ご主人様とメイド
……ん? あれ? 俺は……。
そっか、死んだのか。
じゃあこれが、死後の世界か……。
何だか、俺の部屋みたい……って――
――ここって俺の部屋じゃん!
遼河はベッドから飛び起きた。途端にひどい頭痛がやってきて、頭を抱えて唸り声を上げる。体中の細胞が四方八方へ飛び散ろうとするかのごとく疼き始め、悪寒と狂熱が交互に襲い掛かってくる。体が何かを吐こうとしているが、胃の中に何もないため、酸っぱい液体がわずかに逆流してくるだけだった。
荒くなった呼吸を沈めようと、深呼吸を無理やり続ける。
体の暴走も少しばかり収まり、今の状況を冷静に考える余裕が生まれ始める。
いったい、何故自分はこんなところにいるのか?
トラックに轢かれて死んだはずだったのではないか?
そもそもトラックに轢かれて死んでいたとしたら、死んだ後でトラックに轢かれたなんて実感することは不可能ではないか。
「えっ? じゃあ、さっきのは、夢ってこと?」
独り言は虚しく宙を彷徨う。
何を信じていいのか分からない。そういえば、ここは本当に俺の部屋なのか? とりあえずもう一度部屋の中を見渡してみる。小学校に上がる時に両親が買ってくれた勉強机、クローゼットの位置、本棚に並べられてある少年漫画の数々。部屋にあるすべてのものが、ここが紅嶺遼河の部屋だと証明してくれていた。
「いや、でも俺、トラックに……」
だんだんと鮮明な記憶がよみがえってくる。不協和音を聞いている時のような頭痛も一緒にやってきて、思わずこめかみを抑えた。
「轢かれて、それで俺は……」
自分の腕や足を動かしてみても、今まで通り正常に動いていることが分かるだけ。動かない部分もなければ、ロボットのようにカクカクとしか動かないなんてこともない。手を胸にあて、心臓が力強く脈打っていることも一応確認する。
「あれで、無傷? いやいやありえない。ってことはやっぱり夢? ベッドにいるし」
もう一度、かすり傷くらいはあるかもしれないと思って体をくまなく確認する。やはり何もない。まあ、あれだけの事故でかすり傷程度なんてことはあるわけないのだが。
自問自答を繰り返していた時、がちゃと部屋の扉が一人でに開いた。
「あっ……」
続けて驚きと喜びが混じった柔らかい声が聞こえてきた。真っ赤な髪をもつ彼女の目尻から涙がしとしとと流れ落ちる。
「目を、覚ましたんですね」
ああ、やはりここは死後の世界か、夢の中か。一人暮らしのはずの自分の家の中に女の子がいるわけがない。ってかあいつ、あの時の。
「お前は、赤い瞳の」
「ご主人様! よかった。目を覚まして本当に……よかったです」
赤い瞳の少女はベッドまで駆け寄って勢いよく遼河に飛びついた。
「ちょ、お前。いきなりこんなの、ってかご主人様って」
何が起こっているのか全く分からない。
だが、とりあえず初めて女の子に抱き付かれていることと、その女の子の体が思っていたよりも華奢だったということは身に染みて理解した。。
「ご主人様。よかった、本当によかった」
「ご主人様って……んなことより離れろって」
彼女の顔を押して体を引き離そうとするが、筋肉に思ったように力が入らない。
これは彼女から漂ってくるほのかにあまい香りのせいなのだろうか。女子ってこんなに心地いい香りがするものなのだろうか。それに、何だか、体も暖かくなってきているような――って、
「おいお前! 熱い! 熱い! 離れろって!」
彼女の体が異様なまでの熱を帯びていったので、身の危険を感じて叫んだ。
「あっ! ごめんなさい……」
彼女も遼河が死にかけていることが分かったようで、遼河から離れ、ベッドから二歩後ずさりした。
「お前、俺を殺す気か」
体を起こしながら遼河は彼女に文句を垂れる。
「ごめんなさい。つい嬉しくて」
「嬉しくてって。ってかお前の体は何でそんなに」
「ご主人様は、そんなに私の体に興味があるのですね?」
彼女は艶めかしい声音で言って、体をよじらせながら無駄に恥じらう。
「体ってそういう意味じゃない! 何でお前の体はそんなに熱いんだってことだよ!」
言葉足らずだったことに気が付き、慌てて訂正する。
「ですから、ご主人様が目を覚ましたことが嬉しくて、つい興奮して」
「だから、嬉しくて何で熱くなるんだよ。普通の人間はあそこまで熱くなったりしな……い……はず……」
言葉は途中で止まってしまった。実際、冷静に考えてみればさっきみたいに、人間の体があそこまでの体温を持つことは考えられない。
ああ、ってことは、あれか? 俺がこういうことに慣れてなさ過ぎて、照れすぎて、自分の体温を急上昇させたって、そういう――
