10 「シークレット・プリンセス」とは
オンラインゲーム「シークレット・プリンセス」は、淑女教育を受けたりさまざまな行事に参加したりしながら皆の好感度を上げ、攻略対象との恋愛イベントを起こす形式となっている。
メインストーリーとかサブストーリーとかいう括りはなく、条件が整ったら恋愛イベントが起こる。恋愛イベントをこなしていくといずれ、攻略対象の中から一人を選んで恋愛ルートに突入することになる。
ちなみに恋愛ルートに入っても適当なデートばかりしていたりレッスンをさぼったりすれば相手の好感度が落ち、破局を迎える。破局したら次の男を探すもよし、復縁を目指すもよし。場合によっては逆ハーじみたルートになったり、サイネリアとの百合エンドらしきものに突入したりと、わりとカオスだ。
攻略対象は六人。とろ甘王道派の第一王子ジルベール様と、小悪魔系年下の第二王子アルジャーノン。頼もしい大人な騎士団長と、真面目一徹な次期宰相。そしてミステリアスな隣国の王子と、年下わんこ系騎士のエドウィンだ。
かつて開催された人気投票の結果はジルベール様がぶっちぎりで、過激なファンの企みなのではないかとさえ囁かれた。二位は隣国王子で――エドウィンは下の方だった。
それはいいとして。
それぞれのルートを選択するには、攻略対象本人の好感度を上げるだけでなく、関係者の好感度、そして主人公本人のスペックが必要だった。アプリのタイトル画面にも大きく出ているジルベール様は一番攻略が簡単で、本人の好感度の他に女王陛下、サイネリアさえ上げればあとは、主人公のスペックが少々ポンコツでもルートを選択できる。ルート選択の難しさとしては、隣国王子が大変だったなぁ。
そしてエドウィンの場合、本人と女王陛下、サイネリア、騎士団長、アルジャーノンとかなりたくさんの人の好感度を上げないといけない上、主人公のステータスがある一定以上にならないと彼とのイベントが起こらないようになっている。
ステータスは「知能」「魅力」「体力」「気品」「人気」の五観点で、マックス三百ポイントの五角形で表示される。レッスンをさぼったり乗馬訓練から逃げたりイベントで適当な選択肢をしたりするとステータスが下がっていき、真面目に取り組めば上がる。ただし次期宰相の場合、「体力」がある一定以上になったゴリラ姫になるとルート選択できなくなるという落とし穴があった。ゴリマッチョはタイプじゃないみたいだ。
エドウィンルートの場合、全てのステータスが最低百必要で、「体力」と「人気」は百五十ないとイベントが進まなくなる。全ステータス二百以上じゃないと登場すらしない隣国王子よりはマシだけど、地味に面倒くさい。とりわけ「人気」は上がりにくくて下がりやすい観点なので、何も考えずにプレイしていたらエドウィンルートが出てこなかったりするのだ。
それで、である。
今の私はエドウィンルートのエンディングを迎えているので、彼の好感度は当然マックス。あと、詳しい数値は分からないにしろ、彼を攻略するにあたり関係を持たなければならない面々の好感度も高いはずだ。
女王陛下と懇意にできたり、ツンデレ最高なサイネリアや小悪魔可愛いアルジャーノンと仲よくなれるのは嬉しい。ただ――エドウィンルートで、ジルベール様の好感度は全く関係ない。
そして――なんと、今の私カトレアは、ジルベール様とちっとも仲よくないんだ。
二十年間カトレアとして生きてきた記憶があるのだけれど、過去の私はジルベール様とは最低限の会話をするだけで、ゲームに存在していたイベントらしきものと遭遇した覚えがない。アルジャーノンや騎士団長とは、いくつかのイベントを現実世界でも経験した覚えがあるのに。
……つまりあの自称神なペンギンは、私の最推しがエドウィンだと勘違いしたのみに留まらず、エドウィンルートに関係のないキャラとの好感度はゼロの状態で話を進めていたんだ! イベントを一つでも見ればある程度心を開いてくれるはずの次期宰相がいまだに私に対してカリカリしているのだから、間違いない。
イヤミ眼鏡な次期宰相はともかく、ジルベール様の好感度がゼロってのは地味に辛い……。ゼロといっても嫌われているわけじゃないにしろ、彼から見た私は「突然現れた従妹」止まり。
