第40話 私たちが、まず、強くあらねば
「帰る、か」
地面が、鳴った。地龍ベコックは、面倒くさそうに全員をゆっくりと見た。
「そうだな。帰れ。我も寝る」
黄色い目が、細くなった。
「違うんです、ベコックさん。あなたも、帰るんです……王都オーディンに」
「ん?」
「いえ。ベコックさんは、魔人ワールディン復活の儀式を防ぐために、ここで待っておられたと聞きました」
「うむ。待ってたら寝てしまった」
「その寝ている上で……儀式を止めに入ったダレットさんが……エルマーさんが……セリナ様も……」
ジョシュアは地龍ベコックの前で泣き崩れた。
疲労の極みにある他のメンバーも、アイリスも、首を垂れている。
ジョシュアは、そっと聖印スピカをシンシアに渡した。
本来の持ち主のところに戻ったスピカは輝きを増し、月光を受けて青白く光るシンシアの、左肩を穿った深い傷をみるみる癒していく。
*
オリバーが、動いた。
剣を杖にしたまま、ゆっくりと、環と霧のあいだへ歩いていった。
ジョシュアは、追わなかった。
追えなかった。
オリバーの背中が、途中で止まった。
止まって、膝が落ちた。大きく息を吐く。
それから、しばらく動かなかった。
「……ジョシュア」
ヴィレリアの声だった。
荷車の上から下りようとして、足がもつれている。
「行くわ」
「ヴィレリアさん。まだ」
「行く」
彼女は、白ラマの背から手を離した。
二歩で、崩れた。
背中を支える。
「支えます」
「……ごめん」
「いえ」
「ジョシュア、いつも助かるわ」
その言い方を、彼は知っていた。
アジトの朝、彼女が胃液ばかりを吐いていたときと、同じ言い方だった。
二人で、ゆっくり三十歩ほど歩いた。
ヴィレリアは、そこで止まった。
止まって、口を押さえた。
それから、両膝をついた。
ダレットは、仰向けだった。
右腕が、二歩離れたところにある。革の籠手をつけたままだ。
首は、そのさらに向こうにあった。
ヴィレリアは、這った。
這っていって、両手で抱き上げた。
髭が、泥で汚れていた。
彼女は、それを袖で丁寧に拭いた。
何度も拭いた。汚れは、取れない。
開いたままの瞼を、指で閉じた。
「……ばか」
声が、出ていなかった。
「なにが、守るもの、よ」
チェ・サダが、斬り落とされた腕の前で、すがって泣いた。
ジョシュアは、立っていた。
立って見守ることしか、できなくなっていた。
ダレットの遺体をマントに乗せ、オリバーとジョシュア、チェ・サダが担ぎ上げて荷車へ乗せた。
ヴィレリアは、いまにも消え去りそうな表情で、流れ出る涙も拭かず、見送っていた。
*
ジョシュアは、環の手前まで戻った。
灰色の外套が、うつ伏せに倒れている。
エルマー・ハインツ。ローエングラム侯爵家の使者。
しゃがんで、泥を探した。
指先が、硬いものに当たった。
銀の留め具だった。
拭いて、掌に置く。
もう一つ、すぐ近くにあった。
三つ目は、少し離れた場所で見つかった。
三つ。
ジョシュアには、若き日のエルマーが脳裏に浮かぶ。
どこに行っても、女性には事欠かなかった色男。
最後は家族ができて、引退し、ローエングラム侯爵家に仕えたその人生は彼の本意だったのかどうか。
軽く見えるのに、一番頼りになる男だった。
「とっても……残念です」
刻まれたエルマーの遺体を抱き上げ、緑のローブを赤黒く染めながら、ジョシュアは荷車に、ダレットの隣に乗せた。
その姿を、リアが見守っていた。
*
シンシアはリアに支えられて立ち上がると、そっとカレンの手を取り、白マナを発して腕を治療した。
「ありがとう……にゃん」
「良かった。カレン……さん」
「カレンでいいにゃ」
シンシアはそっと微笑んだ。カレンもニカッと笑った。
しかし、真剣な表情に戻ったシンシアは、暗黒の淵を振り返る。
オリバーもアイリスも、心配そうに見つめる。
「消えてしまった……この下に」
崩れた石板の間に空いている暗黒の淵を、シンシアは覗き込んだ。
そして、叫んだ。
「セリナ!」
もう一度、呼んだ。
「セリナ!!」
穴の中を、シンシアの声だけが響いた。
答えるものは、なかった。
二人が言葉を交わすのを、ジョシュアは一度も見たことがなかった。
