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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ダ・カーポ(AL CODA)

作者: 冷世伊世

 ミミズクの鳴く夜、エビルは家出した。

 五歳になるその少女は頭から白いシーツをすっぽりと被って、辺りをはばかるように田舎の土道を駆けていく。はだしのままの足音はかすかで、人けない月夜にせわしない呼吸だけが響いている。

 奇しくも今宵はハロウィンの夜。村の人たちは早々に屋内へと引き上げている。街灯ひとつない落ち着いた家並みの前に、カボチャをくり抜いた明かりが、不気味な笑みでいくつも光っていた。

 辺りに誰もいないことを確認して、エビルはどこまでも走って行った。両脇に家が立ち並ぶ土の道を、時おり後ろを振り返りながらよろつき進む。

「おっと」

 何度目かに背後を振り返って前を向いたとき、誰かにぶつかった。はずみで尻もちをついたエビルは、手にしていた包丁を取り落としてしまった。

「こんな夜更けに、どこへ行く?」

 座り込んだまま見上げたら、ぶつかった相手は黒スーツの青年だった。古風なレース飾りのシャツにカメオのブローチを首元につけ、シルクハットをかぶっている。雪のように青白い肌、奇跡のように整った顔立ちだ。真っ黒な髪の毛を造作なくはねさせて、にやりと笑う目は血の滴るルビィ色だった。

 青年がこちらへ手を差し伸べてくれたので、エビルはおずおずとそれを掴んだ。エビルを引き起こしてくれた青年の手はやはり白く、骨ばっていてとても大きい。そして氷のように冷たかった。

「君は……人の仔じゃないか。今宵は出歩くなと、ご両親に教わらなかったか?」

 両親。エビルはうつむいてしまった。下を向いたら、自分の体に巻き付けてきた白いシーツの赤い染みと、先ほど落としてしまった包丁が、足元でぎらついているのが見えた。

 エビルが答えないでいると、青年は嘆息して屈み込んできた。

「黙ってちゃ何もわからないよ。小さなレディ、お名前は?」

 片膝をつき顔を覗きこまれて、エビルはゆるりと首を振る。青年の赤い瞳をじっと見つめると、何事か考え込んでいた彼は気が付いたように自分の首元に手を伸ばしてきた。白いシーツで覆われた首を確認した青年は、その赤瞳を嫌そうに細め、口許をひん曲げている。

「参ったな……」

 そう呟く青年の八重歯は、不思議と長く鋭い。ぼんやりとそれを見つめていると、彼はふと遠くを見るように立ち上がった。エビルが振り返ると、こちらへ走ってくる一匹の子犬の姿が見える。灰色に薄汚れたその子犬は、エビルを見つけるなり驚いたように唸った。警戒して後じさりするその子犬へ、青年は笑顔で一歩近づいた。

「グレイ、久しぶりだな」

 グレイ。そう呼びかけられて、みすぼらしい子犬はひとつ大きく身震いをする。次の瞬間にはかぱりと口を開け、甲高い子供の声で喋った。

「そいつは食料か?」

「いや。ここで拾っただけだ」

 青年は苦笑いだった。エビルはその喋る子犬を、ついまじまじと眺めてしまった。生まれてから、人語を解す犬を見たことがない。けれど辺りを見回してみても、この場にいるのは自分と青年、そして灰色の子犬だけで、他に喋りそうな人の姿もない。じっと見つめていると視線に気付いたのか、子犬は嫌そうに鼻をすんすん言わせた。

「なんだこの餓鬼。血の匂いがするぞ」

 青年は不思議そうに首をひねっている。

「うーむ。あまり美味しそうじゃないだろう」

「まあな。旦那が要らないってんなら、俺が喰っちまおうか」

 ぺろりと舌なめずりをする子犬が目を爛々と輝かせて足元に寄ってきたので、エビルはなんとなくその頭を撫でてみた。灰色の縮れた毛は意外にもふかふかで、柔らかな獣の耳が小刻みに震えている。