「あっ、申しわけありませんご主人様。申し遅れておりました。私の名前はクレアといいまして、まだ人間ではありません」
「そっか。人間じゃないのか。なら納得……えっ? 人間じゃない?」
目をこれでもかと大きく見開いて、クレアの体をもう一度、隅々までゆっくり確認していく。やはりというか当然というか、天使のわっかみたいなものなければ翼もない。爪が異常に長いとか、地面から浮いているとかそういうわけでもない。
見れば見るほど、一般的な人間にしか見えてこない。
「あの……ご主人様。やっぱり私の体に、興味がおありなのですね」
「……あっ、いや違う!」
「でも、そんなにじろじろ見つめられてますし」
焦る遼河とは対照的に、クレアは何故か少し嬉しそうだ。
「それはただ、お前が人間じゃないっていうから……ってそういえば」
驚きと恥ずかしさが先行しすぎて、最も聞かなければいけないことを忘れていた。
「はい。何でしょう?」
クレアは満面の笑みを湛えて、遼河の質問を待つ。
「その、えっとお前は、じゃなくて俺はトラックに轢かれたのか? お前はそれを見ていたのか? これは夢なのか?」
遼河は今までに感じていた疑問を全部クレアにぶつけていた。
目の前にクレアがいるという事実が、あの事故が夢ではなかったと証明している。ということは、自分はトラックに轢かれている。でも死んでいない。そうすると事故は夢の中の出来事なので、クレアが実在しているはずがないのだが、実際クレアは遼河の目の前で動いている――という感じで、遼河の頭は無限ループに陥ってしまっていたのだ。
「それは私にも分からなくて。せっかくご主人様に会えたのに、いきなりあんなことになって。それからすぐに世界が暗転したと思ったら、なぜかこの部屋にいて、ご主人様がベッドに寝ていて」
クレアは申しわけなさそうに目を伏せる。さっきまでの笑顔は消え、表情に色濃く影ができている。
どうやらクレアもこのことについては知らないようだった。
「ああ。そう、だよな」
分からないのならこれ以上聞いても仕方がない。かといって他の話題も見つけられないから、必然的に無言になってしまう。
初めて会ったばかりの女性と、不法侵入している女性と、いったい何を話せばいいというのだろう。
「でも、あなたが私のご主人様だということに変わりはありません」
クレアがその空気を察したのか、鼻の先が触れるくらいに顔をぐっと近づけ、真剣な眼差しでそう宣言する。
「おぉあ、あ、あ、いや、だから、そのご主人様ってのは何だよ?」
急に顔を近づけられるようなことをされて、そのままでいられるような耐性なんて持ち合わせていない遼河は、反射的にクレアの肩を手で押さえ腕の長さ分の距離を取った。
「はい、それはですね」
クレアは穏やかな声でささやいて、自分の肩に置かれている遼河の右手を両手で包み込むように握った。
「今、私はとてもドキドキしています。これこそが、あなたが私のご主人様である証です。そして、ご主人様と私は契約を交わせば一緒に戦うことができます。私とご主人様で協力して敵を倒すのです」
「えっ? 戦う? 敵?」
「はい。私と同じようにこことは別の世界から来た者たちと戦うのです」
頭はもうパンク寸前だった。クレアの言っていることは非現実的で、でも自分自身に起こっていることも非現実的で、何を信じていいのか全く分からない。
「別の世界……ってか何で戦うんだよ?」
「それは私にも分かりません」
「分からないって、お前が知らなかったら誰が知ってるんだよ」
『それは、私がお答えしよう』
突然、遼河の背後から音声が鳴り響いた。重低音で威圧感のある男の声。背後には壁しかないはずなのにと、恐るおそる振り返る。
「……え?」
誰もいなかった。けれど不思議な現象は起こっている。背後のまっさらな壁にさっき聞こえた声と同じ文字が浮かび上がっていたのだ。薄暗い灰色で、見ているだけで気味悪さが襲ってくるような色だ。
『この戦い、すでにお前は参加となっている』
その文字は驚く遼河を嘲笑うかのように声と同時にどんどん浮かび上がってくる。
『そして、お前はこの戦いで優勝しなければ、死んでしまうのだ。今、お前は契約によって一時的に体を与えられているに過ぎない』
「契約? 何だよそれ?」
遼河のものさしでこれ以上この出来事を考えることは不可能だった。
「私、まだご主人様と契約なんて、してません」
クレアが壁の声に応戦する。
『あの時、お前は死んだ。しかし、クレアの強い願いを受け私が特例契約として体を一時的に再生させたのだ』
「俺が死んだ……特例……?」