「あたし、遠くから……セリナ様の声を聞いたにゃん……。さようならって」
カレンは伏して泣きだした。
「あたし、せっかく……せっかくお名前、取り戻したのに……」
「きっと、ウチの団長は、君だけでも帰って来られてよかったって笑ってるよ」
オリバーがつぶやくと、アイリスはそっとカレンの痩せてしまった肩に手を乗せ、自らが羽織っている青いマントを身体に掛けた。
「ごめんね、みんな」
アイリスは静かに声を絞り出すように言った。
「一番賢そうにしていた私が……一番、馬鹿だったわ」
シンシアは、ベコックの丘だった頂近くに転がされていた、いくつもの遺体を見た。
「皆さん、非業の死を遂げてしまったんだわ」
冒険者。商人。旅行者家族。まだ子どもの遺体もある。
シンシアは聖印スピカを掲げ、一体一体、丁寧に浄化し、弔っていく。
赤髭団一行は、胸に手を当て、死者たちの置き去りになった魂が空へ小さな光となって帰っていくのを見送る。いまだ、満月が銀に輝き、静かにそこへ向かっていった。
「神々の御許に帰られるその穏やかなる魂に、永遠の安寧があらんことを」
シンシアの祈りは、清く澄み切っていた。
*
鱗が、遠ざかっていく。
――いや、遠ざかったのではない。
小さくなっていた。煙のように龍の姿を覆い隠す。
荷車の半分ほどあった一枚が、掌ほどになり、爪ほどになり、見えなくなった。
黒い塊が、人の背丈まで縮んで、そこで止まった。
立っていた。
男だった。
背が高い。痩せている。三十代くらいに見える、物憂げな表情の青年だ。
黒い外套。裾が長い。泥の上に垂れているのに、汚れていない。
頭に、洒落た帽子をのせている。つばが広く、黄色い羽根のついたやつだった。
そして、目だけが、赤く光っていた。竜のときは、黄色かったのに。
鼻の先に、ちょこんと小さな傷があった。
その傷を、指の腹で押さえている。
「痛い」
誰も、動けなかった。
「これ、跡が残るやつだろう。数百年は消えん。ムカつく」
チェ・サダが、最初に声を出した。
「あの……ベコック、様?」
「様は要らん。面倒だ。そんなに偉くもないし」
男は帽子を取って、埃を払い、またかぶった。やれやれ、といった表情だ。
「我はベコック。ここで寝ていた者だ」
オリバーが、呆然と口を開けている。
アイリスが、帽子の下で目を丸くしている。
リアは、シンシアの前から動かない。
ジョシュアは、その顔を見ていた。
見たことのある顔だった。
昔。王都オーディンの、鍛冶屋通りの奥。革帯の金具をいくつも直してもらった。器用な職人だ。焦げた鍋の取っ手を締め直してもらったこともある。無愛想で、いつも面倒くさそうで、代金をよく取り忘れる男だった。
「あ。僕の知っている、ベコックさんだ……」
丘の名前と同じだとは、思ったこともなかった。
丘の名前が、人の名前だとも思わなかった。
「ああ、そうだ。ジョシュアくん、改めて。久しいな」
*
ベコックは、割れた石の環のほうを見た。
「そういえば、ひとり落ちたな」
ジョシュアの息が、止まった。
「白いのだ。金の髪の」
「……セリナ様です」
「そうか」
ベコックは、あまり関心のなさそうな顔で頷いた。
「魂が落ちていった。もう抜け殻だったがな。呪いが、身体のほうを先に食っていた」
「――呪い。ビボルダーの」
「あれは」
赤い目が、ジョシュアを見た。
「彼女にとって、君は大事な人だったのか。ジョシュアくん」
ジョシュアは、無言でうつむいた。
右手に、まだ彼女の法衣がある。何度もほつれを直した。裾を三度、詰めた。
二年、同じパーティーで歩いた。
二十日ぶんの荷を、彼女のために用意もした。
重いわ、と言われて持ってあげた。
セリナ愛用のブーツの革紐を、切れる前に替えた。
あの人は、いつも「ありがとう」と言ってくれた。名前も、目を見て呼んでくれた。
殴られているとき、前に立ってくれた。落ち度はない、と言ってくれた。
でも、レオンがジョシュアを追放すると宣言したとき、セリナは「はい」と答えた。
彼女の中では、自分はどう映っていたのだろうか。
「……分かりません」
ジョシュアは、そう言った。
