悪役令嬢の娘と王太子は結婚しました。
私とユークリッド殿下が出会って婚約してから、十四年が経っていた。今年の春に私やイザベラ、他の同級生たちは学園を卒業した。それから、二ヶ月後には私とユークリッド殿下の結婚式があった。
結婚式にはエリック様こと現国王陛下や王妃のエルジェベータ陛下、私の両親に父方や母方の親戚一同が来てくださった。もちろん、他の有力な貴族方や親友のイザベラ、同級生のユーノス様やアレックスなども来られている。皆は長く引いたベールを被り、真っ白なウェディングドレスを身に纏った私を一心に見つめていた。壇上には神官長やユークリッド殿下が控えているらしい。私は父の腕を取ってゆっくりと祭壇を目指した。祭壇の近くまで来るとユークリッド殿下に父は私を託す。その際、父は黙ったままだ。異様にピリピリした空気を感じた。けど、ユークリッド殿下はそれを意に介さずに私の手をとる。
神官長様から書類のサインを求められてそれに応じた。サインを署名して指輪の交換が行われ、最後に誓いの口づけをした。これにより、私はユークリッド殿下の正妃ー王太子妃になったのだった。
「…シェイラ。やっと結婚ができたわね」
そう目の前で言ったのは親友のイザベラだ。イザベラもひょんなことから私のいとこのアレックスとつい、一ヶ月前に結婚をしたところである。何でも学園に通っていた時期にアレックスと親しくなり、私の婚約解消事件の頃から交際を始めたらしい。そして、婚約して現在に至る。
今、私は結婚式を終えて王太子妃になったところだ。初夜を迎えて早くも五日が経とうとしている。時間的にやっと余裕ができたのでバルコニーでイザベラとお茶を飲みながら話をしていた。今は初夏の季節だが日差しがまだ強くないので外でお茶会となった。
「そう言われると複雑ね。イザベラだってアレックスと結婚するとは思わなかったわ」
「まあ、それもそうね」
言い返すとイザベラはくすりと笑った。優雅に紅茶を口に運んだ。私も同じようにしながらカップをソーサーに戻した。
「けど、王太子妃になったら王妃教育が大変でね。もう、音をあげそうだわ」
そうため息をつくとイザベラはそうねと相づちを打った。
「…殿下もシェイラも毎日が多忙だものね。わたしだってフィーラ公爵家に嫁いだから大忙しよ。格下の家から嫁いだからね。お義母様がやっきになってわたしに公爵夫人らしくあれと言葉や態度で示してくるの」
それを聞いて私は自分だけではないのだと少しほっとする。でも、イザベラには言わない。ほっとしたと口にすると彼女は怒るだろうから。あなたにはわたしの一体、何がわかるのと言いながらだ。それが容易く想像できるからあえて曖昧に笑う。
「イザベラも大変よね。でも、無理はしないで」
それだけは言っておいた。イザベラは苦笑しながらありがとうと告げる。
「そのお言葉は受け取らせていただきます。妃殿下」
イザベラは冗談めかして頭を下げた。それに苦笑しながら頷いた私だった。
夕方になり、イザベラはアレックスが待っているからと公爵邸に帰っていった。それを部屋で見送った。彼女が帰ってしまうと私はソファーに倒れこんだ。今夜もユークリッド殿下は来るのだろうか。そんなことが脳裏をよぎる。
できれば、夜はゆっくり休みたい。殿下には申し訳ないけど夜の営みだけは回避したいのだ。けど、今夜もあるんだろうな。新婚ほやほやだから仕方ないか。妥協するしかなさそうだった。私はげんなりしながらも立ち上がった。
夜が来て殿下が私の寝ている寝室にやって来られた。私は疲れた体を無理に起き上がらせる。殿下も疲れているらしくベッドに潜り込むと小さくため息をついた。
「ああ。シェイラ、起こしてしまったな」
「…いえ。殿下もお疲れだと思うと私ばかりが休んでいるのも申し訳なくて」
「…すまない。今日はくたくただからこのまま、休ませてくれないか」
「それは構いませんけど」
答えると殿下は瞼を閉じて寝息をたて始めた。私はほっとしながら体を横たえてまた、寝るのを再開した。部屋はランプが一つ灯されているだけで薄暗い。そんな中で意識が落ちるのは早かった。
「…ん」
朝特有の眩しい光に目が覚める。伸びをしながら体を起こすと殿下の秀麗な顔が間近にあって固まってしまう。殿下はまだ寝ているようで瞼は閉じられている。私は何とかベッドからおりて足音を忍ばせながら水差しを取りに行った。側に置いてあったコップに水を入れて一気に飲み干した。冷たい水からは清涼感のある香りと味が鼻や口に伝わる。切ったレモンが水の中に浮かべてある事から柑橘水だと理解できた。朝に飲むものとしてはちょうどいい。きっと侍女が気をきかせて置いていったのだろう。そう思いながらコップを机に置いた。
今度は洗面所に向かう。私は身支度を自分でやるようにしている。侍女に助けてもらうのは着替えとお化粧くらいだ。洗面所に行って歯磨きをして顔を洗った。タオルで濡れた顔の水気を拭き取る。そうした後で寝室に戻った。
ベッドには天蓋がある。それの向こうで殿下が半身を起こしているのが見えた。どうやら目が覚めたらしい。