「やめろ触るな! 喰っちまうぞ!」

 エビルの手をよけるように子犬は下がってしまった。行き場をなくした手を未練たらたらに降ろすと、真横で青年が地面に落ちていた包丁を拾い上げていた。

「これは君の?」

 エビルは頷いた。差し出された刃物を片手で受け取り、ここまでそうしてきたように無造作に提げ持つ。子犬が嫌そうに唸った。

「旦那、こんな餓鬼放ってもう行こうぜ。俺たちだけみんなから遅れっちまう」

「そうだな。今宵は遠くまで足を運ぶんだ、急がないと」

 遠くまで行く。その一言を聞きつけて、エビルはとっさに青年の片手にしがみついていた。進みかけていた青年の足がぎくりと止まる。振り返って来た彼の眉は弱り果てたように下がっている。

「放してくれないか?」

 エビルは離すまじと青年の手のひらを抱きかかえた。じっと見上げた先で、彼の赤い瞳が一瞬だけ不思議な光を宿して見えた。子犬が足元に寄って来て、エビルの足首にかみつくように口を開け、唸っている。

「おい餓鬼! 放さないと喰っちまうぞ!」

 エビルが首を振ってますますしがみつくと、青年は赤目を少しだけ細めて笑った。

「我々と一緒に来たいのかな、お嬢さん?」

 その言葉にエビルは思い切り頷いた。遠くへ行くという彼らについていきたい。するとエビルの足首に噛みつこうとしていた子犬が、毛を逆立てて飛び上がった。

「旦那、まさか冗談だろう!?」

「なにがだ?」

「こいつは人間だぜ!? それも嫌な臭いのする、不味そうな餓鬼だ!」

 別にいいだろう、と青年は含み笑いをしている。

「少しくらい連れ回っても。食べるわけでなし、不味そうでも構わないさ」

「俺たちが喰わなくても、他の奴らが喰っちまう!」

「なにか問題でも?」

 子犬は返答に窮したのか、唸り身を縮こまらせている。その頭が近くにあったので、エビルはそっと撫ぜてみた。

「やめろって言ってるだろ! 本当に殺すぞ!」

 ガチリと開けた歯で危うく手を噛まれそうになって、エビルは慌てて青年にしがみついた。青年はエビルを丁重に引きはがすと、包丁を握っていない方の片手を優しくつないでくれた。

「小さなお嬢さん。グレイは頭を撫でられるのが嫌いなんだ。申し遅れたが、僕はシャルル=クロード伯爵という。僕のことはクロード伯爵と……呼んでくれなくても構わないよ」

 青年は途中で気が付いたようで、そう言葉を曖昧に濁した。頷いたエビルの足元で、グレイが不可思議そうにその場で一周している。

「こいつ、なんで喋らないの?」

「さてな。行くぞ」

 青年ことクロード伯爵に手を引かれ、エビルは夜を歩き出した。伯爵の歩幅は大きく、エビルはその速度について行くのが精いっぱいだった。身軽な子犬のグレイは、あっという間に二人の先を歩いていってしまう。

 かぼちゃの明かりが両脇に灯された住宅街を進むと、しばらくして噴水のある広場へ出た。村で唯一の開けた場所には、なぜか大勢の人が集まっていた。遠くからでもその賑わいが見て取れて、エビルは首を傾げた。夜も更け、村人たちはとっくに寝静まっているはずなのだ。それに今宵は特別な夜で、夕方から誰も外に出ようとはしないはずなのに。

「おう、賑わってるなぁ」

 先を進んでいたグレイが嬉しそうに飛び跳ねている。広場に近づいていくと、その場にいた全員の視線がこちらへ注がれた。エビルは彼らの容貌を見てびっくりしてしまった。誰も彼も、とても普通の人には見えない。ぼろきれを纏った老婆や案山子のような姿の者、はては動植物の形を模した生き物までいる。

