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婚約破棄された瞬間、王国中の鐘が鳴った。 「王太子殿下の虚偽宣誓を確認しました。王位継承権を剥奪します」

作者: 神居 朔
掲載日:2026/05/27

 「リシェル・ベルンハルト。お前との婚約を、今この場で破棄する」


 王太子アルヴァン殿下がそう告げた直後だった。


 王宮の銀鐘が鳴った。


 高く、硬く、嫌な音だった。


 ひとつだけではない。


 続いて、王都の十二鐘楼が鳴る。


 東の聖堂鐘。西の裁判鐘。南の市場鐘。北の城門鐘。


 さらに遠く、港の税関鐘、鉱山町の坑口鐘、国境砦の誓約鐘までが、遅れて響き始めた。


 春誓祭の舞踏会は、一瞬で凍りついた。


 楽師は弓を止め、令嬢たちは扇を持ったまま固まり、年老いた貴族たちは天井の銀鐘を見上げている。


 けれど、誰よりも驚いていたのは、婚約破棄を告げたアルヴァン殿下だった。


「何だ、この鐘は」


 その腕にすがるコレット・ヴァニエ男爵令嬢が、小さく震える。


「殿下……怖いです。リシェル様が、何かをなさったのでしょうか……」


 会場中の視線が、私に向いた。


 リシェル・ベルンハルト。


 ベルンハルト公爵家の長女。


 王太子殿下の婚約者。


 そして、王国で最後の鐘守り。


 私は白い手袋の指先を重ねた。


 震えていた。


 悔しいことに、震えていた。


 今夜こうなるかもしれないと、何度も考えていた。王冠契約が本当に起動するかも、王冠監察府の立ち会いで確認していた。


 それでも、実際にその言葉を浴びせられると、胸の奥が冷たくなった。


 十年だった。


 八歳で婚約してから、十年。


 私はこの人の隣に立つために学んできた。


 王国史。税制。外交儀礼。貴族名鑑。王妃宮の古い規約。救貧基金の帳簿。鐘楼に残された、誰も読まなくなった契約文。


 夜会の花飾りより、鐘の錆を落とした回数の方が多かった。


 別に、誰かに褒めてほしかったわけではない。


 いや。


 嘘だ。


 本当は、少しは褒めてほしかった。


 少しでよかった。


 殿下に愛してほしかったのか、と問われれば、きっと違う。


 少なくとも、今なら違うと言える。


 けれど、一度くらいは見てほしかった。


 私が隣で何を積み上げていたのか。


 何を守ろうとしていたのか。


 どれほどつまらないと言われても、古い鐘楼へ通い続けた理由を。


 愛されなかったことより、見られていなかったことが悔しかった。


「私ではございません、殿下」


「では、何だと言う」


「王冠契約です」


 その名を口にした瞬間、年配の貴族たちの顔色が変わった。


 王冠契約。


 王族が成人の儀で誓う、古い王権制限条項。


 王族が公の場で嘘をついた時、鐘がそれを審問する。


 最後に鳴ったのは百二十六年前だった。


 殿下も、知らなかったわけではない。


 ただ、百年以上沈黙した契約など形だけだと思っていた。


 埃をかぶった鐘楼に通うだけの婚約者が、本当に直せるはずがないと。


 だから、私を笑った。


 古い鐘を磨いているだけの、つまらない婚約者。


 埃まみれの契約書しか取り柄のない女。


 そう言った。


 何度も。


「王冠契約か。成人の儀で聞かされた古い条項だな」


 殿下は唇を歪めた。


「だが、あれは百二十六年も沈黙している。君ごときが、今さら何を鳴らせる」


「現在も有効です」


「はったりだ」


「でしたら、殿下のお言葉でお確かめください」


 鐘の音が、ひときわ高く響いた。


 大広間の空中に、淡い金色の文字が浮かぶ。


『王位継承第一位、アルヴァン・レグルス殿下による公衆前宣誓を検出』


『発言内容。リシェル・ベルンハルトとの婚約破棄。理由、複数の罪状告発』


 誰かが悲鳴に近い息を漏らした。


 殿下は目を細める。


「小細工を」


「殿下」


 喉が少し乾いていた。


「王冠に誓って、もう一度おっしゃってください」


 本当は怖かった。


 今すぐ逃げ出したかった。


 ここにいる誰かに、もういいと言ってほしかった。


 けれど、ここで私が下がれば、また消される。


 母の声も。


 私の十年も。


 これまで黙らされてきた誰かの声も。


「私が罪を犯したと。コレット様を害したと。王太子妃にふさわしくない悪女だと。王冠に誓って、もう一度」


「リシェル、貴様……私を試すつもりか」


「いいえ」


 私は一度だけ息を吸った。


「殿下のお言葉が、王冠に耐えられるかを確かめるだけです」


 コレット様が、殿下の袖を握る。


「殿下……リシェル様は脅しているだけです。私は、殿下を信じております」


 その言葉で、殿下は大広間の中央で胸を張った。


 愚かだと思った。


 それでも少しだけ、胸が痛んだ。


 この人は、いつもそうだった。


 自分が正しいと信じている時だけ、こんなに堂々としている。


「よかろう。王冠に誓って、もう一度言う」


 鐘が止んだ。


 嫌なほど静かだった。


「リシェル・ベルンハルト。お前は嫉妬に狂い、コレットを白鳥池へ突き落とし、王妃宮救貧基金の帳簿を改竄し、さらに私と彼女の真実の愛を妨げた。よって、私はお前との婚約を破棄する!」


