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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死の華 -Toten Blume-

死の華 -Toten Blume-  魔性の森

作者: ハルヲミ




 ぽつりと、闇の中に(あか)く光が(とも)る。

 二粒の、血のような真紅。

 まるでそれ自体が発光しているかの(きら)めき。硬玉を照り返す炎にも似た色彩が(またた)く。

 シェイエスは腰を浮かせ、手にした書物(ほん)を閉じる。

辺りは冷え冷えとして、泉のように澄んだ空気が痛いほど。

 露と日差しをしのぐために建てた四阿(あずまや)には、壁は二面しかない。といってその壁も窓状にくり抜かれ、せいぜいが森の散策に疲れた時の休憩所の役にしか立たない程度のものだ。

 寝泊まりに使う館が近くにあるとはいえ、供も連れず、たった独りで森へ分け入り、おぼつかぬランプを頼りに読書に耽ること自体、諸々の者にとっては喜ばしいことではないだろう。

 読書を……というより、彼は水底(みなそこ)に沈むような静けさと、果てしない孤独の方を深く愛していた。

 今その平穏を破られて、片方だけの瞳が眇められる。まるで射干玉(ぬばたま)のような漆黒の眼差し。途端に、多少なりと表情を明るく見せていた微かな色彩が、拭うように失われた。

 生い茂った樹木と下草の間。

 見事に過ぎる木々の枝ぶりが邪魔をして、赫い光はちらちらと揺れ動く。

 はじめは──(いばら)に潜んだ獣の瞳だと思った。

「……誰か、いるのか?」

 つぶやくようにいってしまってから、シェイエスは(かぶり)を振る。唇には薄い冷笑。

 そう、そんなはずはないのだ。

 もう一度目をこらせば、二粒の真紅はするりと闇に溶けた。

 獣が移動したのか、それとも単なる見間違いか。左眼だけとはいえ、視力に衰えを覚えるほど年取った覚えはなかったが。

 我知らず腰の剣に触れていたのは、癖というよりは習慣だ。装飾のない無骨な黒い大剣。物心ついてより、側から離したことのない愛剣である。

 ふと息を吐いて剣を腰帯から外す。椅子の横に立てかけて、もう一度闇に沈んだ森を眺めた。

 この森に大型の獣はいない。狼や山猫の類はいるが、狩人の入らない森に獲物はふんだんに生息している。それを無視してわざわざ狩りにくい人間を襲う酔狂な獣がいるとは思えなかった。

 なんの気配も感じない。それこそ、獣の息づかいさえ。

 は、と渇いた笑みが洩れ、彼は飴色に磨き込んだ丸太の長椅子に再び腰を下ろす。ブーツの爪先が触れ、立てかけた剣が倒れて足下で跳ねた。

 この世に、シェイエスが怖れを感じるものはない。

 好きで永らえた命でも、己の拒んだ死に様でさえなければ、受け入れる覚悟は今すぐにでもある。それでいてこの聖域に身を預けているのは、誰にも邪魔されぬ、たったひとつの場所だったからだ。

 保身ばかりを浮かべた卑屈な(やから)や、この身を護るほどには強くもない護衛の兵。莫大に膨れ上がった財を狙う親族と、娘を后にと七割り増しの絵姿を臆面もなく送りつける近隣の国主ども。