「や、遅かったじゃないですか伯爵」

 そう声をかけてきたのは、緑のトカゲが二足歩行したような格好の生き物だった。黄色い瞳をしたそのトカゲの顔はカメレオンに似て、喋ると長い舌が蛇のようにちらつく。伯爵は平然と薄く微笑んでいる。

「済まない、支度に時間を取られてね」

「んん? その餓鬼は……伯爵の食用で?」

 そう言って顔を近づけてきたトカゲ男は、大きく黄色い瞳でエビルを隈なく観察している。エビルがその不可思議な風貌に見惚れていると、伯爵がくすりと笑った。

「不味そうだろう? 新入りだよ。僕は美食家(グルメ)だから、これは喰えない」

「むむむ、確かに。食用というよりは、我々に近しいですな」

 トカゲ男は納得したのか、エビルの頭を吸盤のついた手で優しく叩いた。

「新入り。せいぜい夜を楽しめよ」

 エビルの足元でグレイが、気にくわなさそうに唸っている。間近にあるそのふかふかの頭にもう一度触れようかと悩んでいたら、噴水の向こうで凛とした女性の声がした。黒衣にとんがり帽子を被った美女が、手をひとつ叩き広場の注目を集めた。

「さぁさ、伯爵も来たしみんな集まったね! 行くよ、我らの夜に悪辣と呪詛を! 喰い殺せ(たのしもう)!」

「喰い殺せ(たのしもう)!」

「悲鳴を寄越せ(たのしもう)!」

「はらわたを(たのしもう)!」

 雄たけびを上げると、その場にいた者たちは列をなして、村の家が立ち並ぶ方へと歩き出した。その最後尾についた伯爵はゆったりとした足取りだ。エビルは伯爵と手をつないだまま、興味深く周囲を観察しながらついていく。広場に集まった「人たち」の風体が、見たことのないものばかりで面白かったのだ。歩く大きなキノコや毛むくじゃらの熊に似た大男、カッパのように鱗のある生物、包帯をぐるぐる巻きにしたミイラもいる。エビルが見つめると彼らは一様にこちらをちらと見下ろして、「新入りか」「鬼火の子か?」「いや、伯爵の隠し子」「不味そう」と言葉を交わしている。

「あんまりじろじろ見てると、喰われっちまうぜ」

 足元で鼻を鳴らしたグレイが、嫌そうに唸り言ってきた。構わずにエビルは辺りを見ていたが、横を歩いていた伯爵が不愉快そうに舌打ちしたので、ついそちらを見上げてしまった。

「僕の隠し子なわけがない……」

 口許を曲げた伯爵は、エビルを自分の子と言われて機嫌を損ねたようだ。怒っているというよりも、むくれているように思えて、すねた子供のようなその表情が、エビルにはおかしかった。

 そうして歩いていくうちに、先頭にいた者たちが止まり、列全体が歩みを止めた。前方から賑やかな叫び声が聞こえてきて、周囲が浮足立ってくる。グレイが待ちきれないとその場でくるりと回った。

「旦那、もっと前に行こうぜ! 喰いっぱぐれちまう!」

 伯爵はやれやれと首を振り、頷いた。エビルの手を引き列をかき分け、最前列へと向かっていく。辿り着いたのは一軒の家の前だった。緑色のベニヤ壁が美しい、広い庭のある邸宅だ。その前には、集まって来た異形の者たちがひしめき、押し合いへしあいしている。少しずつ家の中へ入る彼らの後に、伯爵とエビル、グレイもついていった。

 エビルはこの家の住人を知っていた。父に連れられ、以前に何度かやって来たことがある。

 広い前庭の芝を踏み越え、異形の者たちは忍び笑いで家の戸を難なく開けた。扉には鍵がかかっていたはずだが、先頭の者がノブを回せば抵抗なくするりと開いた。玄関に入ると、この家の住人の写真がいくつか飾られている。それを見てエビルはやはりと頷いた。