 沈黙。


 次の瞬間、鐘が鳴った。


『虚偽宣誓を確認』


『告発内容。コレット・ヴァニエを白鳥池へ突き落とした件。虚偽』


「そんなはずはありません!」


 コレット様が叫んだ。


「私、確かに白鳥池のほとりで、リシェル様に呼び止められたのです。冷たく睨まれて、それから、私の腕を……」


 鐘が、低く鳴る。


『事件当時、リシェル・ベルンハルトは西鐘楼地下にて王冠契約修復作業中』


『立会人、王冠監察府監察官ユリウス・クラウスナー』


 大広間の奥から、一人の青年が進み出た。


 濃紺の礼服に、銀縁の眼鏡。


 王冠監察府の若き監察官、ユリウス・クラウスナー。


 灰青色の目が、静かに殿下を見ていた。


「相違ありません。リシェル嬢は当時、西鐘楼地下におりました」


「監察官ごときが、王太子の言葉に口を挟むな!」


「口を挟んでいるのではありません。記録を読んでおります」


 低いざわめきが広がった。


 コレット様はなおも涙を浮かべる。


「でも、私は本当に怖かったのです。あの方の冷たい視線で、足がすくんで……」


 白い頬。震える睫毛。細い肩。


 何も知らない者なら、きっと庇いたくなる姿だった。


 けれど、鐘は鳴った。


『コレット・ヴァニエは転落前日、侍女エミーヌに対し、次の発言を行った』


 幼い女の声が、大広間に流れた。


『白鳥池なら、濡れるだけで跡は残らないわ。少し泣けば、殿下はきっと怒ってくださる』


 コレット様の顔が真っ白になった。


『香油瓶、王宮薬室にて保管。診断記録も、自作自演の転落と一致』


 王宮薬室長が、青ざめた顔で深く頭を下げる。


「証拠はございます」


「殿下、違うのです……私、ただ、殿下に心配してほしくて……」


 殿下はコレット様を見た。


 ほんの一瞬、嫌悪が浮かんだ。


 コレット様は、それを見てしまった。


「殿下……?」


 私は少しだけ、目を伏せた。


 可哀想だと思った。


 けれど同時に、ざまあみろとも思った。


 そんな自分が嫌だった。


 でも、綺麗なだけの心で十年を耐えられるほど、私は強くなかった。


 鐘は、可哀想かどうかを裁かない。


 ただ、嘘かどうかを告げる。


「鐘を止めろ」


 殿下が低く言った。


「リシェル、今すぐ鐘を止めろ」


「できません」


「お前は鐘守りだろう!」


「鐘守りは、鐘を鳴らす者ではありません」


 私は震える指を握り込んだ。


「鐘が鳴るべき時に、鳴るよう守る者です」


「ならば命じる。王太子として命じる。鐘を止めろ!」


 また、鐘が鳴った。


『王冠契約起動中、虚偽宣誓者の王命効力は一時停止』


 王太子の命令が、無効。


 大広間の空気が変わった。


 これは、ただの恋愛沙汰ではない。


 そう気づいた顔が、次々に増えていく。


「その条項は、王位継承者の成人の儀で誓われるはずです」


 ユリウスが言った。


 殿下は歯を食いしばる。


「知っている。知らぬわけがないだろう」


 彼は私を睨んだ。


「だが、あんなものは形だけだ。百年以上動かぬ古い契約に、王太子の命令を止める力などあるものか」


「ありました」


「黙れ!」


 殿下の怒声が、大広間を打った。


 その瞬間、胸の奥で、古い声がよみがえった。


 十二年前。


 母が罪を着せられた日。


 私の母、クラリス・ベルンハルトは、王妃宮救貧基金の不正を見つけた。


 冬に薪を買えない寡婦のための金。


 飢えた子供にパンを渡すための金。


 身寄りを失った老人に薬を届けるための金。


 それが、王族に近い貴族たちの宴会費へ流れていた。


 母は告発しようとした。


 けれど記録は消され、証人は黙らされ、母だけが宮廷を去った。


 あの時、鐘は鳴らなかった。


 王都の主鐘は封じられ、地方鐘楼との契約線は切られ、記録核は眠っていた。