 ここには、(わず)わしいそれらの思惑をすべて遮断するだけの力がある。それがなにゆえなのか、考えたことは一度たりともなかったが。



 血で血を洗うような戦乱の世において、歴史ばかりが長いヴィルヘルム家はもともと名門ではあったが、辺境を統べる地方領主のひとりに過ぎなかった。

 それをもっとも覇者に近い位置まで押し上げたのは、弱冠二十三才のヴィルヘルム大公──それが彼、シェイエス・フォン・ヴィルヘルムである。

 小国同士の小競り合いなど星の数ほど。長子に生まれた常として、シェイエスの初陣はわずか十五だった。

 ──常勝。

 偶然か、はたまた必然の実力か。度重なる戦で右目を失くしはしたものの、彼は勝ち続け、白星が三十を超えた十九の年に国主を継いだ。

 父が、当時のヴィルヘルム公が不慮の死を遂げたせいである。

 父は毒を呷って死んだ。自殺でないことは、シェイエスが一番よく知っていた。呑ませたのは他ならぬ自分自身であったのだから。

 過去に思いを馳せたシェイエスは怜悧に整った顔立ちを、奇妙に歪める。

 浮かべ慣れた笑み。己の足下に(かしず)く者を、処断しようと決めた時に浮かべるそれと同じ表情で。


 残虐なる黒の公子。


 黒髪と黒い隻眼。怜悧な美貌。それでいてその非情な戦いぶりに、人々は彼をそう呼ぶようになった。

 敵対する者にかける温情もなく、女子供だろうと容赦なく滅ぼし尽くし、たとえ味方であっても失敗(しくじ)ればすぐさま死を与える、情のない世継の公子。

 彼は強さの象徴となったが、それはまた恐怖の象徴でもあった。まだ健在であった父が怯えたのも無理からぬことではあったのかも知れない。


 ──『我はそなたが恐ろしい』


 深夜に呼び出された大公の居室にて、その瞬間までは確かに父であった男が、狂気の帯びた瞳で(わら)った。


 ──『亡くなった后の生んだ唯一の子よ。今となっては疑問にさえ思う。そなたは儂にも誰にも似ておらぬ。知っておるか? ヴィルヘルム家に黒髪の者はおらぬのだ』


 贅を尽くした衣装にくるまり、贅を尽くした椅子に埋もれ、シェイエスがもたらした富を享受するだけの男が。


 ──『魔物の性を持つものよ。我が子ならぬものよ。そなたの所業は目に余る。そなたはヴィルヘルム家に幾つもの勝利をもたらしたが、代わりにいらぬ風評を得、さらには領民より大切な信仰を失わせた』


 まるで茶番だ。


 ──『もうよい。今こそ我が為に死ぬるが喜びのひとつと心得よ』


 その刹那、己の内で玻璃のように砕けたものの正体など、今さら知りたいとも思わない。


 ──兵も民も敵も、今や怖れているのは貴方ではないというのに?


 巨大な碧玉をはめた指を鳴らし、なだれ込んできた近衛の兵が護るものは、すでに名ばかりの国主ではあり得なかった。


 ──ならば貴方が死ねばよい。


 毒の杯になみなみと注いだ琥珀の酒を差しだして、嘲笑う己の末路に気づきもせぬ、愚かな……父ならぬもの。

 子殺し親殺しは戦乱の世につきものの悲劇。ましてや、これほどに長く続き、澱みきった血を伝え続ける一族であれば。

 別に大公の地位や富を望み、惜しんだわけではなかった。誰かの欲望や野心のために、無意味に死ぬことが莫迦らしく思えただけのこと。何百何千と殺し、または殺すことを指揮してきた身の結末がそれでは、殺されたものもあまりに情けなかろうと。

 シェイエスは紅玉の浮かんでいた辺りの闇を凝視し、やがて黒々とした天に目を移す。

 痛みを、感じている暇などなかった。悔いさえも。

 戦場では迷いこそが死を招く。

 殺意と、裏切りと、悪意ばかりで彩られたこの世界では。


 ──貴方が望んだのだよ、父上。


 彼はつぶやく。微かな笑みさえ浮かべて。

 戦いの恐怖も狂気も知らず、ただ戦利品の山に埋もれ、考えもなく敵を指差すだけの、高貴な死んだ男へ向ける屈託はいつまでも消えそうになかった。



 シェイエスはナイフのような二日月が光を減じることなく輝くさまを、ただぼんやりと眺める。

 穏やかな美しさはけれど、彼の心に付随するべき感情を呼び起こしはしない。流し過ぎて湖水のようになってしまった足下の血溜まりに、悔いも憐れみも感じないのと同じく。

 月下で鬱蒼とした森は、領地の中でも(たわむ)れに選んだ地だ。禁足の地と変えるより前から、人の寄りつかない暗黒の森だというのが気に入った。

 ここのどこかに魔の国へ繋がる扉があるという。魔も神も信じないからこそ、そんな埒もない言い伝えに惹かれたのかも知れない。

 狩りと称して城を空け、ここで幾たりかの日々を過ごすのが、今のシェイエスが得られる唯一の休息だ。供の者さえ随従させず、国政は口うるさい大臣どもに任せたままで、しんとした夜を味わう。