『そして、この戦いで優勝すると、クレアの願いが叶い契約通り、お前は晴れて本当の意味で生き返ることができるということだ』
「でも契約は、願いは、ご主人様の願いのはずです」
『だから特例なのだ』
強めの口調で断定され、クレアの口も止まってしまった。
『伝えるべきことは伝えた。それでは紅嶺遼河。頑張ってくれ』
「……あっ、おい! ちょっと」
慌てて壁の声を呼び止めたが、それ以降文字が浮かび上がることはなかった。声がする壁は、元通りただの壁になってしまった。
「あの……ご主人様。私、私」
「お前、これ、どういうことなんだよ?」
遼河は壁を見つめたまま、背後にいるクレアにきつめに問いただす。
「それは私にも、全部は分からなくて」
「じゃあ分かる範囲で説明しろよ!」
「えっと、はい。申しわけありません」
クレアの悲しそうな声が鼓膜をたたく。
「あっ……悪かった。怒鳴って」
怒りで我を忘れていたことにようやく気がつく。クレアの方を向き直し、後頭部をガシガシと掻きながら謝った。
「いえ、私こそ、何も知らなくて……。でも私の分かることは全て、お話しします」
「分かった」
とりあえずクレアの話を最後まで聞くことにする。もうそれしかこの状況を理解する方法はないのだと悟った。
クレアは一度深呼吸をしてから言葉を紡ぐ。
「えっと、何から話していいのか分からないのですが、とりあえず、私は先ほど申し上げた通り人間ではありません。そして先程の声は、おそらく神様だと思います」
「神様?」
「はい、神様です。正確には、私たちがいた世界の神様です。この戦いはその神様の意向で行われていると聞いています。ですが目的は分かりません。それを思い出そうとしても思い出せないのです」
「……なるほど」
分かったていで相槌を打っているが、あまり理解はできていない。話の内容がぶっ飛び過ぎている。
「これからは契約について説明します。この戦い、私たちはまずご主人様を見つけることから始めます。私たちメイドが触れた時に、胸のあたりがドキッとした方がご主人様です」
「そういえばさっき言ってたな」
クレアは首肯し、ほんのりと頬を赤く染める。
「ですが、それだけではこの戦いには参加できません。この戦いに参加するには、ご主人様と私たちメイドが契約を結ぶのです」
「それが、ご主人様の願いってわけか」
「はい。その願いを私たちメイドが受け入れて、初めて契約成立です。ですが私とご主人様の場合は……」
「お前の願いだけで契約が成立したってことだろ?」
「何故かは分かりませんが」
「それが特例ってことなんだろうな」
この状況を何とか理解しようと脳をフル回転させ続ける。非現実的なことが起こっていると認められているような、まだ信じたくないような。とりあえず、一番気になっていたところを訊いてみることにする。
「……で、その戦いってやつ、どうやったら優勝できるんだ?」
神様が言っていた通りなら、命がかかっているのなら、何としてでも優勝しなければいけない。
「はい。敵を倒して最後の一人になることできれば優勝です」
クレアが答えた優勝条件は、遼河が考えていた優勝条件とほぼほぼ同じだった。
「じゃあどうすれば敵を倒したことになるんだ?」
「それは敵のメイドを殺すか、メイドとご主人様が契約の時に叶えたいと思った夢を諦めさせることができれば、メイドは消えるので勝利となります」
思った通りの返答ではあったから、寒気に悪寒が走った。息をのんだ。
「殺すって、あの殺すだよな?」
その言葉の意味を噛みしめるように、ゆっくりとクレアに聞き返す。
「……はい」
クレアの返事も、どことなく重苦しく感じられる。
「あっ、でも安心してください。ご主人様が敵のメイドから攻撃されるようなことはありません。攻撃はすり抜けますので」
胸の前でぱんと両手を合わせ、キラキラと輝く笑みを浮かべるクレア。
ただ、遼河にとって重要なのはそこではないのだ。もちろんその情報のおかげで、ほっとできた部分はあるのだが。
「そっか……。でも、じゃあえっと、敵のメイドもお前と同じような、感じなのか?」
「はい」
クレアの返答を聞いて、ついに言葉を失ってしまう。
「あっ、でももう一つありました。優勝条件」
「何だよ? それは」
「一カ月以上、メイド同士の戦いが行われなかったとき、その時点でこの戦いは終了となります。その際は、一番多くのメイドを倒していた人が優勝で、その他のメイドは消滅します」
「でも願いが叶うんなら、一カ月以上誰も戦わないなんてありえないだろ」
「それは、確か現状に満足してご主人様同士が結託し、戦いが一切行われなくなる可能性があるため、だと聞いております」