 母の声は、王宮の壁の中で消えた。


 最後の日、母は私の手を握った。


 手が冷たかった。


 嘘そのものより、嘘を聞こえないふりする国が怖いの。


 母はそう言った。


 だから私は、鐘を直した。


 誰かの声が、もう二度と消されないように。


 王宮だけで消されても、港で鳴るように。


 宮廷が耳を塞いでも、国境砦の兵士が顔を上げるように。


 鐘が鳴る。


『告発内容。王妃宮救貧基金の帳簿改竄。虚偽』


『改竄実行者。ヴァニエ男爵家会計代理人』


『指示系統。オルド侯爵家私設書記室』


 大広間の端で、ヴァニエ男爵が膝を折った。


「お父様……?」


 コレット様が震えた。


 鐘は続ける。


『救貧基金の一部は、王太子私設基金、ヴァニエ男爵家債務補填、オルド侯爵家港湾投資へ流用』


 ざわめきが、悲鳴に近くなる。


 救貧基金。


 冬の薪、子供のパン、老人の薬になるはずだった金。


 それが、王太子の私設基金と、侯爵家の港湾投資へ流れていた。


 これは、令嬢同士の嫉妬ではない。


 誰かの明日が奪われていた。


「違う!」


 殿下が叫んだ。


「私は知らない! 基金など、私には関係ない!」


 鐘が鳴った。


『王太子殿下は三日前、側近オルド侯爵令息に対し、次の発言を行った』


 殿下自身の声が響いた。


『救貧基金など、どうせ貧民にばら撒くだけの金だ。リシェルが監査権を継ぐ前に、帳簿を整えろ』


 誰も声を出さなかった。


 私の爪が、手袋の内側で掌に食い込む。


 痛かった。


 けれど、その痛みがなければ、私は泣いていたかもしれない。


 悔しかった。


 母が消されたことも。


 救われるはずだった人たちが踏みつけられたことも。


 それをこの人が、ばら撒くだけの金、と呼んだことも。


 全部が、悔しかった。


「私は……帳簿のことなんて……」


 コレット様が呟いた。


 鐘は鳴らなかった。


 そこに虚偽はなかった。


 彼女は本当に知らなかったのだ。


 ただ泣き、ただ選ばれたつもりで、ただ自分の可哀想さに酔っていただけだった。


 殿下は彼女を睨んだ。


「使えぬ女だ」


 コレット様の肩が跳ねた。


 鐘が鳴る。


『王太子殿下は五日前、側近オルド侯爵令息に対し、次の発言を行った』


『コレットは便利だ。泣かせておけば、リシェルの評判を落とせる。愛など後から飾ればいい』


 コレット様の顔から、すべての色が消えた。


「嘘……」


 誰も答えなかった。


 殿下も。


 鐘も。


 それは虚偽ではなかった。


 コレット様は床に座り込んだ。


 震える唇から、かすれた声が漏れる。


「私……本当に、選ばれたのだと思っていました」


 その言葉に、私は何も言えなかった。


 許せない。


 許せないけれど。


 彼女もまた、王太子の舞台に飾られた花だった。


 綺麗な花として置かれ、都合が悪くなれば踏み捨てられるだけの。


 だからといって、彼女の嘘で傷つけられたことが消えるわけではない。


 私は聖女ではない。


 今すぐ許すことなど、できなかった。


「ふざけるな!」


 殿下が叫んだ。


「たかが婚約破棄だ! 王国中の鐘を鳴らすようなことか!」


 鐘が鳴った。


 今度の音は、低かった。


 金文字の色が、淡い金から深い赤金へ変わる。


 ユリウスの表情が、初めて険しくなった。


「ここからは、国家条項です」


『婚約破棄の主目的。恋愛関係の解消ではない』


『主目的。ベルンハルト公爵家が保持する王妃宮監査権の剥奪』


『副目的。王妃宮救貧基金の監査停止。港湾税優遇案の通過』


 私が邪魔だったのだ。


 王太子妃になる前に。


 王妃宮の監査権を正式に継ぐ前に。


