時間を繋げる事
以前に友人が「絵を描きたいんだけどどう思う?」というので、「やるんだったら、たとえチラシの裏に描くのでもいいから毎日やった方がいいよ。たとえ五分でもいいからできるだけ毎日やった方がいい」と返答した。結果から言えば、友人は毎日やらなかったし、継続もしなかった。彼は思いついた時にだけ思いついた事をやり、飽きるとやめてしまう。僕はそれを見てきた。
現代の社会とは、時間というものが分断される時代だと思う。日々は細切れになり、昨日と今日、今日と明日が連続しない。継続的な努力をしない人は、時間というものを常に瞬間として味わう。彼は思いついてはある事をやり、思いついてはある事をやめる。自分の感情や感覚のままに運動していき、「それ」が何であるかとは考えない。ふと気づいて過去を眺めると、過去は時としての連続性を持っていない。時はバラバラで、今の自分は少しも成長していない。その事にある時、愕然と気付く。
現代はそれを奨励している。時間をバラバラに、瞬間的欲求に従い、刹那的成功を追い求める。小説を書くのは作家になるため、ボールを蹴るのはサッカー選手になるため。もしそうだとしたら、彼は作家になれないとわかった途端、本を読むのも書くのもやめるのだろうか? サッカー選手になれないとわかった途端、ボールを蹴る事には何の意味もなくなるだろうか? 彼らにおける時間の連続性は社会に認められた時間性に限定されている。自分の中での信念とか誇りとかいうものがない。だから、時間はいつまでも連続していかず、その時々で、なりたいもの、なれそうなものを目指し、挫折すると方向を変え、気持ちの良いものに浸り、また気分を変え…というように動いていく。そこでは細切れになった人生があるばかりだ。
僕は世の中に抵抗して、時間を連続させなければ、何者にもなれないと思っている。が、こういう時、普通は「何者」という言葉を、社会的な存在に位置づけるのだろう。僕の言う「何者」とは朝井リョウ的な「何者」ではない。自分で自分を作り上げる、時間ー連続としての自分だ。「自分」とは、人生の中でより集めて作るべきもので、神から与えられたものではない。日々は我々に与えられる。しかし、それは自己を構成する為の土台でしかない。土台を土台として終わらす人はたくさんいる。
社会は個人に対しては無慈悲に進行していく。社会は個人を圧制と暴虐で蹂躙するだけでなく、誘惑する女神のようなやり方で殺しもする。社会は我々に刹那を与えてくれるが、「自分」は与えてくれない。「自分」というのは世に抵抗して自分で作るものだ。細切れになった人々の、「細切れになってくれ」という呪いをはねのけて自分で作り上げるものだ。そう思う。そんな風にして、昨日を今日に、今日を明日に接続して自分自身を創造していかなければならない。創造された自分が何を意味するか、その意味を解読する時に、他者が必要となる。そのような人間だけが尊敬に値する人間となる。刹那によって細切れにされた人々は自分以外もそうであるべきだという道徳を生み出す。この道徳に反しなければおそらく、いつまで経っても僕らの前に統一された時間ー自己は現れないだろう。




