『ありがとう』
「3年間、ずっと気になってました! 好きです、付き合って下さい!」
卒業式のあと、ほとんどの生徒は学校の校門の方へ集まっているはずなのに、そんな一つの声が中庭に響いた。遠くのざわめきが微かに届く、爽やかな春の風が吹き抜ける、静かな中庭に。
一組の男女が向かい合い、男子生徒が頭を下げている光景。
僕はそんな二人をじっと眺めていた。
男子はあまり見かけない顔だった。坊主頭と日焼けした浅黒い肌を見たところ、たぶん野球部だろうか。キリッとした顔付きの、好感の持てる少年だ。
女子の方は、《あの子》だった。
いつも僕のそばにいた、彼女だった。
肩までギリギリ届かないほどのストレートヘアで、斜めに分けた前髪は黄色いヘアピンで止めている。そして一番特徴的なのは、大きめのレンズの赤縁眼鏡。僕と一緒にいるときは常に手にしていた本も、当然ながら今は持っていない。
彼女との出会いはおよそ三年前。ある晴れた日の昼休みだった。
僕はいつものように中庭から、昇降口を駆け出て行く生徒たちを眺めていた。穏やかな日差しを体中に浴びながら、静かに眺めていた。そんなとき、彼女が現れたのだ。
最初、彼女は僕にとって、昇降口から出てきた女子生徒の一人に過ぎなかった。だが他の生徒たちの流れに乗ってグラウンドの方へ向かう事をせず、彼女は反対方向――つまり中庭のあるこちらへ歩いてきたのだった。
中庭の真ん中に設けられた小道の先にあるのは、来客用入り口。
だから青い芝生もちゃんと整備されていて、花壇の花々も事務員さんによってしっかりと手入れがされていた。きっとそれが理由だろう、別に立ち入りが禁止されているわけでもないだろうに、そんな小綺麗な空間に自ら進んで赴こうとする生徒は、ほぼ皆無だった。
彼女はきょろきょろと何かを探すみたいに周囲に視線を巡らせた後、僕を見つけた。
そして驚いたことに、何の迷いもなく駆け寄ってきた彼女は、無言で僕のそばに腰を下ろしたのだ。更に片手に持っていた本を広げ、おもむろにそれを読み始めたのだった。
そんなことは初めてだったから、僕はどうしていいか分からなかった。
不意に、少女がぽつりと呟く。
「ここ、涼しくてすごく心地が良い……」
それはもしかすると僕に向けられた言葉だったのかもしれない。でも僕はその時、やっぱり何も応えることができなかった。
それからというもの、彼女は晴れた日は必ずと言っていいほど中庭にやって来るようになった。そして昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、僕のそばで本を読んで、そして何事もなかったかのように帰って行く。
いつしか僕は、彼女が来るのが楽しみになっていた。
彼女の読む本にはいろんなものがあった。そのどれもが、見た事のない物ばかりで、それをそっと盗み見た僕はひどく興奮したのを覚えている。
だけど冬になってからは、流石の彼女も中庭へは来なかった。
それほど退屈だと思った冬は、おそらく未だかつて無かっただろうと思う。でも冬が終わり、再び春が訪れて……最上級生が学校を去り新入生を迎える頃になって、また彼女はやってきた。
そして去年のように、本を読みに来ては、チャイムと同時に教室へ帰っていく。
それでもやっぱり僕らは、一緒にいる間、一言も喋ることはなかった。いつまでも、最後まで、言葉を交わすことはなかった。
もちろん『他の子と遊ばないの?』とか『どうして中で読まないで、わざわざ外で読書をするの?』とか、色々尋ねたいことはあったけれど、僕は彼女に声を掛けなかった。そばで本を読む彼女を、見守っているというそれだけで僕は満足だった。
そして今日は、ついに彼女が学校を去る番。
だから少年は、彼女に自らの想いを伝えようと決意したのだろう。告白の言葉を口にした少年が頭を下げたまま、静かな数秒が流れた。爽やかな風が彼らの頬を撫でたのと、ゆっくりと彼女が口を開いたのは、ほとんど同時だった。
「うん、こんな私で良ければ……」
その一言に勢いよく顔を上げた少年は、驚いたような嬉しそうな――きっと本人ですらよく分かっていないだろう――どこか滑稽とも思える表情を浮かべていた。
「本当に、良いのか!?」
「うん」
念押しの問いに、彼女は再度はっきりと答える。すると少年は遅れてやって来た照れくささに、鼻の頭を指で掻いてそれを誤魔化しながら、真っ白な歯を見せて満面の笑みを浮かべた。
「……じゃあまた連絡するわ! またな!」
「うん、また」
片手を上げて元気よく駆け出した少年の背中が消えるまで、彼女はじっとそこに立ったまま、見送っていた。
その口元が薄く微笑んでいるのを、僕は見逃さなかった。どんな本を読んでいても、彼女が表情を動かす事は一度としてなかったのに。僕が、彼女は感情を表に出すのがあまり得意ではないのかもしれない、という事に気が付いたのは、結構早いうちだった。
その彼女が、今、笑っている。
だったら、僕も祝わないと。『おめでとう』、その言葉を口にするだけでいい。たった一言を発するだけでいい。それなのに――。
やっぱり、声は出なかった。
何故なら僕には口がないから。喉も、手も、足もない。僕にあるのは、ゴツゴツした焦げ茶色の肌と、地面から垂直に伸びる太い体、それを支えるために地中へ張り巡らせた根、そして空いっぱいに広げたピンクの花々。
僕の気持ちは、君には届かない。僕には、歩き出そうとする君を止められない。
その時――。
どこからか吹き寄せてきた一陣の風が、僕が広げる枝々をこれでもかと揺さぶった。まるで、まだ諦めるなよと、誰かから背中を押されたような気がした。
……そうだ。届かなくたっていい。
喩え君には届かなくても。
それでも、僕の気持ちなんだ。
だから心の中で。
ただ、叫ぼう。
ザァァァ、という降雨にも似た音が中庭を満たした。
同時に、後方から吹き抜けていった突風に、少女は目を細めた。
それから、何気なく後ろを振り返る。別に、誰かに呼ばれた気がしたとか、不思議な何かを感じたとか、そういったものでは全然なかった。ただ本当に、ふとして見返ったのだ。
――そして少女は、眼前の光景に息を呑んだ。
空一面に舞う、花びら。
幾千の、花びら。
まさしく桜色の吹雪が、視界を埋め尽くしていた。その一つ一つがきらきらと瞬きながら流れ、降り注ぎ、それらはやがて、無味乾燥だったコンクリの小道を鮮やかに彩る。
だがその一方で、中庭に一本だけ植わる桜木は……。
まるで上着を脱いだみたいに、すっきりした佇まいになってしまっていた。つい数分前までは満開だったのに、今や見る影もない。しかしどこか誇らしげに見えるのだから、不思議なものだ。
文字通り言葉を失って、唖然と頭上を振り仰ぐ少女の鼻先に、最後のひとひらがふわりと落ちた。
――本の読み過ぎかしら。
少女は、ふとそんな事を考えて、思わず苦笑を零した。だって、その桜吹雪がどうしても、何かのメッセージのように思えてしまったから。『おめでとう』と、言われた気がしたから。
だから自分が返すべきは、『キレイ』だとか『スゴイ』だとかそんなありふれた感想などではないだろう、と少女は思った。きっと、送り主が求めているのは、もっと違う――……。
そう、例えば。
読了有難うございます。
今度高校の文化祭にて部活として展示する、文集のために書き上げたものです。