 ここは村の「お金持ち」の家なのだ。名前は知らないが、エビルは玄関に飾られた写真の太っちょのおじさんを見たことがある。父と一緒にこの家を訪れたとき、意気地の悪い笑みで煙管をふかしつつ、エビルのことをゴミでも見るみたいに睨んできていた。その太ったおじさんのことが、エビルはあまり好きではない。

 先に家の中に入った者たちは、主寝室へと進んでいた。明かりが落ちた部屋で、「お金持ち」のおじさんはベッドで眠っているのだろう。野太いイビキが中から聞こえてくる。

 開けっ放しにされた主寝室の戸の前で伯爵が立ち止まったので、エビルもなんとなく足を止めた。グレイがその横をすり抜けて中へと入って行く。

 室内からくぐもった男の悲鳴が一瞬だけ聞こえてきた。何だろうとエビルが考えていると、あとは異形の者たちの笑い声だけが聞こえてくる。卵の殻を割る音や小枝が折れる音、とろみあるスープを啜る音がしていた。中途半端に開いた扉の影にいるために、エビルには室内の様子が見えない。伯爵の位置からも中の様子は見えないはずなのに、彼はなぜか愉快げに笑っていた。

「ん? 見えなかったのか」

 伯爵が気遣うように主寝室の戸を全開にしてくれた。むわりと鉄さびの匂いが広がって、真っ赤に染まるベッドと、その上に捌かれた状態の人間のなれの果てが見えた。肋骨だけが原型を留めて浮き彫りになり、中の臓器は周囲の者たちに食べつくされている。ベッドの側では異形の者たちが、笑い転げながら口や手を真っ赤にして「お金持ち」のおじさんを貪っていた。その首から上が無いと思ったら、窓際で先ほどのトカゲ男が、白目をむいたおじさんの顔を逆さに持ち、中身を美味しそうにすすっていた。ベッドの上に横たわる『食べカス』の、力なく投げ出された腕や足の骨ですら競い合うように食まれ消えていく。こちらへ尻尾をふりふり上機嫌で駆けてきたグレイは、肘から先の腕の骨をくわえていた。

「旦那、喰いっぱぐれたな」

 伯爵は苦笑している。

「いいよ。僕は美食家(グルメ)なんだ、脂ものはちょっと」

「そうか? 上手いのになぁ」

 むしゃむしゃと骨を齧っているグレイは、ちらりとエビルを見上げて嫌そうな顔をした。

「そんなにもの欲しそうに見たって、わけてやらねぇからな」

 エビルはゆるりと首を振る。べつに欲しくない。

 そうしてあっという間に「お金もち」のおじさんは、跡形なく食べつくされてしまった。最後に残されたシーツの赤い染みや床の汚れの一滴までを、その場にいた者たちが食み飲み、舐めつくしてしまった。

「さあ! 次だ次!」

 誰かの弾んだ声が聞こえて、エビルたちは家の外へ出て行く。相変わらず手をつないだままの伯爵は、何を考えているのかその赤目を愉快そうに細め、周囲の様子を窺っている。足元では満足そうにげっぷをするグレイが、ゆったりとした足取りで歩いていた。

 次に隊列が足を止めたのは、白い木造りの家だ。エビルはこの家に「先生」が住んでいたことを思い出した。ひっつめ髪に三角形のメガネをかけた女性教師で、教育と称し子供に体罰を加えることで有名だった。昔、エビルが学校に通っていたころ、青あざができるまで何度も彼女には叩かれたものだ。エビルは彼女のことが嫌いだった。

 異形の隊列は先ほどと同じように、家の戸を難なく開けると主寝室へ進み、彼女の体を貪り喰った。少しだけ異なる点といえば、エビルのために伯爵が気を利かして、今度は主寝室の内部が見えやすい位置に立ち、エビルを腕にかかえ上げてくれたことだ。視点が高くなり、今度はその一部始終を見物することができた。