……いや、でもひょっとしたらこれは却ってよかったのかも? ジルベール様との好感度が高ければ、私は本格的に浮気に走っていたかもしれない。
これは、「観念してエドウィンルートを受け入れろ」というペンギンの啓示だろうか。多分違う。
さてさて、私とエドウィンはお茶休憩を取った後、結婚の報告をするために本城に行くことになった。
今日はいい天気だし、外を歩くと風も気持ちよさそうだな、と思ったのだけれど、玄関を出た私たちを待っていたのは立派な箱形馬車だった。
「大きいですね」
「そうですね」
「これ、乗らないとダメかしら」
「女王陛下のお迎えみたいですし、乗らないとダメみたいですね」
予想通り、御者は帽子を取ってお辞儀し、「女王陛下に命じられて、お迎えに参りました」と丁寧に説明した。歩いて行こうと思ったのに……でも午前中に挨拶回りは済まさないといけないし、仕方ないか。
そう思って馬車に向かうと、すっとエドウィンが私の前に出て、ドアを開けた。そして振り返り、私に右手を差し出してくる。
「では、乗りましょう。お手をどうぞ、カトレア様」
「え? ……ええ、ありがとう」
戸惑ったのは一瞬のこと。私たちは夫婦だけど、エドウィンが婿入りしたということもあって身分は私の方が高い。だから身分制度の存在するこの世界において、彼がエスコートするのは夫婦として当然だし、それ以前に「身分の低い男が身分の高い女に対する態度」として正解なのだ。
彼の手を取って、御者が出してくれた踏み台に上がる。私が先に座るとエドウィンは私のドレスの裾が地面に付かないようちょっと裾を直してから自分も乗り込み、ドアを閉めた。キティたちは別の馬車に乗って遅れて来るそうだ。
箱形馬車の内部は一辺が二メートルほどの立方体で、座席は片側後部にしかない。当然、私とエドウィンが並んで座る形になる。
……さっき居間でお茶を飲んだときよりも、彼との距離が近い。馬車が動き出した微かな揺れで私の体がくらっと横に倒れそうになり、エドウィンの肩に支えられた。昨夜シャツをはだけられたときにも思ったけれど、細くて小柄に見えるけれどしっかり筋肉の付いた体をしていたっけ。
……だ、だめだ。別のことを考えよう!
「……せっかくのいい天気なのに、馬車なんてもったいないですね」
何か会話を、と思ってとりあえず話題提供すると、エドウィンは私を見てくすっと笑った。
「ええ、そうですね。……そういえばあなたは前から、馬車で移動するより歌を歌いながら歩いたり走ったりする方が好きだとおっしゃってましたよね」
「……そうですね」
カトレアは平民育ちだし、エドウィンルートに入れたとなれば「体力」がある程度備わっているはず。現に私は乗馬訓練やダンス練習もちゃんとこなしていたし、貴族の娘としては十分すぎるくらいの体力を持っている。
ひょっとしたら、連日残業漬けで毎年健康診断で酷い結果をもらっていた前世より健康で体力があるかもしれない。あの頃は会社の担当医に、「君、このままだと十年以内に死ぬよ?」と言われたっけ。わあすごい、その予想大当たりだ! 事故死だけど。
エドウィンはしばし窓の外を見てなにやら考えていたようだけれど、やがて「あ、そうだ」と声を上げてこっちを振り返り見てきた。
「それなら、午後の贈り物点検を終えた後は一緒に歩いて帰りませんか? 離宮と本城の間なら、歩きでも十五分もあれば帰れます」
「それはいいですね。歩いて帰れば、いい感じにお腹も空きそうですし」
「そうそう! ……朝食はご一緒できなかったですし、本城で摂る予定の昼食も多分せわしないでしょうから、夕食はあなたと一緒にゆっくり食べたいです。お腹も空いているしあなたも側にいれば俺、いつも以上に食べてしまうかもしれませんが……」
「それはいいことじゃないですか。エドウィンはまだまだ成長する時期なのですから、しっかり食べる必要がありますよ」
「そうですね! たくさんメシ食って――じゃなくてご飯を食べて、あなたを守れる騎士になれるよう、頑張りますね!」
そう屈託なく話すエドウィンの笑顔が眩しい。
日本で言うとだいたい大学生。これくらいの年の男の子にしか見られない若々しい輝きは、二十五歳だった記憶を持つ私にはちょっときつすぎるくらいだった。