 王国の金の流れを、私が見てしまう前に。


 私を悪女として落とす必要があった。


 コレット様は、そのための花飾りだった。


「違う! 私は真実の愛を選んだだけだ!」


 鐘が鳴る。


『虚偽』


『王太子私設基金からオルド侯爵家への資金移動を確認』


『港湾税優遇案、王太子殿下署名済み』


 それはもう、婚約破棄ではなかった。


 国家への裏切りだった。


 殿下は私へ詰め寄る。


「リシェル、貴様……いつから私を嵌める準備をしていた!」


「嵌めてなどおりません」


 本当は、少しだけ嘘だった。


 私は殿下を嵌めたかったわけではない。


 けれど、いつかこの人の嘘が鐘に耐えられなくなればいいとは、何度も思った。


 そのたびに、自分を恥じた。


 それでも、鐘を直す手は止めなかった。


「私は、鐘を直しただけです」


「鐘を……直した?」


「はい。王都十二鐘楼。港の税関鐘。鉱山町の坑口鐘。国境砦の誓約鐘。すべて、王冠契約に再接続しました」


 ユリウスが静かに付け加える。


「王冠監察府が確認済みです。契約網は百二十六年ぶりに完全復旧しています」


「馬鹿な……何のために……」


「母が、嘘で消されたからです」


 大広間が静まった。


「私の母は、救貧基金の不正を見つけました。けれど記録は消され、証人は沈黙し、母だけが宮廷を去りました」


 声が震えた。


 嫌だった。


 ここで泣きたくなかった。


 この人たちの前で、弱いところを見せたくなかった。


「だから、直しました。王都で消されても、地方で鳴るように。宮廷で握り潰されても、港で、鉱山で、教会で、砦で、誰かが聞くように」


 私は殿下を見た。


「鐘は、殿下を裁くためだけに鳴ったのではありません」


 少しだけ、声が低くなった。


「今まで黙らされた人たちの声が、ようやく届いただけです」


「やめろ」


 殿下の手が、腰の儀礼剣に伸びた。


「鐘守りの血で止まるのだろう」


 会場に悲鳴が走る。


 王冠契約の古い条文。


 鐘守りの血による停止。


 それは確かに存在する。


 だが、殿下は一つだけ知らなかった。


「殿下。鐘守りは、私だけではありません」


 殿下の剣が、半ば抜かれたところで止まる。


 王宮の外から、さらに大きな鐘の波が押し寄せた。


 港も、鉱山も、修道院も、名もない村の小さな鐘までもが、同じ契約に応えていた。


 金文字が空中に広がる。


『王冠契約、全土網へ移行』


『契約保持者、七千四百十二名』


『単独停止、不可能』


 殿下の手から、儀礼剣が滑り落ちた。


「鐘は、もう王宮だけのものではありません」


 大広間の扉が開いた。


 深い菫色のドレス。


 白銀の髪飾り。


 青ざめた顔。


 エルネスティナ王妃陛下だった。


 彼女の後ろには、近衛騎士たちが並んでいる。


 王妃陛下は、息子を見た。


 床に落ちた剣を見た。


 空中に浮かぶ赤金の文字を見た。


 その瞳に怒りはなかった。


 あるのは、疲労と、痛みと、それでも立つ者の覚悟だった。


「止めなさい」


 王妃陛下が言った。


「母上……!」


「アルヴァンを。これ以上、王家の名で嘘を重ねさせてはなりません」


 殿下の顔が崩れた。


「近衛。アルヴァン・レグルスを拘束しなさい」


「私は王太子だぞ!」


 鐘が鳴った。


『虚偽。審問中につき王命効力停止』


「私は、あなたの息子だ!」


 今度は、鐘は鳴らなかった。


 真実だった。


 王妃陛下の唇が、わずかに震えた。


 大広間の誰も、息をしなかった。


「ええ」


 王妃陛下は言った。


「あなたは、私の息子です」


 殿下の目に、初めて子供のような色が浮かんだ。


 だが王妃陛下は、一歩も退かなかった。


「だからこそ、これ以上あなたを王家の罪にしてはおけません」