 熟睡する「先生」のベッド周りに集った怪物たちは、まず彼女の両腕、両足を、一斉に示し合わせて別方向へと引っ張った。肉の裂ける音と骨が折れる軽い音がして、部屋中に赤黒い染みがシャワーのように飛び散った。「先生」は寝ている体勢のままで、泡を吹き絶命していた。けらけらと笑う怪物たちは、シャンパンでも浴びたみたいに上機嫌だ。戸口に立っていた伯爵は、とっさに顔をかばっていた腕を下ろし、眉をしかめている。

「服が汚れる」

 しかし服の汚れを気にするのは伯爵だけらしく、他の者たちはごちそうに飛びついている。狼男が「先生」の胴体を食い漁り、長いはらわたをびらびら出しては引きちぎっている。腕や足は魔女と骸骨頭の者、ミイラ男と、なにか良くわからない毛むくじゃら男の口に消えた。グレイは食べることには飽きたのか、部屋内で尻尾をふりただ駆けている。

 怪物たちが「先生」を食べ終えると、また別の家にいって同じことの繰り返しだった。寝静まっている者に忍び笑いで近づいては、体をもいで骨をしゃぶる。鮮血が散れば歓声が上がった。寝ている家主が起きて悲鳴を上げると、ここぞとばかりに怪物たちはいたぶり始め、生きたまま少しずつ爪や皮を削いだりした。伯爵は終始穏やかな笑みで、様子を眺めている。グレイはそのお祭り騒ぎに参加したりしなかったりで、時々おこぼれに預かっていた。

 次の家へと移動する間に、エビルは疑問を問うために伯爵の片手を引っ張ってみた。

「ん、なにかね?」

 エビルの喉は声を出せない。『伯爵はみんなのように食事をしないのか』と聞きたかったのだが、それを伝えるすべがなかった。仕方なくついさっきまで残虐の限りをつくした家を指さすと、伯爵は合点したという風に頷いた。

「ああ、あの家をどうして狙ったかということか。その両隣の家は襲わないのか、見逃された者も食べに行こうと、そう言いたいんだろう?」

 違う。伯爵は満足げに目を細めているが、検討はずれも良いところだった。エビルが否定の意を示す前に、伯爵はもうつらつらと語りだしていた。

「『ジャック・オ・ランタン』だよ。僕たちはカボチャの飾られていない家を狙うんだ」

 さも当然とそう言われて、エビルは先ほどの家をつい振り返っていた。たしかに、あの家には不気味なカボチャのランタンがひとつも飾られていない。けれどその両隣の家には、軒先にカボチャがたくさん置かれてある。思い返してみれば、「お金持ち」や「先生」の家の前にも『ジャック・オ・ランタン』は飾られていなかった。一見して無作為に襲撃を繰り返しているようで、異形の者たちはなんらかの基準で動いていたらしい。

 伯爵を見上げると、彼は近くの軒先に飾られた巨大なカボチャを顎で示した。

「あれは我々への恭順の意なのだ。夜を歩く者のために、ああして道を飾りつけしてくれている。人の仔は夜目が効かないから、僕らが歩きやすいようにと気遣い、置いてくれるんだろう。ま、実のところ不要だが」

 伯爵は笑っている。「夜におもねる人間たちは襲わない」という決まりがあるらしい。

エビルは首を傾げた。自分が聞いてきた話とはずいぶんと違う。村では『ジャック・オ・ランタン』は聖なる魔除けとして扱われている。それを「子供だまし」や「古い伝承」と笑い飾り付けない者も多いが、あれを軒先に置くのは怪物のためではない。ましてや「怪物が歩きやすいように」という配慮などでは決してない。「ジャック・オ・ランタンに触れた怪物は溶ける」という噂を、エビルは聞いたことがあるくらいだ。けれど今、カボチャの横を通り過ぎる怪物たちは平然としたもので、伯爵はその飾りを快く思っているらしい。家並みに沿い続くカボチャ飾りをぼんやりと眺めていると、列をはずれたカッパが足でそれをぐしゃぐしゃに壊して遊んでいた。周囲で見ていた者たちが面白そうだと真似をして、数個のカボチャの顔が無残につぶされていく。

