第1話「遺品」
辞令は、一枚の紙だった。
様式どおりの書式。ギルド印。支部長の署名。
榊恒一は受け取ったあと、二秒ほど眺め、畳んでポケットへ入れた。
「被害相談室への異動、拝命しました」
言うべき言葉を言った。
隣の席の男が、書類の向こうからわずかに視線をずらした。目が合いそうになって、また逸らした。廊下側の女性職員がキーボードを打ちながら、打つのをやめた。静止した。また打ち始めた。
それだけで、十分だった。
左遷というのは、本人より先に周囲が理解する。
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被害相談室は、ギルド本部棟の端——案内板にも掲示板にも載っていない区画にあった。
廊下を一本折れ、もう一本折れて、突き当たり。扉に「被害相談室」とプレートがある。
プレートの文字が、微妙に傾いていた。
ノックをして、中に入る。
思っていたより広かった。
その代わり、整ってはいなかった。
壁際の棚にはファイルボックスがぎっしり並び、棚に入りきらない紙束が床近くまで積まれている。窓口用の机はあるが、来客を歓迎するような空気はない。
書類と記録と、処理しきれなかった時間だけが堆積している部屋だった。
「……あ、今日からの方ですか?」
最初に声をかけてきたのは、若い女だった。二十代前半くらい。
明るい茶色の髪を後ろでまとめ、職員証を胸につけている。表情は明るいが、少しだけ戸惑っていた。
「榊です。本日付で」
「雨宮です。雨宮ひな。えっと、よろしくお願いします」
頭を下げる。
その横で、壁にもたれたままこちらを見た男がいた。三十代半ばくらい。背が高く、片脚にわずかな古傷の癖がある。元探索者だと一目でわかる体つきだった。
「黒瀬です」
名乗っただけで、それ以上は言わない。
雨宮が困ったように笑った。
「黒瀬さん、ちょっとそれだけだと感じ悪いですよ」
「感じは良くねえだろ」
「そういうこと言うからです」
「事実だ」
「もう……」
榊は軽く会釈した。
「よろしくお願いします」
黒瀬は榊の箱を見て、短く鼻を鳴らした。
「急だったろ」
「そうでもありません」
「急だよ。追い出されるやつは、だいたい急だ」
雨宮が小さく息を呑んだ。
「黒瀬さん」
「違うなら違うでいい」
榊は箱を机の端に置いた。
「構いません」
本当に構わなかった。
ここで取り繕われるより、そのほうが楽だった。
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最初の来客は、その日の午後に来た。
「すみません」
声だけが、妙に平坦だった。
「ここって……話、聞いてもらえますか」
雨宮がすぐに前へ出た。
「はい。どうぞ、座ってください」
女は椅子に座るまでに少し時間がかかった。
服装はきちんとしていた。髪も整っている。取り乱した様子はない。
その代わり、何度も同じ説明を繰り返してきた人間の顔をしていた。感情が削れて、言葉だけが残っている顔だ。
膝の上で手を組み、指先をきつく押し合わせる。
「ご相談内容を伺ってもいいですか」
雨宮が柔らかく促す。
女は一度だけ息を吸って、それから言った。
「兄が、死んだんです」
部屋の空気がわずかに止まった。
雨宮の声が一段低くなる。
「……はい」
「ダンジョン事故で。去年の冬に。兄はそこで死んだって言われました」
「事故が起きた地点が深くて、回収班が入れなかったって。遺体も、遺品も、そのままになってます」
雨宮はうなずきながら、要点をメモしていく。
榊はまだ口を挟まなかった。初日から相談の取り回しに割って入るのは違う。
どこで聞くべきかも、どこまで踏み込んでいいかも、まだこの部署の流儀が分からない。
「でも」
女は膝の上の手に、さらに力を込めた。