私は天蓋の薄布を手で軽くどけながら声をかけた。
「殿下。おはようございます」
「…ああ。シェイラか。おはよう」
低い掠れた声で殿下は返事をしてくださる。先ほど、固まってしまったことはおくびに出さずに私は不意に聞こえたノックの音で侍女たちが来た事に気づく。返事をすると侍女たちが寝室に入ってくる。
「…おはようございます。殿下、妃殿下。身支度をなさいますか?」
侍女の内、一番年かさのアンネが声をかけてくる。私が先にお願いするわと言うとアンネはわかりましたと頷いた。
「でしたら、鏡台へどうぞ。メイとカレンはドレスを選んで来て。ナディアは靴を選んで。アリアは宝飾品を頼むわ」
次々と他の侍女たちに指示を出した。アンネは三十くらいで王宮勤めを始めてから十三年くらいになるベテランだ。メイとカレンは二十を三つか四つ過ぎたくらいで二人も勤め始めてから五年以上は経っている。ナディアも二十くらいで一番下がアリアになるのだが。アリアは十八で新人の枠をやっと出たところだ。そんな彼女も十五くらいから勤めていて新人を教える立場にあるらしい。
そんな五人がてきぱきと動いてカーテンを開けたりもしてくれる。私はアンネに促されて鏡台に移動した。「では、髪型はいかがなさいますか?」
「そうね。あまり、凝ったものではない簡単な髪型で頼むわ。編み込みも少なめにね」
「でしたら、上半分の御髪を結って下半分は流しましょう。上半分は三つ編みにしてバレッタで留めたらよいかもしれませんね」
「じゃあ、その髪型で良いわ」
頷くとアンネは香油の小瓶を手に取って中身を掌に数滴垂らして私の髪につけた。手際よく伸ばしていき、全体に塗り込む。ブラシで髪を幾度もすいた。
そのうち、髪に艶が出始める。昨夜も香油を塗り込まれたけど朝もやらなければならない。公爵家にいた時は香油といっても控えめにしていた。王宮で使うものは質がいいけど香りが好きではない。何故かいつも、甘い薔薇の香りのものを塗り込まれていた。私は本来、薔薇の香りを好まないのだけど。侍女たちは良かれと思って選んだようだ。まあ、言いにくいから黙っているけど。私の本当に好きな香りは柑橘系やラベンダー、ジャスミンといったあっさりとしたものだ。
いずれは話さなければとこの時思った。
その後、髪を梳かし終えた。上半分をハーフアップにして三つ編みにし、私の瞳の色と同じエメラルドの小さな宝石が散りばめられたバレッタで留めた。
鏡台から立ち上がりメイとカレンが持ってきたタートルネックの薄緑色の足首までのドレスを身に纏う。下にはコルセットを忘れない。私の髪色は翡翠と称される緑がかった蒼で父と母の色彩を混ぜたような感じだ。大きな鏡で全身を確認する。そこには控えめで上品な婦人が映っていた。我ながら地味だと思ってしまう。「…シェイラ。よく似合っている」
後ろからそう声をかけてこられたのは殿下だった。私は振り向いて首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「疑問に思う事はない。その緑のドレスもエメラルドのバレッタも君の髪や瞳とよく合っている。綺麗だと思うよ」
甘い言葉を言われて私は顔に熱が集まるのがわかった。
「…殿下。お世辞はよしてください。これから、私も公務で孤児院を訪問しなければなりませんから。お昼のお茶の時間はご一緒できません」
「それは昨日聞いたからわかっている。けど、シェイラ。いつになったらわたしの事を名前で呼んでくれるんだ」
殿下が不満そうにおっしゃったのでまた、固まってしまう。
「殿下。名前とは?」
「…以前から思っていたんだが。リチャードやユーノスたちは名前で呼ぶのに。わたしの事はいつも、『殿下』としか呼ばないじゃないか。いつになったら名前で呼ぶのかと待っていたんだがな」
殿下はそう言ってそっぽを向いてしまわれた。私は驚いてしまい、答えに困った。
「…はあ。お名前を呼べと。でも、どのように呼べばいいのでしょうか?」
「……わたしの事はユークと呼べばいい。父上や母上、君の父君などからはそう呼ばれている」
私は成る程と納得した。殿下もとい、ユーク様は自分だけが名前で呼ばれないから疎外感を感じていたらしい。仕方なく、私は声を出して呼んでみた。
「…では。ユーク様」
呼んでみたらユーク様はみるみる耳や顔を赤らめてみせた。片手で顔を覆い、ぶつぶつと何かを呟き始めた。
「…やっと、名前で呼ばれた。が、やはり照れるな…」
聞き取れた言葉は恥ずかしそうなもので私も恥ずかしい気持ちになってしまう。
二人して照れていたら「ごほん」と咳払いの音がした。我に返ってユーク様の肩越しに視線をやる。そこには顔をうっすらと赤らめたアンネたちがいた。
「…殿下。早く、ご用意をされませんと侍従殿がお待ちかねです」
「…あ、ああ。わかった。ではシェイラ。また、夜に」
「はい。行ってらっしゃいませ。ユーク様」
笑顔で送り出すとユーク様はああと爽やかな笑顔で頷いた。ユーク様が身支度に隣室に行くと私も寝室を出た。朝食をとるためだ。
背筋を伸ばして椅子に座ったのだった。