 戻ればまた戦いの日々。

 求められるは、ただ敵を(ほふ)り地を護る一振りの黒い剣であること。


 ──くだらない。


 そのどれもが己のためでなく、意志ですらないというのに。

「……とはいえ、俺に望みなどありはしないが」

 つぶやきは、密かな自嘲に彩られていた。

 なにか特別なものを手に入れたい。国でなく、地位でなく、人ですらなく、ただ魂を揺さぶる唯一のものを。

 もしも叶うなら……命も、世界もくれてやるのに。

 小さく息を吐き、シェイエスは放り出したままになっていた書物を取り上げようとして、ふと──

 湿った土の匂いが鼻腔をかすめた。

 弾かれたように顔を上げた瞬間、強い風が辺りの木々をざわりと揺らす。花がさざめくように、くすくすと笑う幾人もの気配。

 女の。


 ──……莫迦(ばか)な。


 ここは己の森。足を踏み入れれば領主より死を(たまわ)るとの囁きを、わざと流布させてまで手に入れた呪いの地だ。

 シェイエスは形の良い眉を不審気に上げる。女たちの笑い声は鈴の音のように、ちりちりと密やかに響いた。

 刺客が複数で笑い声を立てるはずもなく、深夜に子供たちが紛れ込むとも思えない。たとえばここがどこかも知らない旅の者なら、こちらの名と身分を明かすまでもなく追い払うことは容易い──だが。

 足下に落ちた剣を、拾うべきだと本能が告げる。森に凝った闇から視線を外すことこそが、厄介であるというのに。

 闇が濃くなる。緑と、水の匂い……いいや、これは湖沼の匂いだ。

 意識を凝らそうと隻眼を伏せる。視力以外の感覚を向けて、はっと目を(みは)った。

 黒い、闇が降り積もったかの巨大な、なにか。

「──獣、か……?」

 訝しく視線を向ければ、闇でできた影の中に宝玉のような真紅がふたつ。

 あの。

 わずかに降り注ぐ月光が、その輪郭をちらりと弾く。黒絹のような毛並みは狼に似ているが、木の葉を散らす風にさえ一糸たりとも乱れない。獣だと断定できないのは、目の前にあってその確固たる気配を感じ取れないからだ。

 瞳が渇いて痛みすら感じる。重い瞼を上下すると、女たちの笑い声がぷつりと途絶えた。

 シェイエスは一瞬だけ辺りに視線を走らせる。と──

 獣の影が忽然と消え失せていた。

「……なんだ……?」

 ちり、と肌が粟立つのを押さえきれず、立ち上がったシェイエスは足下の剣の柄頭を踏みつけ、浮き上がったそれを手に掴んだ。ランプの火を吹き消し、壁に身を寄せる。

 なにか異様な事態が起きていることは間違いない。戦場にあってさえこんな気分を味わったことはなかった。


 ──これは、恐怖か?


「……まずいな」

 魔も、神も信じたりしない。力、及ばないものを。

「──なにが、まずいと?」

 ほんのすぐ傍らで、唐突な声が降る。

 ぎくり、と身動(みじろ)いだシェイエスは、足音もなく四阿の入り口に現れた声の主を認め、呆然とその姿を凝視した。


 ──夜の。


 そこには己より幾つか上に見える美しい……あまりにも美しい青年が、冷笑を浮かべて(たたず)んでいる。

 (あかつき)にたゆたう朝闇を具現したかのような紺青の髪と瞳。肌は浅黒く、酷薄な唇は赫く艶めかしい。身を包む衣裳は髪と同じ夜色の外套(マント)に覆われているが、堅く見える躰の線から簡易ながらも武装していることが解る。

 しかし布地は極上。留め具に使われている宝石も、見たことがないほど見事なものだ。この男がなんであろうと、相当に身分のある者には違いない。

 しかし。


 ──これは、なんだ?