「へぇ、それが噂の伯爵の隠し子かい?」

 凛とした女性の声が頭上からして、エビルは顔を上げた。移動を続ける隊列の後ろから、箒に乗った黒ローブの美女が宙を浮遊し、そばへ寄って来ていた。歩く速度でエビルの真横を飛ぶ彼女は、長い黒髪を妖艶に揺らしてエビルを覗きこんでくる。触れられそうなほど間近に迫ってきた彼女の顔はびっくりするほど美しかったが、どこか作り物めいた不気味さがある。彼女のにやつく真黒な両目に、青白い自分の顔が映り込んでいた。

 伯爵は歩みを止めず、嫌そうにため息をついた。

「そんなわけがないだろう。これのどこが僕の血縁なんだ」

「そうかい? 血の気がなくて不味そうなとこなんか、そっくりだけどねぇ」

 ニヤニヤと笑う魔女は、エビルから顔を離すと伯爵と交互に見比べている。足元でグレイが甲高く吠えた。

「エブリン、そいつはその辺に落ちてた餓鬼だ。喰うってんなら止めないぜ!」

 エブリンと呼ばれた美しい魔女は、肩をすくめて苦笑した。

「いいや、遠慮しとくよ。これは食べるっていうより、香草か薬の材料にした方が良いかもねぇ。あんまり美味しそうにも見えないし」

 グレイが悔しそうに唸る横で、伯爵は面白そうに笑っている。そういえば、とエブリンが伯爵を見た。

「食べるといえば、あんたちゃんと食事は摂ったかい? せっかくご馳走づくしの夜なんだ、食べないと損だよ?」

「ふむ。それはそうだが、後でな」

 伯爵はちらりとエビルを見下ろした。そのにやつく赤瞳はなにかを企んでいるようだ。グレイが両耳と尻尾をぴんと立てて、期待の声を上げた。

「この餓鬼を喰うのか!?」

 伯爵は笑っている。エビルは不思議と恐怖を感じなかった。先ほどの「お金持ち」や「先生」と同じように、自分も彼らに食べられるのかもしれない。なんとなくその事実を、他人事のように噛みしめただけだ。

伯爵は「おいで」と優しくエビルに両腕を伸ばしてくる。その手にためらいなく捕まると、片腕でエビルは抱え上げられた。視点が高くなり、グレイと魔女がこちらを見上げているのがわかる。伯爵の首の辺りにしがみつくと、一瞬だけ鬱陶しそうな顔をされたが、あとは特に何も言われなかった。手の平で触れてみた彼の首はやはり氷のように冷たい。

 気が付くと前方の隊列は歩みを止めていた。どうやら次の家に着いたらしい。伯爵はエビルを抱えたままで列の最前へと歩いていく。家の前まで来て、異形の者たちはなぜか戸惑い、中へ入るのをためらっているようだ。伯爵だけが怪物たちをかき分けて、前へ前へと進んでいく。

 そこは茶色いレンガ造りの家だった。エビルはその家を良く知っていた。玄関まであっという間に運ばれて、エビルはぎょっとした。思わず伯爵の顔を見ると、彼は得たりと微笑んでいる。

「さぁ。中に何があるのか、見てみよう」

 エビルはぶるりと首を振った。この時になって、ようやく恐怖を感じたのだ。エビルはこの家の中に入りたくない。この茶色い家に、自分の家には帰りたくないのだ。だから夜にこっそりと逃げ出してきたのに、こうして戻って来てしまった。

