婚約破棄された瞬間、王国中の鐘が鳴った。 「王太子殿下の虚偽宣誓を確認しました。王位継承権を剥奪します」
「リシェル・ベルンハルト。お前との婚約を、今この場で破棄する」
王太子アルヴァン殿下がそう告げた直後だった。
王宮の銀鐘が鳴った。
高く、硬く、嫌な音だった。
ひとつだけではない。
続いて、王都の十二鐘楼が鳴る。
東の聖堂鐘。西の裁判鐘。南の市場鐘。北の城門鐘。
さらに遠く、港の税関鐘、鉱山町の坑口鐘、国境砦の誓約鐘までが、遅れて響き始めた。
春誓祭の舞踏会は、一瞬で凍りついた。
楽師は弓を止め、令嬢たちは扇を持ったまま固まり、年老いた貴族たちは天井の銀鐘を見上げている。
けれど、誰よりも驚いていたのは、婚約破棄を告げたアルヴァン殿下だった。
「何だ、この鐘は」
その腕にすがるコレット・ヴァニエ男爵令嬢が、小さく震える。
「殿下……怖いです。リシェル様が、何かをなさったのでしょうか……」
会場中の視線が、私に向いた。
リシェル・ベルンハルト。
ベルンハルト公爵家の長女。
王太子殿下の婚約者。
そして、王国で最後の鐘守り。
私は白い手袋の指先を重ねた。
震えていた。
悔しいことに、震えていた。
今夜こうなるかもしれないと、何度も考えていた。王冠契約が本当に起動するかも、王冠監察府の立ち会いで確認していた。
それでも、実際にその言葉を浴びせられると、胸の奥が冷たくなった。
十年だった。
八歳で婚約してから、十年。
私はこの人の隣に立つために学んできた。
王国史。税制。外交儀礼。貴族名鑑。王妃宮の古い規約。救貧基金の帳簿。鐘楼に残された、誰も読まなくなった契約文。
夜会の花飾りより、鐘の錆を落とした回数の方が多かった。
別に、誰かに褒めてほしかったわけではない。
いや。
嘘だ。
本当は、少しは褒めてほしかった。
少しでよかった。
殿下に愛してほしかったのか、と問われれば、きっと違う。
少なくとも、今なら違うと言える。
けれど、一度くらいは見てほしかった。
私が隣で何を積み上げていたのか。
何を守ろうとしていたのか。
どれほどつまらないと言われても、古い鐘楼へ通い続けた理由を。
愛されなかったことより、見られていなかったことが悔しかった。
「私ではございません、殿下」
「では、何だと言う」
「王冠契約です」
その名を口にした瞬間、年配の貴族たちの顔色が変わった。
王冠契約。
王族が成人の儀で誓う、古い王権制限条項。
王族が公の場で嘘をついた時、鐘がそれを審問する。
最後に鳴ったのは百二十六年前だった。
殿下も、知らなかったわけではない。
ただ、百年以上沈黙した契約など形だけだと思っていた。
埃をかぶった鐘楼に通うだけの婚約者が、本当に直せるはずがないと。
だから、私を笑った。
古い鐘を磨いているだけの、つまらない婚約者。
埃まみれの契約書しか取り柄のない女。
そう言った。
何度も。
「王冠契約か。成人の儀で聞かされた古い条項だな」
殿下は唇を歪めた。
「だが、あれは百二十六年も沈黙している。君ごときが、今さら何を鳴らせる」
「現在も有効です」
「はったりだ」
「でしたら、殿下のお言葉でお確かめください」
鐘の音が、ひときわ高く響いた。
大広間の空中に、淡い金色の文字が浮かぶ。
『王位継承第一位、アルヴァン・レグルス殿下による公衆前宣誓を検出』
『発言内容。リシェル・ベルンハルトとの婚約破棄。理由、複数の罪状告発』
誰かが悲鳴に近い息を漏らした。
殿下は目を細める。
「小細工を」
「殿下」
喉が少し乾いていた。
「王冠に誓って、もう一度おっしゃってください」
本当は怖かった。
今すぐ逃げ出したかった。
ここにいる誰かに、もういいと言ってほしかった。
けれど、ここで私が下がれば、また消される。
母の声も。
私の十年も。
これまで黙らされてきた誰かの声も。
「私が罪を犯したと。コレット様を害したと。王太子妃にふさわしくない悪女だと。王冠に誓って、もう一度」