「大事だったのかどうか、僕には」
「そうか」
ベコックは、それ以上訊かなかった。
「まあ、落ちた先は我の腹ではない。それだけは言っておく」
*
「あの」
アイリスが、杖を握り直した。
「地龍ベコック。様は要らないのよね? あなたは、なぜここに」
「寝ていた」
「それは、聞きました」
「では、話は終わりだ」
「終わりません。そうじゃなくて」
アイリスは、一歩出た。
「王国は、あなたを封印したと記録しています」
「ふん」
ベコックは、鼻の傷をまた押さえた。
「封印。はあ。封印、ね。そう書いてあるのか」
「はい」
「誰が書いた?」
アイリスが、黙った。
「知らんだろう。我も知らん」
ベコックは、割れた環を顎で示した。
「あれは封印でも牢でもない。我の首元にあった、ただの目印だ。四千年前、あそこに門があった」
「門」
「魔王城の跡地だ。あの魔人ワールディンが、この世界を恐怖と混乱、そして破壊に引きずり落とした拠点だな。門を潰したあと、誰かが番をせねばならんということになった」
彼は、面倒くさそうに息を吐いた。
「我が引き受けた。かわいいかわいい人間どもが困っていたのでな」
「それで」
「寝た」
「……寝た?」
「見張っていたら、眠くなった。猛烈に」
誰も、何も言えなかった。
「四千年ぐらいだぞ。ずっと起きていられるか。二百年ほど経ったあたりで、特になんもないし、まあ少しだけ寝てもいいか、と思ったのだ。寝たり起きたりしていた」
ベコックは、心底うんざりした顔をした。
「今回寝ていたのは……何年ですか」
「知らん。いちいち年数なんて数えてない、寝てたんだし。それがなにか」
「いえ、なんでもありません」
「なんとなく起きたら、丘と呼ばれていた。我の背中の上に、街道が通っていた。荷車が走っていた。ただでさえ、魔王城の跡地なのだ。暗いオーラも黒いマナも多い」
ベコックは、石の周辺に放置されていた何体もの冒険者や商人たちの遺体を見た。
「どさくさに紛れて、オーラに隠れ襲撃もあったっぽいな。なのに、誰も我を呼ばん」
「あなたの呼び方は、すでに失われていました」
ジョシュアが、そう言った。
「大聖堂も、王国も、領民の皆さんも…… ただベコックの丘は危険だと言われ、何かあったときベコックさんをお呼びする方法を忘れてしまってました」
「そうか」
ベコックは、少しだけ、こちらを見た。
「ならば仕方ない。まあいいや」
それだけだった。
怒りも、恨みも、なかった。
「言っておくが、我は王国も人間も別に嫌いではない。腹も立っておらん」
彼は、崩れた斜面を見下ろした。
「ただ、もう少し寝かせていて欲しかった。それだけだ」
「でも……ベコックさんの背中で赤髭団がレオンさんたちと戦わなければ、いまごろベコックさんはここで寝たまま、ここに魔人ワールディンが召喚されていたはずです」
「あ。そうか。ヤバいな」
*
東の空が、少しだけ白くなっていた。
「ねえ。私たちも、一緒に王都に帰っていい?」
アイリスだった。
とんがり帽子を、かぶり直している。
「冒険者ギルドが何と言おうと、この状況で、レオンについていくことはできないわ」
リアは、シンシアの肩を抱き直した。
「わたしも、帰るところがありません」
全員が、静かになった。
赤髭団の団長ダレットもローエングラム侯の使者エルマーもレオンに殺され、皇女プリムラを港湾都市ポートアイビスまで護衛するという任務は宙ぶらりんとなったまま、一行は途方に暮れている。
「あの……」
「ジョシュア」オリバーは顔を向けた。「どうした」
「王都に帰って、冒険者ギルドに説明するにしても……誰が、どう話すのでしょう」
「それは……その」
状況は複雑すぎた。皇女プリムラを護衛するクエストを受任した赤髭団は、言われた通りベコックの丘を通ってポートアイビスに向かった。
しかし、その後、皇女プリムラを誘拐したかどで赤髭団を拘束せよという王命を受けた騎士団の副団長・リンツがやってきた。
さらに、皇女プリムラの誘拐を図った赤髭団、その首謀者であるエルマーと僧侶シンシアを誅殺せよと命じられたレオン一行による襲撃を受けた。
しかも、その皇女プリムラは、実は赤髭団に大聖堂所属の僧侶として加わっていたシンシアが本人であった。