 伯爵から逃れようとあがいてみるが、抱きあげられているのでほぼ抵抗はできなかった。手足をジタバタ動かして、その時までついぞ握りっぱなしだった包丁を、伯爵の背に突き刺そうとした。ためらいなく振り下ろした包丁は、けれど伯爵の背につく前に切っ先から灰になり崩れてしまう。びっくりして包丁を取り落したエビルに構わず、伯爵はずんずん足を進めていった。レンガ造りの家の戸を開け、中に入ると、細い廊下とその脇にある二階へ続く木の階段が見える。凍り付くエビルを抱えたまま、伯爵は鼻をすんすん言わせて、迷いなく廊下を進んでいった。他の怪物たちはなぜか家の入り口に留まって、戸惑った様子で二人が中へ入るのを見守っている。エビルは周囲を茫然と眺めながら、伯爵からなんとか逃れようと必死だった。

「おや。これは君の仕業かな?」

 くすくす笑いの伯爵は、キッチンへと足を進めていた。彼がにやつき見ているのは、床にうつぶせに倒れる男性と、辺り一面に広がる血の海だ。倒れているのはエビルの父親で、たしかにこの手で為した所業だった。エビルは家を出る前に包丁を取って来て、父親が倒れたところを後ろからめった刺しにしたのだ。赤色を視界にいれないように、エビルは伯爵の首にしがみついた。エビルに罪悪感はない。ただこの家にこれ以上留まりたくなくて、この家が恐ろしくて、他にしがみつけるものがいまは伯爵以外になかっただけだ。伯爵は意外にも優しく頭を撫でてくれた。

「よしよし。上出来だぞ、なにも怖がることはない」

 そう甘い声であやしつつ、伯爵はエビルの最も恐れている場所へと歩いていく。倒れた父親のすぐ横の床に、地下へと続く上げ戸がぽっかりと口を開けている。伯爵は迷いなくその中へ入って行った。エビルは震えながら、伯爵の首にしがみついてすすり泣いていた。降りた先の地下は、エビルの部屋だ。窓のない土壁の真っ暗な部屋は、エビルが今夜まで毎日過ごしてきた場所だった。明かりひとつないこの部屋には、固くて埃っぽい灰色のベッドとトイレのみがある。この場所から抜け出したくて、エビルは父親のふいをつき、ようやく外へ抜け出したのだ。

 伯爵はエビルをベッドへそっと降ろすと、その首元を確認してきた。

「君が喋れないのは、あの死んだ父君に喉を潰されたからかな?」

 エビルの視界は涙でぼやけていたが、伯爵の言う通りだったので頷いた。地下に閉じ込められてから泣き叫んでいたエビルの声帯を、うるさいと掻き切ったのはあの男だ。いっそ殺せばよかったものを、何を思ったか父親は死なない程度に手当てをして、エビルをまた地下に閉じ込めた。エビルの父親は医者だったので、人を殺さずに苦しめる術を重々理解していた。残虐の限りをつくされて、エビルはなにもかもに疲れ果てていた。ただこの部屋から抜け出したい、その一心で今日まで生きてきたのだ。その内心を読んだように、伯爵がおかしそうに笑う。

「ここに君を置いて、僕は上から厳重に封をしようと思う。君が二度と、地下から出られないようにね」

 伯爵は嬉しそうだった。エビルは必死に首を振った。いやだ、それは、それだけは嫌だった。ここに閉じ込められているのはもう嫌なのだ。

 にっこりと伯爵は笑った。それは今日見た彼の表情の中で、一番無邪気で美しい。赤いルビィ色の瞳が甘みを帯びて潤んでいる。

「ほぅら、美味しそうになった」

 いただきます、と。目にも止まらぬ速さで視界がくるりと回る。首筋に感じる痛み、熱。首から猛毒を入れられたように熱が広がり、体を血管の中から焼いていく。チカチカと視界が明滅して、その時になってようやく伯爵に首を噛まれていると気が付いた。全身から力が抜けていき、くたりと泥人形のように崩れていく。電池が切れたように、目の前が真っ暗になった。沈黙と静寂が訪れて、エビルは意識を手放した。



