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淡い心

作者: きずな

 さっきまで窓から差し込んでいた夕日は、いつの間にか沈んでしまっていた。

 蛍光灯の光だけになった調理室では、まだ十人ほどの女子生徒が残って作業をしている。放課後の時間が始まってから、漂う焼きそばの匂いは消えていない。

 そんな彼女達のサポートをしつつ、私は室内にある時計を視界の片隅に入れた。

 時刻はちょうど六時三十分。


「みんな、そろそろ片付けに入ろっか。あと三十分で下校時刻だから」

「はーい」


 生徒達はもの足りなさそうな顔をしていたが、素直に私の指示に従って片付けを始めた。

この学校の三年生は、こういった行事にも熱心に打ち込み、勉強も決しておろそかにしない。ここに赴任して感心したことの一つだ。

 受験生だっていうのに、と思わず苦笑してしまう。

 その時、調理室の戸を開ける音がした。


「おー、やってるやってる」


 見ると、複数名の男子生徒が室内を覗き込んでいる。


「お疲れ様。入っていいわよ」


声を掛けると、彼らは「失礼します」と律儀にお辞儀をしながら入ってきた。


「あれ、みんな、部活引退してたよね? 何で残ってたの?」

「補講受けてた」

「真面目だねぇ」

「そういうお前らは勉強大丈夫なの?」

「その心配する暇があったら手伝って欲しいよ」

「失敗してもいいなら手伝うけど?」

「それはダメ!」


 生徒達の笑い声が室内に響く。受験生とは思えない、穏やかな雰囲気だった。


「先生もいたんですね」


 そんな雰囲気に気持ちが緩んでいて、私は目の前にいた男子生徒に声を掛けられるまで、その存在に気付かなかった。

 驚きで一瞬声を失う。


「……そりゃあ担任だしね。それに、これでも家庭科の先生なので」

「ですよね」


 少し大人びた立ち振る舞いと、ふわっとしたやわらかい笑顔は、人を魅了する何かを持っている。彼を見掛ける度に、私はそう感じていた。


「男子達、片付け手伝ってあげて。ほら、片山君も」


 自分の中の何かを誤魔化すように促すと、目の前の彼は素直に生徒の輪の中に入っていった。

 


「先生、ちょっと相談いいですか」


 片付けを終え、生徒達が次々に下校していく中、彼は私が調理室の鍵を閉めるまでずっと残っていた。


「何? もうすぐ下校時刻だから、長くなるなら明日時間とるけど……もしかして、進路のこと?」


 黙ったまま彼が頷いた。

 彼の第一志望の大学は、私の母校でもある。しかも、志望している学部も私と同じだ。それゆえ、大学のことについては私からも色々と情報収集し、自分の経験も踏まえてアドバイスするようにしていた。言ってしまえば、そういう面に関して一番手を掛けているのは彼だろう。

 だから、今のように彼のほうから個人的に相談してくることも少なくない。


「なんか、いろいろと不安になっちゃって」

「……どうしたの、急に」


 彼の成績や模試の結果を見ても、十分に合格出来る実力を持っている。真面目で勉強熱心だから、ここからさらに伸びることも出来るだろう。むしろ、もっと上の大学を目指してもいいと思っていたくらいだ。


「俺、本番弱いんですよね。大事なテストとか失敗しやすくて。だから高校受験の時も、失敗してもいいように保険かけて絶対入れそうなとこ受けたんです。……けど、今回はそういうこと関係なしに、本当に行きたい大学を選んだので……」


 彼がこんな風に弱気になるなんて、想像したこともなかった。

 今まで見たこともない彼の表情を見て、彼もまだ高校生なんだ、と当たり前のことを改めて思い知る。


「大丈夫よ。本当に心配なら、それこそ失敗してもいいようにもっと勉強すること。……それに、まだ十月よ? 今からそんな心配してどうするの。まだ時間はたっぷりあるんだから」


 俯いていた彼が顔を上げて私を見る。さっきの不安げな表情は、少し晴れていた。


「……先生もたまにはいいこと言うんですね」

「何よそれ、からかってるの?」


 彼が声を上げて笑う。いつもの彼だった。



「先生!」


 職員室に向かおうとした時、彼に呼び止められた。


「今度はどうしたの?」


 軽い気持ちで振り返って彼を見る。

 彼は、一瞬躊躇ったように目を逸らしたが、すぐに私を真っ直ぐに見つめてきた。


「文化祭、一緒に回ってあげてもいいですよ。いつも相談に乗ってくれてるお礼に」


 すぐに言葉を返せなかった。

 その台詞もそうだが、何よりも、彼があまりにも真剣な眼差しをしていたからだ。


「……何でそんなに上から目線なの。仮にも先生なんですけど」

「だって、先生一緒に回る人いなさそうじゃないですか」


 さらっと失礼なことを言う彼にため息をつく。


「あいにく、先生は文化祭をゆっくり回ってる時間なんてないのよ。……それに、友達と回ったほうが楽しいでしょう。最後の文化祭なんだから。楽しんでいい思い出を作って欲しいし」

「……そうですね」


 ちゃんと、本心を言った。教師として。彼の担任として。

 彼の笑みが少し寂しそうに見えたのは、きっと気のせいだろう。



 文化祭当日、クラスの出し物である焼きそばは大人気で、担任の私もクラスの場を離れるタイミングが見つからないほどだった。そんな忙しさからか、生徒達は活気に満ちていて、私自身もやりがいを感じる。

 やっとのことでクラスを抜け出し、校舎内の見回りをしていた時だった。

 クラスのシフトを外れていた彼が数人の友人と一緒に歩いているのを見つけた。

 お化け屋敷待ちの長蛇の列を見て、友人の一人が指さす。彼も含め、他の友人達が頷いて、その列の最後尾に並んでいった。

 友人と談笑している彼は楽しそうで、あのやわらかい笑みを絶やさず浮かべている。

 そんな彼の表情を、私は遠くからそっと見守っていた。


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