「兄の剣が、別の人の配信に映ってたんです」
雨宮が目を瞬かせた。
「……剣、ですか」
「はい。落ちてたんじゃなくて、後ろの人の荷物に括られてて」
それで、榊は初めて視線を上げた。
「その、映像はお持ちですか」
「はい」
「見せていただいてもいいですか」
女が端末を差し出す。
雨宮は受け取り、いったん自分で再生した。
明るい声の配信者が視聴者コメントを拾いながら、ダンジョン中層の通路を進んでいる。編集された短い映像だ。切り抜きに近い。
画面が少し揺れた。後ろを歩くサポートスタッフの荷の横に、一振りの剣が括りつけられているのが一瞬映る。
「……これ、ですか」
雨宮がその場面で止める。
「はい。柄の革巻きと、鍔の欠け方が同じで」
雨宮は数秒見つめたあと、眉を寄せた。
見間違いだと言い切るには似すぎている。
だが、それ以上のこともまだ言えない。そんな顔だった。
「榊さん」
雨宮が端末を少し持ち上げる。
「これ、少し見てもらってもいいですか。事故記録のほうも一緒に」
判断を丸ごと任せるのではなく、確認を頼む声だった。
黒瀬が壁際から口を挟んだ。
「記録の照合なら、そっちのほうが早い」
榊は席を立った。
「確認だけなら」
雨宮から端末を受け取る。
画面の向こうでは、さっきと同じ通路が流れていた。
数秒後、後衛スタッフの荷に括られた剣が映る。
刃の長さ。柄の形。鍔の広がり。
人気の型、と言われればそうかもしれない。
だが、落ちていたのではなく、運ばれているように見える。
「他の窓口には相談されましたか」
女が少し驚いた顔で榊を見る。
「しました」
「回答は」
「見間違いじゃないかって。よくある型だって」
「あと、誰の持ち物か分からないなら、たまたま回収しただけかもしれないって」
榊は小さくうなずいた。
いかにも切るときの言い方だった。
間違っていると断定しない。だが調べる気もない。そういう返答だ。
「事故報告書、出せますか」
「はい。えっと、去年冬の中層事故なら……これですね」
雨宮が端末を操作し、要約欄を開く。
榊は映像の投稿日時と事故報告書を並べた。
事故発生日。死亡推定時刻。遺品未回収。
それから、もう一度映像の投稿日付へ戻る。
「榊さん?」
雨宮が小声で呼ぶ。
今度は、確認というより、本当に何か見つけたのかを知りたい声だった。
数秒の沈黙のあと、榊は言った。
「少し、気になる点があります」
女の指先が、ぴくりと動いた。
「……何がですか」
榊は画面を示した。
「この剣がご本人のものかどうかは、まだ断定できません」
「ただ、もしそうなら少し不自然です」
雨宮が息を呑む。
「背景に落ちているのではなく、携行されているように見えます」
「回収したなら、回収の記録か、保管処理の記録があるはずです」
「でも事故報告は、遺品未回収で閉じています」
女は榊を見たまま動かなかった。
「じゃあ……誰かが持っていったってことですか」
榊は首を振った。
「まだそこまでは言えません」
「見間違いかもしれない。別の剣かもしれない。回収していても、記録だけ漏れているのかもしれない」
「ただ、携行されているなら、その処理がどこにもないのが気になります」
その言い方は冷たかった。
だが、初めて女の表情に"聞かれている"色が浮かんだ。
榊は端末を雨宮へ返した。
「処理を閉じるのは、そのあとでいい」
雨宮がすぐに女へ向き直る。
「確認できる範囲から、順に当たってみます」
「少しお時間をいただくことになると思うんですけど……それでも大丈夫ですか」
女は何か言おうとして、うまく言葉にできなかった。
それでも、うなずいた。
黒瀬が壁にもたれたまま、小さく鼻を鳴らした。
「初日から面倒なのに引っかかったな」
榊は答えなかった。
引っかかったのは案件そのものではない。
処理の閉じ方だった。