「そっか。いや、でもさすがにそれは……いや、人数が少なくなれば……」
そういうことか。美少女がメイドとして隣にいる生活って考えただけでも、夢が叶ったみたいだよな。それをずっと……って考えてもおかしくないよな。
「あっ、それと個人が一カ月以上メイドを倒さなくても、負けとなります」
「なるほど」
何が何でも戦わせたいってわけね。神様ってやつは悪趣味なんだな。
「私が知っているのはこれで全てです。すみません、これだけしか……知らなくて」
クレアは申しわけなさそうに目を伏せる。
「……ん?」
遼河の脳内に、ふととある疑問が浮かび上がる。
「メイド側に特典は何もないのか? 優勝してもご主人様の願いが叶うだけなんだろ?」
「それはですね。私たちメイドは優勝すると、人間になることができるんです」
そう言ったクレアの顔色は、戦いのシステムを説明してくれていた時と比べてとても明るい。
「そういうことか。上手くできてる。要するに戦えってことか」
覚悟を込めて、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
そもそも、遼河には最初から選択の余地などない。生きるために戦うしかない。優勝するしかない。
「ご主人様。本当に申しわけありません。私の身勝手でご主人様の了解も得ず、戦いに参加させてしまって」
クレアは深々と頭を下げる。その真っ赤な髪の毛が肩からはらりと下へ垂れ下がっていく。
「別にお前が謝る必要ないよ」
「……えっ?」
顔を上げたクレアは、口をぽかんと開けて遼河を見つめている。ふたりの視線が交錯する。
「あっ、いや……その」
あまりの恥ずかしさのせいでクレアの目を見ていられなくなった遼河は、目線を下に向けてしまった。
「何ていうか、どうせお前は俺のメイドになるつもりだったんだろ?」
「それは、ご主人様を一目見た時から、はい」
頬を紅潮させ、いじらしく肯定するクレア。
「じゃあ、どうせ戦いには参加したんだろうし、別にいいよ。それに叶えたい願いなんてものは、俺にはなかったし」
「ご主人様……」
ぼそりと呟いたクレアの瞳がダイヤモンドのように輝き始める。
思わず見とれてしまった遼河は、小さく首を左右に振ってから、
「それとさ、もしお前が願ってくれなかったら、俺は今ここにはいないんだと思う。だから……その……ありがとう」
そう言った後で、恥ずかしさに耐えかねてクレアに背を向けてしまった――のだが、
「そんな言葉を言ってもらえるなんて……私、ご主人様のこと、大好きです」
クレアに後ろから抱き付かれてしまう羽目になった。
「ちょ、お前! だから抱き付くなって」
背中に全神経が集合していく。控えめでもクレアの胸の感触は確かにある。
「だって嬉しいんです。大好きなご主人様にありがとうって言ってもらえて」
抱きしめる力は強くなるばかり。
クレアのストレートな言葉と敏感になっている背中のせいで、血液が沸騰してしまいそうだ。
「そんなことで、お前は嬉しくなるのか」
何とか言葉を絞り出して、気を紛らわそうとする遼河。
「最高に嬉しいです。ご主人様」
「それ、ご主人様って言うの、辞めてくれ。恥ずかしい」
「じゃあ何とお呼びしたらいいのですか?」
「何と……って、まあ、えっと……」
「じゃあ、遼河さんとお呼びいたします」
「ああ、それならまだ……」
少し照れくさいが、ご主人様よりはと思って承諾した。
「で、いい加減離れろ。ちょっと熱くなってきてるぞ」
前の教訓を踏まえて早めに警告を出す。
「あっ、すみません」
クレアは名残惜しそうにしながらも、ちゃっかりと遼河の横にちょこんと座り、隣をキープする。
「あの、遼河さん。私からも一つ、お願いしてもよろしいですか?」
「何だよ」
「私のことも、お前ではなくクレア、と呼んでくれませんか?」
「……えっ? それは、いや……まあ、分かったけど」
いきなり呼び捨てはさすがに難易度が高すぎる。しかしクレアの期待と恥ずかしさが入り混じった真っ直ぐな眼差しを一度でも見てしまったら、もう肯定しかできない。断れない。
「では、一度呼んでいただけますか?」
「まあ、それはおいおい呼ぼうかと、いや――」
やんわり否定して何とかこの場を凌ごう。と思っていたが、クレアは早く自分の名前を呼ばれたいと言わんばかりに、目を輝かせながらまじまじと見つめてくる。
「はぁ……。分かったよ、クレア」
恥ずかしさに耐えながら、そっけなく言った。
「ありがとうございます。遼河さん。私、今最高に幸せです!」
「おい! だから離れろって」
遼河は結局テンションの上がっているクレアに抱き付かれ、殺されそうになるのだった。