「リシェル、貴様……私を試すつもりか」
「いいえ」
私は一度だけ息を吸った。
「殿下のお言葉が、王冠に耐えられるかを確かめるだけです」
コレット様が、殿下の袖を握る。
「殿下……リシェル様は脅しているだけです。私は、殿下を信じております」
その言葉で、殿下は大広間の中央で胸を張った。
愚かだと思った。
それでも少しだけ、胸が痛んだ。
この人は、いつもそうだった。
自分が正しいと信じている時だけ、こんなに堂々としている。
「よかろう。王冠に誓って、もう一度言う」
鐘が止んだ。
嫌なほど静かだった。
「リシェル・ベルンハルト。お前は嫉妬に狂い、コレットを白鳥池へ突き落とし、王妃宮救貧基金の帳簿を改竄し、さらに私と彼女の真実の愛を妨げた。よって、私はお前との婚約を破棄する!」
沈黙。
次の瞬間、鐘が鳴った。
『虚偽宣誓を確認』
『告発内容。コレット・ヴァニエを白鳥池へ突き落とした件。虚偽』
「そんなはずはありません!」
コレット様が叫んだ。
「私、確かに白鳥池のほとりで、リシェル様に呼び止められたのです。冷たく睨まれて、それから、私の腕を……」
鐘が、低く鳴る。
『事件当時、リシェル・ベルンハルトは西鐘楼地下にて王冠契約修復作業中』
『立会人、王冠監察府監察官ユリウス・クラウスナー』
大広間の奥から、一人の青年が進み出た。
濃紺の礼服に、銀縁の眼鏡。
王冠監察府の若き監察官、ユリウス・クラウスナー。
灰青色の目が、静かに殿下を見ていた。
「相違ありません。リシェル嬢は当時、西鐘楼地下におりました」
「監察官ごときが、王太子の言葉に口を挟むな!」
「口を挟んでいるのではありません。記録を読んでおります」
低いざわめきが広がった。
コレット様はなおも涙を浮かべる。
「でも、私は本当に怖かったのです。あの方の冷たい視線で、足がすくんで……」
白い頬。震える睫毛。細い肩。
何も知らない者なら、きっと庇いたくなる姿だった。
けれど、鐘は鳴った。
『コレット・ヴァニエは転落前日、侍女エミーヌに対し、次の発言を行った』
幼い女の声が、大広間に流れた。
『白鳥池なら、濡れるだけで跡は残らないわ。少し泣けば、殿下はきっと怒ってくださる』
コレット様の顔が真っ白になった。
『香油瓶、王宮薬室にて保管。診断記録も、自作自演の転落と一致』
王宮薬室長が、青ざめた顔で深く頭を下げる。
「証拠はございます」
「殿下、違うのです……私、ただ、殿下に心配してほしくて……」
殿下はコレット様を見た。
ほんの一瞬、嫌悪が浮かんだ。
コレット様は、それを見てしまった。
「殿下……?」
私は少しだけ、目を伏せた。
可哀想だと思った。
けれど同時に、ざまあみろとも思った。
そんな自分が嫌だった。
でも、綺麗なだけの心で十年を耐えられるほど、私は強くなかった。
鐘は、可哀想かどうかを裁かない。
ただ、嘘かどうかを告げる。
「鐘を止めろ」
殿下が低く言った。
「リシェル、今すぐ鐘を止めろ」
「できません」
「お前は鐘守りだろう!」
「鐘守りは、鐘を鳴らす者ではありません」
私は震える指を握り込んだ。
「鐘が鳴るべき時に、鳴るよう守る者です」
「ならば命じる。王太子として命じる。鐘を止めろ!」
また、鐘が鳴った。
『王冠契約起動中、虚偽宣誓者の王命効力は一時停止』
王太子の命令が、無効。
大広間の空気が変わった。
これは、ただの恋愛沙汰ではない。
そう気づいた顔が、次々に増えていく。
「その条項は、王位継承者の成人の儀で誓われるはずです」
ユリウスが言った。
殿下は歯を食いしばる。
「知っている。知らぬわけがないだろう」
彼は私を睨んだ。
「だが、あんなものは形だけだ。百年以上動かぬ古い契約に、王太子の命令を止める力などあるものか」
「ありました」
「黙れ!」
殿下の怒声が、大広間を打った。
その瞬間、胸の奥で、古い声がよみがえった。
十二年前。
母が罪を着せられた日。
