愛の奇跡
規模は小さいですが、この作品は某小説大賞で大賞を受賞させて頂いたものです。非日常的に起こった愛の奇跡を是非一度ご覧下さい。
――私にはずっと、大好きな人がいます。人……ううん。人ではないけれど、何よりも大切な、私の――。
――キーンコーン……。
授業終了を告げる鐘の音。
ホームルームが始まって、私はそわそわと落ち着かない。
――早く、早く終われ!
先生の話しは毎回長い。いつもこの時間は苛々して、つい、無表情に口を動かす先生を睨んでしまう。
「では、また明日」
「起立!」
生徒代表の礼の言葉を聞く前に、私は
「さよなら!」
と言うと鞄を手に取り教室から駆け出した。
長い廊下に焦れて、階段では足を踏み外しそうになる。慌てて靴を履き替え、門に見える大好きな姿に急いで駆け寄った。
「ハヤテさん!」
名を呼んで、ぎゅっと抱きしめると、長い毛が頬をくすぐる。
顔を上げて、ハヤテさんの綺麗なアイスブルーの瞳を見つめ、口に、ちゅっとキス。それが、私の毎日の学校帰りの日課。
ハヤテさんは嬉しそうに瞳を細め、ハッ、ハッと息を吐きながら尻尾をぶんぶん。
――そう、私の大好きなハヤテさんは……。
「あい! あんた少しは落ち着きなさいよ! ……って、また今日もハスキーくんがお迎え?」
友達のさくらが、呆れた様に私の名を読んで、いい子にお座りをしているシベリアンハスキーを指差す。
――そう、ハヤテさんは、うちの犬。
「うん、今日もハヤテさんと帰るから」
「たまにはうちらと遊ぼうってー」
「ごめん! いつでもハヤテさんと遊びたいの」
「何それ」
やっぱり私は呆れられて、ハヤテさんの隣に並んで学校を後にした。
いつも、ハヤテさんと歩く帰り道。人通りが少ないこの道は、痴漢や変質者多発スポットで。それを心配したハヤテさんは、毎日欠かさず迎えに来てくれる。
けど、ある日を境から、私は寂しくて仕方ないの。
「ねぇ、ハヤテさん。今日は一緒にお喋りしてくれる?」
問い掛けた言葉に返ってくるのは、ハヤテさんの息遣いだけ。
一年前から、私が十五歳になった日から、ハヤテさんは、お喋りしてくれなくなった。
”あい、この道は危ないから、これから毎日俺が迎えに行くからな”
この道で言ってくれたハヤテさんの言葉が、私の頭の中で響く。でも、声を忘れてしまいそうだよ……。
ハヤテさんは、私が産まれる前から、今と変わらない姿でいて。みんなはすっごい長生きね、なんて言うけど、私は何かハヤテさんは特別なんだと感じていた。
私が小さい頃は、遊んでくれたり、優しい声で慰めてくれて。ハヤテさんは確かに私達と同じ言葉を、私だけに話してくれていた。なのに。
「どうして、お喋りしてくれないの……?」
――夜。
夕飯を終えて、私は自分の部屋に戻った。ハヤテさんを連れて。
明かりも点けず、ベッドに腰掛けると、ぎしっと軋む音が鳴る。ハヤテさんは私の足元に丸くなって、顔を私に向ける形でうずくまった。
私とハヤテさんは、暫く見つめ合う。何も変わらないハヤテさんなのに、その閉じた口から発せられる声は、聞こえない。
「やっぱり……何も言ってくれないんだね」
じわり、自分の瞳が濡れていく感じがした。ハヤテさんが驚いた様に瞳を丸くした時、私は初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「ハヤテさん……寂しいよ、悲しいよ……。私のこと、嫌いになっちゃったの? だから、話してくれないの……?」
ベッドから崩れ落ちる様に、私はハヤテさんに抱き着いた。震える腕できつく抱きしめて、濡れる頬を柔らかなたてがみに擦り付ける。
「ハヤテ……さん……っ」
鳴咽を繰り返し、零れる涙は止まらない。
「私、ハヤテさんが、大好き……! ずっと一緒にいたいのっ。だから……嫌いに、ならないで……」
途切れ途切れでも、伝えたい言葉を精一杯振り絞った。
絡み付けた腕にいっそう力をこめて、ハヤテさんに縋り付く。その時、微かにハヤテさんがぴくりと動いて。瞬間、私は強い力で引き込まれ、抱きしめられた。力強い、腕に。
「え……」
私がぐっと押し付けられているのは、逞しい胸板。背中に回された腕は、確かに人間のもの。
恐る恐る顔を上げて、潤む瞳で見たものは。
グレーの長めの髪をした、端正な顔立ちの男性。その顔に映える、美しいアイスブルーの瞳。
「――ハヤテ、さん?」
私が見間違えるわけがない。その瞳は、間違いなく。
ハヤテさんの……。
「……嫌ってなんか、いない」
懐かしい、ハヤテさんの声。
――ああ、間違いないんだ。この人は、ハヤテさんなんだ。
「俺も、あいが大好きだ。だけど……」
「……だけど、何?」
私は抱きしめられたまま、ハヤテさんを見上げている。ハヤテさんは辛そうで。顔を私から背けて、横の壁を睨みつけているみたい。
「ずっとは、一緒にいられない。だから……」
――一緒に、いられない……?