 近衛騎士が殿下の両腕を押さえる。


 王妃陛下は目を閉じた。


 ほんの一瞬だけ。


 そして開いた時、そこにいたのは母ではなく、王妃だった。


「最終条項を」


 ユリウスが一礼する。


「民の前で虚偽をもって人を裁き、王冠の信を損ねた王位継承者は、鐘の審問をもって継承権を失う」


 鐘が鳴った。


『王冠契約、最終条項を起動』


『アルヴァン・レグルスの王位継承権を剥奪します』


 その声は、王国全土に響いた。


 この国の次の王が、今、王冠から拒まれた。


 殿下は力を失い、近衛に支えられるように立っていた。


「リシェル、お前は私を裁いたのか」


 私は首を横に振った。


「いいえ、殿下」


 そこで一度、言葉が詰まった。


 綺麗なことだけ言えば、簡単だった。


 けれど、私は綺麗な人間ではなかった。


「私は……あなたに、私の十年を少しでも見てほしかった」


 殿下が目を見開く。


「愛してほしかった、とは言いません」


 声が少し震えた。


「ただ、私が隣で積み上げてきたものを、一度くらい見てほしかった」


 殿下の唇が動く。


 けれど、もう遅かった。


「裁いたのは、殿下ご自身のお言葉です」


 鐘は鳴らなかった。


 嘘ではなかった。


 殿下は何かを言おうとした。


 けれど、もう誰も彼の言葉を待っていなかった。


 近衛騎士たちが、彼を連れていく。


 コレット様は床に座り込んだまま、ぼろぼろと泣いていた。


 王妃陛下は彼女を見る。


「コレット・ヴァニエ。あなたの罪は調べます」


「私……何も、分かっていませんでした」


「分からなかったことは、罪を消しません」


 王妃陛下の声は厳しかった。


「けれど、分かろうとする道まで閉ざすつもりはありません」


 王妃陛下は、私の方へ歩いてくる。


「リシェル。あなたは、私の息子を裁いたのですか」


 問いの形をした、最後の確認だった。


「いいえ、陛下。私は鐘を直しただけです」


 私は少し迷ってから、続けた。


「でも、傷つかなかったわけではありません」


 王妃陛下の目が、わずかに揺れた。


「王妃として、その言葉を受け取ります」


 彼女は側近から一枚の羊皮紙を受け取った。


 廃嫡宣書。


 王位継承権の剥奪を、王家として正式に認める文書。


 王妃陛下の手が、わずかに震えていた。


「母としては、この手を切り落としてしまいたい」


 誰も息をしなかった。


「けれど王妃として、この署名をためらうわけにはいきません」


 彼女は署名した。


 エルネスティナ・レグルス。


 その名が書かれた瞬間、鐘が鳴った。


『王家による承認を確認』


『王冠契約、審問を終了します』


 王国中の鐘が、順に鳴り止んでいく。


 港の鐘が静まる。


 鉱山の鐘が静まる。


 国境砦の鐘が静まる。


 王都十二鐘楼が、最後の余韻を残す。


 そして、大広間の銀鐘が、かすかに揺れて止まった。


 静寂が戻った。


 けれど、元の静寂ではなかった。


 私はその場に立ったまま、自分の手を見た。


 震えていた。


 怖かった。


 痛かった。


 悔しかった。


 少しだけ、嬉しかった。


 その全部が混ざって、どういう顔をすればいいのか分からなかった。


 婚約破棄された。


 十年が終わった。


 支えようとした人に、悪女と呼ばれた。


 けれど。


 鐘は鳴った。


 母の声は、届いた。


 王妃陛下が私の前に立つ。


「リシェル。あなたは自由です」


 その言葉は、思っていたよりも重かった。


「王家は、あなたとの婚約を正式に解消します。あなたの名誉は王家が回復する。望むなら公爵家へ戻りなさい。望むなら王妃宮に残りなさい。望むなら、この国を離れてもよい」