私の母、クラリス・ベルンハルトは、王妃宮救貧基金の不正を見つけた。
冬に薪を買えない寡婦のための金。
飢えた子供にパンを渡すための金。
身寄りを失った老人に薬を届けるための金。
それが、王族に近い貴族たちの宴会費へ流れていた。
母は告発しようとした。
けれど記録は消され、証人は黙らされ、母だけが宮廷を去った。
あの時、鐘は鳴らなかった。
王都の主鐘は封じられ、地方鐘楼との契約線は切られ、記録核は眠っていた。
母の声は、王宮の壁の中で消えた。
最後の日、母は私の手を握った。
手が冷たかった。
嘘そのものより、嘘を聞こえないふりする国が怖いの。
母はそう言った。
だから私は、鐘を直した。
誰かの声が、もう二度と消されないように。
王宮だけで消されても、港で鳴るように。
宮廷が耳を塞いでも、国境砦の兵士が顔を上げるように。
鐘が鳴る。
『告発内容。王妃宮救貧基金の帳簿改竄。虚偽』
『改竄実行者。ヴァニエ男爵家会計代理人』
『指示系統。オルド侯爵家私設書記室』
大広間の端で、ヴァニエ男爵が膝を折った。
「お父様……?」
コレット様が震えた。
鐘は続ける。
『救貧基金の一部は、王太子私設基金、ヴァニエ男爵家債務補填、オルド侯爵家港湾投資へ流用』
ざわめきが、悲鳴に近くなる。
救貧基金。
冬の薪、子供のパン、老人の薬になるはずだった金。
それが、王太子の私設基金と、侯爵家の港湾投資へ流れていた。
これは、令嬢同士の嫉妬ではない。
誰かの明日が奪われていた。
「違う!」
殿下が叫んだ。
「私は知らない! 基金など、私には関係ない!」
鐘が鳴った。
『王太子殿下は三日前、側近オルド侯爵令息に対し、次の発言を行った』
殿下自身の声が響いた。
『救貧基金など、どうせ貧民にばら撒くだけの金だ。リシェルが監査権を継ぐ前に、帳簿を整えろ』
誰も声を出さなかった。
私の爪が、手袋の内側で掌に食い込む。
痛かった。
けれど、その痛みがなければ、私は泣いていたかもしれない。
悔しかった。
母が消されたことも。
救われるはずだった人たちが踏みつけられたことも。
それをこの人が、ばら撒くだけの金、と呼んだことも。
全部が、悔しかった。
「私は……帳簿のことなんて……」
コレット様が呟いた。
鐘は鳴らなかった。
そこに虚偽はなかった。
彼女は本当に知らなかったのだ。
ただ泣き、ただ選ばれたつもりで、ただ自分の可哀想さに酔っていただけだった。
殿下は彼女を睨んだ。
「使えぬ女だ」
コレット様の肩が跳ねた。
鐘が鳴る。
『王太子殿下は五日前、側近オルド侯爵令息に対し、次の発言を行った』
『コレットは便利だ。泣かせておけば、リシェルの評判を落とせる。愛など後から飾ればいい』
コレット様の顔から、すべての色が消えた。
「嘘……」
誰も答えなかった。
殿下も。
鐘も。
それは虚偽ではなかった。
コレット様は床に座り込んだ。
震える唇から、かすれた声が漏れる。
「私……本当に、選ばれたのだと思っていました」
その言葉に、私は何も言えなかった。
許せない。
許せないけれど。
彼女もまた、王太子の舞台に飾られた花だった。
綺麗な花として置かれ、都合が悪くなれば踏み捨てられるだけの。
だからといって、彼女の嘘で傷つけられたことが消えるわけではない。
私は聖女ではない。
今すぐ許すことなど、できなかった。
「ふざけるな!」
殿下が叫んだ。
「たかが婚約破棄だ! 王国中の鐘を鳴らすようなことか!」
鐘が鳴った。
今度の音は、低かった。
金文字の色が、淡い金から深い赤金へ変わる。
ユリウスの表情が、初めて険しくなった。
「ここからは、国家条項です」
『婚約破棄の主目的。恋愛関係の解消ではない』
『主目的。ベルンハルト公爵家が保持する王妃宮監査権の剥奪』
『副目的。王妃宮救貧基金の監査停止。港湾税優遇案の通過』
私が邪魔だったのだ。
王太子妃になる前に。
王妃宮の監査権を正式に継ぐ前に。