 シェイエスはまるで(うめ)くように思う。この夜の化身から目が離せない。壮絶な美貌は凶器にもなり得るのだ。


 ──それほどの。


 これを異形と呼ばずして、一体なんだというのか。

 立ち尽くしたシェイエスに向け、男は優雅に首をかしげた。

「どうした、口がきけなくなったのか?」

 声は低く耳に心地よい。ぞっとする冷たさを含んでいてさえ、陶然と聞き惚れてしまいそうなほど。


 ──魔か、神か。


 シェイエスは息を呑む。どちらにしてもそれだけの力を持っている、もの。

「……さっきの、獣は貴方の連れか……?」

「さて」

 と、男は笑い含んで肩をすくめた。その何気ない仕草ですら美しい。

 シェイエスは見えない圧力を払うように、ゆっくりと息を吐き、男を真っ向から見据えた。

「……ここは我がヴィルヘルム家の領地。身分のある方とお見受けするゆえ無体なことを申さぬが、まずは名を名乗られよ」

 出来るだけ言葉を選んだつもりだが、どう訊こえたのか美しい青年はくつりと肩を揺らす。

「そなたは知らぬようだが、我が足を落とした場所すべてが我が領地よ。ましてや夜ともなれば、な」

 美貌の青年は滑るように足を踏み出す──こちらの方へ。シェイエスは手にした剣を抜くべきか迷う。

「無駄だ。人間の振るう剣ごときで傷ついては夜の眷属の名折れとなろう? それに、そなたのその剣……見たところ我らとよく似た属性を持っているようだが」

 見透かすように傲然といい放つ口調は、支配することに慣れたもの。害意を感じないのは、己の中のなにかが麻痺してしまった所為だろうか。

「……夜の、眷属……」

 声が、掠れる。訊き返すまでもなかった。


 ──魔、か。


 紺青の瞳はこちらを見据えたまま、冷ややかな笑みを刷く。

「闇は我らが配下。憎悪も血もな。剣もそなたも随分と血に身を浸したようだ」

 軽く片方だけの瞳を見開き、シェイエスはこの人ならぬ瞳に映る己の姿を思う。真紅に汚れ、なにもかもを踏み躙ってきたこの身は、一体どう映っているのだろう、と。

 鞘に収まったままの剣を長椅子に投げ出し、シェイエスは自嘲の笑みを片頬に刻んだ。

「……なるほど。貴方の前では、ヴィルヘルム家の当主といえど霧散するほどに卑小で非力な身の上、というわけか」

「そう。もっとも、そなたばかりが非力なわけではないが」

 不意に、男のすらりとした端正な指先が、眼帯で覆われている右目に伸ばされた。

「この瞳はどうした? ふたつあればさぞ美しかろうに」

 綺麗な形に整えられた長い爪は漆黒。中指と薬指には不思議な光沢のある宝石がはまった指輪と、銀を象眼した幅広の豪奢な指輪がある。振り払うにはそこそこの勇気が必要だったが、シェイエスはすでに最初の衝撃から立ち直っていた。

 右目を守るように魔性の指先を払いのけ、闇によく似た左の瞳だけで人外の男を睨む。

「……気安く触るのは止めて頂きたいものだ。貴方が誰で、どれほどの力を持とうと、私には関係がない」

「ほう? 身の程知らずだな」

 夜色の瞳が(すが)められたが、怒りは感じない。むしろその口許には楽しむような笑みが浮かび、男の指先は発した警告などまるで意に介さず、シェイエスの顎を捉えた。そっと持ち上げられて、否応なく視線が交じり合う。

 紺青とも紫紺ともつかない双眸の奥底に隠れた細い真紅の瞳孔に息を呑んだ。

「人間ごときが我を拒むか。我の足を止めたはそなたであろう?」

「……止めた……?」

 訝しげにつぶやけば、至近距離にある冷たい唇が笑った。

「クク。信じぬか? 我らはより強い声に引き寄せられる。血塗られた絶望と狂気、人間が叫び、悲鳴、享楽の喘ぎに」 

 独白に近い囁きは、どこか愉悦を含んで響く。

「願いも祈りも、昏いほど容易く叶うもの。むろん今この刹那においては、それさえ我の気分ひとつだが」

 温度のない指先が、からかうように喉元を伝ってゆっくりと下りてゆく。

 信じるに足る相手ではなかった──が、それほどの力を有していることを疑おうとは思わない。


 ──これは不運か? それとも幸運というべきものなのか。


「ふ……この汚れた魂を引き替えにとでも? 生憎と魂ひとつで叶えられる望みなどない」

 唇を歪め、吐き出した言葉は挑発そのもの。気を害せば己の命など消し飛ぶだろうと十全に理解した上で。

 心の奥に谺する、止める悲鳴がかき消える。

「そもそも貴方はなんなのだ? なにゆえ私の前に現れた?」

 魔性の男は刻んだ笑みを深くした。

 失いがたい指先が離れ、中空を照らす欠けきった月を指す。

「我はそなたの宿命。そして、遠い過去には人だったもの。だが余人は今の我をこう呼ぶ──ウーストレル(確実な死)と」

 優雅で秀麗な仕草。ひるがえった外套の裏地は、真紅──血のような。

「……血の、公爵……?」

 訊いたことがある。幻想と迷信に棲む、夜と闇を統べる七人の公爵……そのひとり。

 ウーストレルはシェイエスのつぶやきを黙殺し、闇を湛えた森を背に、立ちこめる冷気さえ愛おしむようにその腕を広げた。

「黒の森には〈(ゲート)〉がある。我が通りかからねば、他の眷属どもが羽虫のように群がったろう。森にあれば大人しかろうが、この一帯にいる夜のものは総じて躾が悪くてな」