 自由。


 その言葉を聞いて、私はすぐには喜べなかった。


 自由とは、誰も私の行き先を決めてくれないということでもあった。


 そして、その自由を一番見せたかった十年前の私は、もうどこにもいなかった。


 王太子妃になるために背筋を伸ばしていた少女。


 褒められたくて古い契約文を覚えた少女。


 鐘の錆を落としながら、いつか殿下が気づいてくれるかもしれないと思っていた少女。


 あの子は、もういない。


 それでも、生きていくのは私だった。


 私は窓の外を見た。


 夜明け前の王都。


 鐘楼の影が、薄い青の空に立っている。


「王妃陛下。鐘守りの制度を、王宮だけのものではなく、正式に全土制度へ改めてください」


 王妃陛下が目を見開く。


「地方の契約保持者を保護する法律が必要です。契約文も、民が読める言葉に改めるべきです」


 ユリウスが小さく咳払いした。


「加えて、虚偽審問の乱用防止条項も必要です」


 私は彼を見た。


「もう考えていたのですか」


「あなたなら、自由になった瞬間に仕事を増やすと思っていました」


 少し腹が立った。


 当たっていたからだ。


 王妃陛下が、初めて微笑んだ。


「では、リシェル・ベルンハルト。王妃宮特別監察官として、鐘守り制度の再編を命じます」


 私は深く礼をした。


「拝命いたします」


「ただし、今夜は休みなさい」


「……はい」


 返事はした。


 守る自信はなかった。


     ◇


 その後、王国は大きく揺れた。


 アルヴァン元王太子は東の離宮に移され、王位継承権を完全に失った。


 オルド侯爵家は取り潰し。


 ヴァニエ男爵家は爵位を返上し、財産の大半を救貧基金へ戻すことになった。


 コレット・ヴァニエは社交界から退けられ、王都への出入りを禁じられた。


 そして地方救貧院で、監督付きの奉仕と会計の学び直しを命じられた。


 最後に一度だけ、彼女から手紙が届いた。


 私は、自分が可哀想でいることに慣れすぎていました。


 そう書かれていた。


 私は返事を何度も書き直した。


 最初は、許します、と書いた。


 嘘だったので破った。


 次に、許せません、と書いた。


 それも、少し違った。


 最後に、一文だけ残した。


 学び直す者を、鐘は責めません。


 私が責めない、とは書けなかった。


 許すには、まだ傷が新しすぎた。


 けれど、彼女が二度と誰かの嘘にすがらずに生きるなら、それだけは少しだけ祈ってもいいと思った。


 それから、鐘守り制度の改革が始まった。


 王都だけでなく、地方にも契約保持者が置かれた。


 古い条文は民の言葉へ訳された。


 虚偽審問の乱用を防ぐため、起動条件は厳密に定め直された。


 ユリウスはその後も、何かと理由をつけて私の執務室へ来た。


「リシェル様。休憩です」


「今、地方鐘楼の予算案を」


「その言葉は昨日も聞きました」


「監察官というより、看守ですね」


「あなたが囚人のように仕事から離れないので」


 私は少しだけ笑った。


 あの日から、鐘は一度も審問のためには鳴っていない。


 それでよかった。


 鐘は鳴らない方がいい。


 鳴らずに済む国の方が、ずっといい。


「ユリウス。あの日、あなたはなぜ西鐘楼の作業に立ち会ってくれたのですか」


「最初は、王冠監察府として必要だったからです」


「最初は?」


「途中からは、あなたが誰にも信じられていないものを、一人で信じているように見えたからです」


 私は黙った。


「私は、そういうものを笑う人間になりたくなかった」


 鐘は鳴っていない。


 けれど、胸の奥で小さな音がした気がした。


「では、今後も立ち会ってください」


「仕事としてですか」


「最初は」


 ユリウスが私を見る。


 私は少しだけ視線をそらした。


「途中からは、まだ考えます」


 彼はしばらく黙っていた。


 そして、とても真面目な顔で言った。


「では、記録しておきます」


「しなくていいです」


 今度は、私が笑った。


 窓の外で、風が吹いた。


 鐘楼の上に留まっていた白い鳥が、一斉に飛び立つ。


 春の光が、王都を照らしていた。


 婚約破棄された夜、私の十年は終わった。


 けれど、それは人生が壊れた音ではなかった。


 誰かの隣に立つためだけに生きた時間が終わり、私自身の足で歩く朝が始まった音だった。


 鐘は鳴っていない。


 それでも私は知っている。


 鐘が鳴らない日々を守ることの方が、ずっと難しいのだと。


 それでも私は、もう誰かの隣に立つためではなく、私自身の足で、その難しさの方へ歩いていく。

お読みいただきありがとうございます。

まだ短編のストックがいくつかあるので、今後数日間は18時ごろの投稿を目指す予定です。

記録、契約、聖女、王宮の違和感など、少しずつ違う切り口の異世界恋愛を書いていきます。

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― 新着の感想 ―
126年鐘が鳴らなかったのは126年前に誰かが不都合だから鳴らないようにしたのかもしれないと思いました。当時の王家や権力者が、嘘をついても鐘が鳴らないから本当だ、とねじ曲げるために。
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