王国の金の流れを、私が見てしまう前に。
私を悪女として落とす必要があった。
コレット様は、そのための花飾りだった。
「違う! 私は真実の愛を選んだだけだ!」
鐘が鳴る。
『虚偽』
『王太子私設基金からオルド侯爵家への資金移動を確認』
『港湾税優遇案、王太子殿下署名済み』
それはもう、婚約破棄ではなかった。
国家への裏切りだった。
殿下は私へ詰め寄る。
「リシェル、貴様……いつから私を嵌める準備をしていた!」
「嵌めてなどおりません」
本当は、少しだけ嘘だった。
私は殿下を嵌めたかったわけではない。
けれど、いつかこの人の嘘が鐘に耐えられなくなればいいとは、何度も思った。
そのたびに、自分を恥じた。
それでも、鐘を直す手は止めなかった。
「私は、鐘を直しただけです」
「鐘を……直した?」
「はい。王都十二鐘楼。港の税関鐘。鉱山町の坑口鐘。国境砦の誓約鐘。すべて、王冠契約に再接続しました」
ユリウスが静かに付け加える。
「王冠監察府が確認済みです。契約網は百二十六年ぶりに完全復旧しています」
「馬鹿な……何のために……」
「母が、嘘で消されたからです」
大広間が静まった。
「私の母は、救貧基金の不正を見つけました。けれど記録は消され、証人は沈黙し、母だけが宮廷を去りました」
声が震えた。
嫌だった。
ここで泣きたくなかった。
この人たちの前で、弱いところを見せたくなかった。
「だから、直しました。王都で消されても、地方で鳴るように。宮廷で握り潰されても、港で、鉱山で、教会で、砦で、誰かが聞くように」
私は殿下を見た。
「鐘は、殿下を裁くためだけに鳴ったのではありません」
少しだけ、声が低くなった。
「今まで黙らされた人たちの声が、ようやく届いただけです」
「やめろ」
殿下の手が、腰の儀礼剣に伸びた。
「鐘守りの血で止まるのだろう」
会場に悲鳴が走る。
王冠契約の古い条文。
鐘守りの血による停止。
それは確かに存在する。
だが、殿下は一つだけ知らなかった。
「殿下。鐘守りは、私だけではありません」
殿下の剣が、半ば抜かれたところで止まる。
王宮の外から、さらに大きな鐘の波が押し寄せた。
港も、鉱山も、修道院も、名もない村の小さな鐘までもが、同じ契約に応えていた。
金文字が空中に広がる。
『王冠契約、全土網へ移行』
『契約保持者、七千四百十二名』
『単独停止、不可能』
殿下の手から、儀礼剣が滑り落ちた。
「鐘は、もう王宮だけのものではありません」
大広間の扉が開いた。
深い菫色のドレス。
白銀の髪飾り。
青ざめた顔。
エルネスティナ王妃陛下だった。
彼女の後ろには、近衛騎士たちが並んでいる。
王妃陛下は、息子を見た。
床に落ちた剣を見た。
空中に浮かぶ赤金の文字を見た。
その瞳に怒りはなかった。
あるのは、疲労と、痛みと、それでも立つ者の覚悟だった。
「止めなさい」
王妃陛下が言った。
「母上……!」
「アルヴァンを。これ以上、王家の名で嘘を重ねさせてはなりません」
殿下の顔が崩れた。
「近衛。アルヴァン・レグルスを拘束しなさい」
「私は王太子だぞ!」
鐘が鳴った。
『虚偽。審問中につき王命効力停止』
「私は、あなたの息子だ!」
今度は、鐘は鳴らなかった。
真実だった。
王妃陛下の唇が、わずかに震えた。
大広間の誰も、息をしなかった。
「ええ」
王妃陛下は言った。
「あなたは、私の息子です」
殿下の目に、初めて子供のような色が浮かんだ。
だが王妃陛下は、一歩も退かなかった。
「だからこそ、これ以上あなたを王家の罪にしてはおけません」
近衛騎士が殿下の両腕を押さえる。
王妃陛下は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして開いた時、そこにいたのは母ではなく、王妃だった。
「最終条項を」
ユリウスが一礼する。
「民の前で虚偽をもって人を裁き、王冠の信を損ねた王位継承者は、鐘の審問をもって継承権を失う」