エルマーが連れていたローエングラム侯の兵たちは、馬車に載せられていたカレンを皇女プリムラと思い込み、魔人ワールディン召喚の儀式のため石の環に神族の血を吸わせたのだ。
エルマーが、魔人ワールディン召喚を狙ってカレンを連れ出したとは考えづらい。しかし、ローエングラム侯は魔人ワールディン召喚を進めようとしていたことは確実だ。
「もはや……どこにも味方は、いないのです」
シンシアだった。もう、リアに支えられてはいなかった。その瞳には、シンシアらしい力強さが戻っている。
「私たちが、まず、強くあらねば」
彼女は、そこで一度、目を閉じた。
閉じて、開いた。
「第四皇女プリムラ。それが、王家がつけた名前」
「……はい」
「でも、それは腐り切ってしまった王家がつけたものよ。私は、とうに捨てました」
彼女は、血の乾いた法衣の胸元を押さえて、赤髭団のワインレッドのマントを翻した。リアは切ない表情でシンシアを見つめる。
「私はシンシア。大聖堂の僧侶。神に仕えて、赤髭団のみんなと、そして王都の人たちと、静かに暮らしたいだけ」
「殿下」
「リア」
「……はい」
「その呼び方も、やめて」
リアは、口を閉じた。
閉じて、それでも、頭を下げた。
「きちんとお守りできず、申し訳ございませんでした」
シンシアは、答えなかった。
答えられなかったのだと、ジョシュアには分かった。
「任務は失敗です」
チェ・サダは口を開いた。震えるような声を絞り出した。
「そもそもの依頼が、成立していなかったんだ。それは、報告しに王都に戻らなければならない。でも、それ以上に――」
ジョシュアは黙った。チェ・サダは気が気ではないのだ。
「私たち、王国に捕まって、殺されるかもしれないのよ。それでも、王都に戻るの?」
ヴィレリアは懸念を口にした。もっともだ。全員が、うなずいた。しかし、チェ・サダの言葉は強くなった。
「僕は、戻ります。ひとりでも……ひとりでも!」
チェ・サダの目には、涙が溢れた。
「団長を弔いたい。ダレットさんに恩を返したい。それに、僕は、ガーネットも……リディアもソラも、王都に置いてきてしまった」
チェ・サダは泣き崩れた。
「だから! 冒険者は家族を持つなんて……そんな夢を持っちゃいけなかったんだ!」
ジョシュアは静かに言った。
「王都に戻って、ガーネットさんたちの無事を、まず確認しましょう」
「そうね。ガーネットも、リディアも、ソラも……赤髭団の、団員だものね」
*
「おい」
ベコックが、帽子のつばを直していた。
「はい」
「王都へ行くのだろう」
彼は、東のほうを見た。
「我も行く」
「え」
「鼻に傷をつけられた」
ベコックは、心底面倒くさそうに言った。
「それに、この背中の上でおかしなことをやられた。二度目は困る。分かるだろう? 満月の夜は毎月くるんだぞ」
「そうですね」
「悪意のあるやつらは、絶対にその爆弾のような漆黒の宝珠と、王統の証明とかいう聖印スピカとやらを狙ってくる」
「はい」
「狙ってきたところを、叩く!」
ベコックは、手のひらに拳をパチーンと叩きつけた。
「人間たちの思考は簡単だ。お宝をもって寝ていれば、絶対向こうからやってくる」
「眠り過ぎるのもどうかと思いますが……」
「どういう意味だ?」
「なんでもございません」
彼は、割れた石の環を、ちらりと見た。
「ついでに、鍋を見せろ。しばらくぶりに自分の仕事を見て、いろいろ思い出したい」
荷車が、動きだした。
白ラマが二頭。置き去りにされていた馬が数頭。
荷台には、ダレットとエルマーが乗っている。ヴィレリアと、カレンも。
御者台に黒い外套の男が、面倒くさそうに乗り、その横にジョシュアが座っていた。
アイリスは馬に乗り、帽子を押さえて続いた。
さらに、残された馬車を御者のリアが操縦し、シンシアとチェ・サダを運んでいく。
空が、白んでいく。冬の冷たい風が赤髭団の面々を容赦なく吹きつける。
振り返ると、丘は、ただの丘に見えた。
しかし、一度は晴れたはずの黒いオーラが、ふたたび丘を覆い始めていた。
魔王城は、なお主たる魔人ワールディンを呼び続けていた。