 彼の口振りは明らかに位の低い妖魔に向けられているようだった。

「それほどにそなたの絶望は激しく昏い。……だからこそ、そなたは我の目に叶った。だが魂などには興味はないな。そなたの身の内を流れる愛しき真紅と、七年前に光を失った右の瞳で願いを(あがな)うがいい」

 ウーストレルの深い微笑に、シェイエスは一瞬、見惚れてしまう。それからようやく言葉の意味が脳裏に届き、はっと右の眼帯に手をやる。

 十六の折り、戦場で味方の流れ矢が運悪く突き刺さり、視力を失った。傷そのものは完治しているが、矢尻に塗られた毒が致命傷となったのだ。

 読まれたことを今さら不思議に思いはしなかった。美しい人ならぬ瞳は、その結末さえも見透かしているに違いない。

「……すでに、役にも立たぬ飾りに過ぎない瞳でも?」

「我の手にあれば、飾り以上の輝きも取り戻せよう。怖いか? 我らと契約を交わせば、魂の汚れは永遠となる」

 たとえば死んでも神の国に辿り着けない身になると。だがそのことが、一体なんの気休めになる?

 シェイエスはそっと口角を吊り上げた。

「……私は死ぬのか?」

「いいや」

 意外なことに、否定の言葉が即座に返る。

「死んではそなたの願いも意味を失うのではないのか?」

 シェイエスの視線が胡乱(うろん)げになった。

「血を取られれば、死ぬ」

「死なぬよ」

 くすりと笑ったウーストレルはシェイエスに向け、再び端正な指先を伸ばす。

「我は血と血を冠する言葉の支配者。血は我の糧だが、すべてではない。そして我は奪う者だが、与える者でもある」

 しなやかな腕に捕らえられ、引き寄せられる力に抗うつもりはすでにない。

「……私は、これからどうなる……?」

 受け入れることを前提として、小さく問えば。

「追うのさ」

 と、首筋に落とされた冷たい唇が囁く。

「そなたに逃れられない宿命と、身を焦がす激情を与えよう──永遠に我を求め、追うがいい」

 冷たさが転瞬、灼熱の口吻(くちづ)けとなる。

 痛みと、目眩と、底知れぬ快楽と。

「……なるほど。確かに安い買い物ではない、な」

 シェイエスは薄れゆく意識の中で、かすかに嘲笑(わら)った。



 ──代償は壊れた瞳ひとつと、血。



 気がつけば夜の気配は遠ざかり、たったひとりに(かつ)える己がいた。

 植えつけられた感情は憎悪に近く、また憎悪ではあり得ない。

 その渇望は、心臓に突き立てられた杭のように深々と己自身を貫いて、痛みがもたらす快楽が熾火のように(うず)く。



 ──ああ。



 これは、罰か……それともこれこそが恩恵か。

 森は深く、清廉な朝陽は遮られ、降り注ぐのを躊躇うようだ。

 ふと、右目の奥に違和感を感じ、シェイエスは眼帯を外して長いこと閉ざされていた瞳を開く。

 失くしたはずの視力。両眼で見る久しぶりの景色が歪む。距離感が上手く掴めない。いや、むしろ視えすぎるのだ。

「……治った、のか……?」

 そうでないことは解りきっていた。館に戻り鏡を覗き込むまでもない。この瞳はもはやひとならぬもの。軌跡のように残った闇の残り香さえも映す瞳が、ひとのものであるはずがない。

 これは契約の証──永遠の。

 おそらくは彼のひとと同じ、美しい紺青に染まっているだろう。

 シェイエスは投げ出した剣を腰に戻し、立ち上がる。読みさしだった書物が床に落ちたが、もうなんの興味も抱けなかった。

 脳裏を占めるのは、彼だけ。

 己がこれからなにを捨てようとしているのかは、火を見るよりも明らかだ。

 追い求めるのは、彼か……それとも、魔に冒されて得ることのできなくなった安息の死か。

 ──どちらでもいい。

 たったひとつを除いて全てを失う若き支配者は、ものいわぬ神ではなく、魔の手によって願いを叶える。



 ──誰のためでもない、ただ己の魂を焦がす唯一の。



 ヴィルヘルム家が大公の死を公にしたのは、当主失踪より二年目の春。

 葬儀は身分に相応しく盛大なものだったというが、豪奢な棺の中身が空であることを知っていたものは、ごく僅かであった。



 そうして魔は生まれ落ちる。

 黒き森、魔性の森で。


2話目は「嘆きの王」。死の公爵のお話です。

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