鐘が鳴った。
『王冠契約、最終条項を起動』
『アルヴァン・レグルスの王位継承権を剥奪します』
その声は、王国全土に響いた。
この国の次の王が、今、王冠から拒まれた。
殿下は力を失い、近衛に支えられるように立っていた。
「リシェル、お前は私を裁いたのか」
私は首を横に振った。
「いいえ、殿下」
そこで一度、言葉が詰まった。
綺麗なことだけ言えば、簡単だった。
けれど、私は綺麗な人間ではなかった。
「私は……あなたに、私の十年を少しでも見てほしかった」
殿下が目を見開く。
「愛してほしかった、とは言いません」
声が少し震えた。
「ただ、私が隣で積み上げてきたものを、一度くらい見てほしかった」
殿下の唇が動く。
けれど、もう遅かった。
「裁いたのは、殿下ご自身のお言葉です」
鐘は鳴らなかった。
嘘ではなかった。
殿下は何かを言おうとした。
けれど、もう誰も彼の言葉を待っていなかった。
近衛騎士たちが、彼を連れていく。
コレット様は床に座り込んだまま、ぼろぼろと泣いていた。
王妃陛下は彼女を見る。
「コレット・ヴァニエ。あなたの罪は調べます」
「私……何も、分かっていませんでした」
「分からなかったことは、罪を消しません」
王妃陛下の声は厳しかった。
「けれど、分かろうとする道まで閉ざすつもりはありません」
王妃陛下は、私の方へ歩いてくる。
「リシェル。あなたは、私の息子を裁いたのですか」
問いの形をした、最後の確認だった。
「いいえ、陛下。私は鐘を直しただけです」
私は少し迷ってから、続けた。
「でも、傷つかなかったわけではありません」
王妃陛下の目が、わずかに揺れた。
「王妃として、その言葉を受け取ります」
彼女は側近から一枚の羊皮紙を受け取った。
廃嫡宣書。
王位継承権の剥奪を、王家として正式に認める文書。
王妃陛下の手が、わずかに震えていた。
「母としては、この手を切り落としてしまいたい」
誰も息をしなかった。
「けれど王妃として、この署名をためらうわけにはいきません」
彼女は署名した。
エルネスティナ・レグルス。
その名が書かれた瞬間、鐘が鳴った。
『王家による承認を確認』
『王冠契約、審問を終了します』
王国中の鐘が、順に鳴り止んでいく。
港の鐘が静まる。
鉱山の鐘が静まる。
国境砦の鐘が静まる。
王都十二鐘楼が、最後の余韻を残す。
そして、大広間の銀鐘が、かすかに揺れて止まった。
静寂が戻った。
けれど、元の静寂ではなかった。
私はその場に立ったまま、自分の手を見た。
震えていた。
怖かった。
痛かった。
悔しかった。
少しだけ、嬉しかった。
その全部が混ざって、どういう顔をすればいいのか分からなかった。
婚約破棄された。
十年が終わった。
支えようとした人に、悪女と呼ばれた。
けれど。
鐘は鳴った。
母の声は、届いた。
王妃陛下が私の前に立つ。
「リシェル。あなたは自由です」
その言葉は、思っていたよりも重かった。
「王家は、あなたとの婚約を正式に解消します。あなたの名誉は王家が回復する。望むなら公爵家へ戻りなさい。望むなら王妃宮に残りなさい。望むなら、この国を離れてもよい」
自由。
その言葉を聞いて、私はすぐには喜べなかった。
自由とは、誰も私の行き先を決めてくれないということでもあった。
そして、その自由を一番見せたかった十年前の私は、もうどこにもいなかった。
王太子妃になるために背筋を伸ばしていた少女。
褒められたくて古い契約文を覚えた少女。
鐘の錆を落としながら、いつか殿下が気づいてくれるかもしれないと思っていた少女。
あの子は、もういない。
それでも、生きていくのは私だった。
私は窓の外を見た。
夜明け前の王都。
鐘楼の影が、薄い青の空に立っている。
「王妃陛下。鐘守りの制度を、王宮だけのものではなく、正式に全土制度へ改めてください」
王妃陛下が目を見開く。