「どうして!? そんなの嫌! 私はずっと、ハヤテさんの側にいる!」
ぼろぼろと涙が零れ落ちて、隙間なく頬と触れていた、ハヤテさんの胸が濡れる。だから、私がどれだけ泣いているのかハヤテさんには凄く伝わるだろう。
「いられないんだ……。ずっとは……」
悲痛な、震えるハヤテさんの声。
ハヤテさんも悲しんでいるの?なら何故、一緒にいられないの――?
「俺は……あいが産まれた時、あいから感じた暖かく優しい空気が、直ぐに大好きになって、いつも、側にいた」
ハヤテさんは、ゆっくり語り出す。今、更に強く抱きしめられた私は身動きがとれず、ハヤテさんの顔を見上げることが出来ないから、表情は分からない。
「ずっと、あいの心地良い空気に触れていたくて、俺は、あることを強く思う様になった」
「あること……?」
「俺は、人間じゃない。人間のあいに比べて短命な、ただの犬だ。だから、長く生きたい……あいと同じ時間の流れで歳をとり、生きて行きたいと」
優しくも悲しいハヤテさんの声が、私の心に染み渡る。初めて聞いた、ハヤテさんの気持ち。
こんなことを思っていてくれたなんて。
――嬉しかった。
「俺の、そんな小さな願い……俺にとっては最大の願いを、神は叶えようとしてくれたのか。俺は、人間で言う六歳くらいから、あいと同じ時間で歳をとるようになったんだ。その時から、人間の姿にも……」
――神様が、ハヤテさんの願いを叶えてくれた……?
人間のハヤテさんは、確かに二十歳前後に見える。
「じゃあ、ずっと一緒にいられるじゃない……っ?」
私がそう言っても、ハヤテさんは首を横に振るだけ。
――どうして?
「最初は嬉しかった。あいと、ずっと一緒にいられるんだ、と。けど、普通の犬が人間と同等に生きたら、ただの化け物だ」
「そんなの私は気にしない! ハヤテさんは化け物なんかじゃ……!!」
化け物なんかじゃない。言い終わる前に、私の唇は塞がれた。いつもキスしてる時の感触と違う、ハヤテさんの唇。暖かくて、柔らかい、人間の唇に。
「……あ」
そしてゆっくりと唇が離れた時、見えたハヤテさんの顔は、悲しそうに笑っていた。
「あい、俺は君を愛してしまった。主人としてではなく、優しい、あいに惹かれて……。あいは、いつか恋人を作り、結婚して、家庭を持つだろう。俺は、それを見ながら生きて行くことなんて……。耐える自信が、ないよ」
「ハヤテさ……」
「俺は最低だ。あいの幸せを1番に望んでいるはずだったのに。弱い、駄目なペットだから……あいの幸せのために、俺は……いない方がいいんだ」
ハヤテさんは、私の大好きな瞳から涙を流した。アイスブルーが溶けた様な、美しい涙。
――ハヤテさん、違うよ。ハヤテさんは、間違ってるよ……。
「私は、ハヤテさんがずっと一緒にいてくれなきゃ、幸せになんてなれないよ……」
反応を待たずに、私はハヤテさんの首に腕を巻き付け、勢いよく抱き着いた。
たてがみは、絹糸の様な繊細な髪に変わっていて。いつもよりも、くすぐったかった。
「あい……?」
ハヤテさんの声は、混乱していることがよく分かる程に動揺を含んでいた。
「私の幸せは、ハヤテさんと、ずうっと一緒にいることよ。恋人なんて、いらない。ハヤテさんさえいればいい」
遠慮がちに、私の背に腕が回される。触れているだけの様な、抱きしめ方。
「好き……大好き。この気持ちは、ハヤテさんと同じものよ……」
びくっ、とハヤテさんの身体が揺れる。それを合図に、私はハヤテさんと視線を合わせた。ハヤテさんはただ唖然として、私を見ていた。
「私は、ハヤテさんを愛してる。ずっと、昔から……」
「あい……!」
私は再び、ハヤテさんの腕の中に引き戻された。強く、激しい愛に包まれて。額や瞳、唇に、キスの雨が降る。
私は、今までにない、大きな幸せを感じた――。
「ハヤテさん、高校を卒業したら、一緒に暮らそう? そして、ずっとずっと一緒にいるの……」
「あい……俺は、君とずっと一緒にいて、いいんだな……」
「――うん!」
ずっと、一緒――。
――キーンコーン……。
学校の、チャイムの音。いつもの様に、私は駆け出す。
門の前にちょこんと座って、私を待つ、愛しい人の元へ。
「ハヤテさん!」
がばっと抱き着いて、キスを一つ。
変わらない、幸せな毎日。いつも通る帰路も、何も変ってないけれど、並んで歩く私達は、前とは違う。
「ハヤテさん、大好き」
「俺も、大好きだよ」
笑い合って、愛を交わして。
私達は輝く幸せな未来に向かい、確かな足どりで、いつも一緒に、歩いて行く――。
END
読んで頂きありがとうございました。伝えたかったのは、何よりも強い深い愛情。それを少しでも感じて下さっていたら嬉しいです。