――夜、エビルは目を覚ました。

 ぼんやりとベッドの上で目をこすっていると、部屋が異様に明るかった。見れば引き戸が開いていて、父親が「エビルの餌」を運び入れている最中だった。一日の内でたった一度だけ、部屋の戸が開き、食べ物が入れられる。いつものように父親は作業を終えると、無言で背をむけ、外への階段を上っていく。エビルはベッドの上でそれをぼんやり見ていた。あの光の外へ出て行けたらと、戸が開く瞬間に何度か逃げ出そうとして、すでに数えきれないほど手痛い目にあっている。エビルの左手の指はその時にもがれて、今は二本しか残されていない。

 いつも通りの光景をただ眺めていたら、階上で物が倒れる大きな音がした。ガラスの割れる音、父親のうめき声が聞こえる。部屋の戸は開いたままだ。床を這いずるような衣擦れが聞こえてきていた。エビルはそっとベッドから降りた。怯えながら階段を少しずつのぼり、一段進むごとに父親に見つかっていないことを確認しては、ついに階上をそっと覗きこんだ。

 父親が倒れていた。割れたグラスの破片と水が床に広がって、その向こうでうつぶせに倒れている。顔は反対側を向いていて、エビルがここまで出てきたことはまだ気づかれていない。腰を押さえているところを見ると、転んだ拍子にひどく痛めたのかもしれない。父親は起き上がれずに床の上でもがいていた。

 エビルは静かに地上へ出た。はだしで床を踏むと、水色のタイル地がひたりとした冷たさで心地よい。かび臭くない空気、キッチンは窓からの月明かりに照らされて、随分とまぶしく見えた。そのまま出て行こうとして、ふと机の上の包丁が視界に入った。月光を跳ね返し、ぎらつく銀の波紋と切っ先が、むきかけのリンゴのそばに転がっている。エビルはその包丁の黒い柄に手を伸ばした。音もなく握った刃物は思っていたよりも軽く、手にしっくりとなじむ。ぺたぺた床を踏み、呻く父親のそばまで歩いていくと、彼はようやくこちらに気が付いたようだった。エビルが手にしている刃物へとその目が怯えたように向けられる。

 彼が言葉を発する前に、エビルはまずその首を迷いなく掻き切った。父親が教えてくれたことだ。「うるさい時は首を掻き切れ」。

 目を白黒させる父親の手の爪を、エビルは一枚一枚はいでいく。これも彼が教えてくれたことだった。「悪い子にはお仕置きだ」。

 そうだった、とそこでエビルは思い出した。彼の背に幾筋も傷をつけなければならない。それから左手の指を三本もいで、肩の骨を何度か外して、足の骨を折って、それからそれから……。

 すべきことはたくさんあって、エビルは精いっぱい頑張った。全部父親が教えてくれた通りのことだ。ただエビルには治療の仕方がわからないし、放置するつもりではいた。

 汗だくになり一通りの仕事を成し終えて、エビルはようやく家の外へ出ることにした。汗が引いてきて寒かったので、その辺にあった白いシーツを頭からかぶり、包丁を握ったままで駆けていく。

 外へ出ると、今日は特別な夜だった。寝静まった家並みの軒先には『ジャック・オ・ランタン』が飾られて、通りには人の気配が全くない。魔物の出るというハロウィンの夜に、出歩こうとする者はいないのだろう。父親が今にも追いかけてくるのではと心配で、エビルは何度も後ろを振り返りつつ、土の夜道をはだしで駆けていく。

 ミミズクが遠く鳴く夜に、エビルはついに家出をした。よろつき後ろを振り返りながら走って行くと、頭上には大きくて丸い月がある。

――あの月が消えるまでに、夜に隠れなくてはいけないよ。

 ささやき声が聞こえて、前方不注意だったエビルは思い切り誰かにぶつかり尻もちをついた。

「こんな夜更けに、どこへ行く?」

 見上げた先でルビィ色の瞳をした青年が、面白そうに笑い手を差し伸べてくれていた。




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