルベール様の好感度は初期値から一つも上がっていない。ジルベール様の最初のイベント――一緒に城下町の視察に行くイベント――はどんなにポンコツなプレイをしていても絶対に発生するってくらい難易度が低かったのに、それすら起きていない。
彼にとっての私は「いまだに得体が知れないけど従妹である以上、最低限の面倒は見なければならない相手」なんだ。そんな相手に対して真っ赤になったり挙動不審になったりしたら、誰だって不審に思うだろう。
エドウィンの言葉に、私は少しだけ引きつった笑みを浮かべた。
「……ええ、そうです。今日みたいに言葉を交わすこともほとんどなくて……少し緊張してしまっていたようです」
「確かに……女王陛下と違ってジルベール殿下との会話が慣れていないのでしたら、緊張なさっても仕方ないですね」
ああ、よかった! エドウィンは私の説明で納得してくれたみたいだ。
彼は頬を緩めるとすぐにきゅっと唇を引き結び、真剣な眼差しで私のカップに茶を注いだ。普段ティーポットを使い慣れていないのが丸わかりの手つきで、注ぎ口から出てくる茶もゆらゆら揺れている。
「どうぞです」
「ありがとうございます」
礼を言い、茶を口に含む。
だいぶ冷めてしまっているけれど、喉がちょっとカリカリしていたから温くなっているくらいがちょうどよかった。