「地方の契約保持者を保護する法律が必要です。契約文も、民が読める言葉に改めるべきです」
ユリウスが小さく咳払いした。
「加えて、虚偽審問の乱用防止条項も必要です」
私は彼を見た。
「もう考えていたのですか」
「あなたなら、自由になった瞬間に仕事を増やすと思っていました」
少し腹が立った。
当たっていたからだ。
王妃陛下が、初めて微笑んだ。
「では、リシェル・ベルンハルト。王妃宮特別監察官として、鐘守り制度の再編を命じます」
私は深く礼をした。
「拝命いたします」
「ただし、今夜は休みなさい」
「……はい」
返事はした。
守る自信はなかった。
◇
その後、王国は大きく揺れた。
アルヴァン元王太子は東の離宮に移され、王位継承権を完全に失った。
オルド侯爵家は取り潰し。
ヴァニエ男爵家は爵位を返上し、財産の大半を救貧基金へ戻すことになった。
コレット・ヴァニエは社交界から退けられ、王都への出入りを禁じられた。
そして地方救貧院で、監督付きの奉仕と会計の学び直しを命じられた。
最後に一度だけ、彼女から手紙が届いた。
私は、自分が可哀想でいることに慣れすぎていました。
そう書かれていた。
私は返事を何度も書き直した。
最初は、許します、と書いた。
嘘だったので破った。
次に、許せません、と書いた。
それも、少し違った。
最後に、一文だけ残した。
学び直す者を、鐘は責めません。
私が責めない、とは書けなかった。
許すには、まだ傷が新しすぎた。
けれど、彼女が二度と誰かの嘘にすがらずに生きるなら、それだけは少しだけ祈ってもいいと思った。
それから、鐘守り制度の改革が始まった。
王都だけでなく、地方にも契約保持者が置かれた。
古い条文は民の言葉へ訳された。
虚偽審問の乱用を防ぐため、起動条件は厳密に定め直された。
ユリウスはその後も、何かと理由をつけて私の執務室へ来た。
「リシェル様。休憩です」
「今、地方鐘楼の予算案を」
「その言葉は昨日も聞きました」
「監察官というより、看守ですね」
「あなたが囚人のように仕事から離れないので」
私は少しだけ笑った。
あの日から、鐘は一度も審問のためには鳴っていない。
それでよかった。
鐘は鳴らない方がいい。
鳴らずに済む国の方が、ずっといい。
「ユリウス。あの日、あなたはなぜ西鐘楼の作業に立ち会ってくれたのですか」
「最初は、王冠監察府として必要だったからです」
「最初は?」
「途中からは、あなたが誰にも信じられていないものを、一人で信じているように見えたからです」
私は黙った。
「私は、そういうものを笑う人間になりたくなかった」
鐘は鳴っていない。
けれど、胸の奥で小さな音がした気がした。
「では、今後も立ち会ってください」
「仕事としてですか」
「最初は」
ユリウスが私を見る。
私は少しだけ視線をそらした。
「途中からは、まだ考えます」
彼はしばらく黙っていた。
そして、とても真面目な顔で言った。
「では、記録しておきます」
「しなくていいです」
今度は、私が笑った。
窓の外で、風が吹いた。
鐘楼の上に留まっていた白い鳥が、一斉に飛び立つ。
春の光が、王都を照らしていた。
婚約破棄された夜、私の十年は終わった。
けれど、それは人生が壊れた音ではなかった。
誰かの隣に立つためだけに生きた時間が終わり、私自身の足で歩く朝が始まった音だった。
鐘は鳴っていない。
それでも私は知っている。
鐘が鳴らない日々を守ることの方が、ずっと難しいのだと。
それでも私は、もう誰かの隣に立つためではなく、私自身の足で、その難しさの方へ歩いていく。
お読みいただきありがとうございます。
まだ短編のストックがいくつかあるので、今後数日間は18時ごろの投稿を目指す予定です。
記録、契約、聖女、王宮の違和感など、少しずつ違う切り口の異世界恋愛を書いていきます。
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