善意は無限じゃありません 〜世間の顔も三度まで〜
「コピー用紙くらい補充しておけよ」
「すみませんでした」
「この書類、確認しておいてな。俺、定時で帰るから」
定時出勤、定時退社。それが俺のモットーだ。この会社で勤続30年、主任止まりだが、俺は俺のやり方で働いている。
「コピー用紙くらい自分で入れて欲しいものよ」
「ね、さっさと帰ってさ。書類の確認も自分でやらないし」
「結局甘えてるのよ、他人の善意に」
俺には定時上がりしなければならない理由があった。麻雀だ。学生時代から始めた麻雀にはまり、雀荘に通うのは俺のライフワークといって良い。
「しかしよ、毎日よく定時で帰れるな。暇なのかい?」
「俺くらいになるとね、周りに言えば動くんだよ。仕事は部下がやってくれる」
仲間は不思議そうに聞いてきた。しかし俺に言わせれば、周りを如何に動かすかが仕事であって、言わなくても察しなければならないというのが俺の考え方だ。
家は賃貸のボロアパート。どうせ寝に帰るだけの場所。部屋は万年床になっている。
俺は朝が滅法弱い。60歳目前にして未だに駄目だ。だが、通勤に使うバスは、いつも俺が走ってくるのを見て出発を待っているし、電車は駆け込めば良い。だが、今朝から俺は、どうもおかしなことになっている。
停留所にバスが停まっている。いつも見慣れた客が乗り込んでいる様子が目に入った。そこから一歩遅れて俺が乗り込む。ところが無情にも扉が閉められ、バスはエンジン音を残して、俺の視線から遠ざかっていった。
「バカ野郎、あれに乗れなきゃ間に合わねぇんだよ。俺のことを知らねぇとは、さては新人か?」
腹が立った俺は、バス会社に苦情の電話を入れることにした。
「〇〇交通です」
事の顛末を、電話窓口の相手に伝えた。相手は「運行管理者」と名乗っていた。
「何で定時だからって発車させるんだ」
「は?定時だから発車したんですが」
「他の運転手はいつも俺が来るまで待っているんだよ。」
「それであれば、今後は間に合うようにご利用ください。他のお客様のご迷惑です」
俺が反論する前に電話が切られた。ふざけた野郎だ。何とか駅に辿り着いたものの、またも俺の前で電車のドアは閉められた。ベルが鳴り終わってもすぐには閉めないはずだ。全く最近の連中は…規則よりもサービスだろう、俺に対する。
30分遅刻し、俺は会社に辿り着いた。総務の女性が俺に書類を持ってきた。
「遅刻理由を記入し、課長へ提出してください」
「堅いこと言うなよ、いつもの事だろ。それに今日はバスに乗れなかったんだから」
「遅延の情報はありませんので、乗り遅れたのですよね」
「規則に縛られて、お役所みたいなこと言いやがって」
「役所も会社も関係ありませんよ」
俺は書類を持ち帰り、自分の席へ着いた。もちろんこんなクソ書類は破り捨てた。30年居る俺に対する対応も分からないとは、これだから若い者は…。
「おい、パソコンの電源が入ってないぞ。それから来週の月曜、俺休むから」
「ご自分で休暇簿に記入してください」
総務の担当者が俺の机にファイルを置いていった。俺の指示が聞けないのか。とにかく今日は、何かがおかしい。
昼になり、いつもの定食屋に行く。5年も通っている店なので、遅れて行っても俺の席は確保されている。
「今日も並んでるな。お先に失礼」
並んで待っている客を尻目に、店の扉を開けると、店員が俺を押し出した。
「順番ですので、並んでお待ちください」
「お前新人か?俺はいつも席があるんだよ」
「ありませんよそんなもの。順番を崩さないで下さい」
結局追い出された俺は、その店を諦めた。今日は何かがおかしい。世界があまりにもおかしい。会社に戻った俺は、自分の机を見て驚いた。書類が山のように高く積まれている。
「おい、なんの真似だこれは」
「主任の仕事ですけど」
「こんなのお前らで片付けろよ」
「ご自分の仕事ですよね」
確かに私がやらなければならない仕事なのは確かだが、便宜上事務職員にやらせてきたのだ。今さら俺に振られても分かるわけがない。
定時の時間を迎え、いつも通り帰り支度を整えた。あとはほかの社員に任せれば良い。
「あと、やっておいてな」
「困ります。これは主任の仕事です。ご自分の仕事はご自分の責任で片付けてください」
結局俺は積まれた書類を片付けるため、定時退社どころか、帰りは大幅に遅れた。一方で他の社員は私には脇目も振らずに仕事をこなしているが、時間が経つにつれ、1人また1人と帰っていく。
「お先にね。これから子供迎えに行かなくちゃ」
「毎日大変ね。気をつけてね、また明日」
いつも仕事を頼んでいる女性社員が、他の社員と会話を交わしていた。何が毎日大変ね、だ。俺は雀荘に行くのを飛ばして仕事を片付けているのに。こういうのをハラスメントというのを、若い奴らは知らんのか。
結局、かなりの残業をして俺は帰ることになった。雀荘も今日はキャンセルだ。最終バスも終わっていた。無性に腹立たしい思いで帰り道を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、警察官だった。
「これ、落とされましたよ」
見れば、俺の定期券だった。
「おぅ、ご苦労さん。よく気づいてくれたね」
「仕事ですので」
それだけ言うと、警察官は去った。
「仕事ですかそうですか…仕事じゃなきゃ拾わないのかよ」
翌朝も、俺は同じようにバス停に向かうと、バスは既に出発していた。たかが定刻から1分過ぎただけだ。電車も、会社も、何もかもが俺に対して攻撃的に思えてならない。30年会社に尽くし、社会に貢献してきた人間に対して、あまりにも酷い仕打ちだ。
俺はさすがに腹に据えかね、別室に若い社員を集めた。あまり年長者を舐めないほうが良い。
「お前ら何のつもりだ?コピー用紙の補充も、俺の仕事の補佐も、諸々お前らの仕事だろ」
「それ、誰が決めたんですか?」
経理担当の女性社員が声を上げた。
「主任、備品の補充なんて気づいた人がやれば良いのでは」
「私が毎日やっている仕事、これ本来は主任がやるべき仕事ですよ」
「お前らな…俺はお前らよりもずっと前からこの会社にいるんだよ。察して敬って、仕事しやすくするのが当たり前だろ。そういう事を少しは学べよ」
「それ、パワハラですよね」
何を言っているんだこいつらは…俺は戸惑った。俺が若い頃は、有無を言わさず先輩のお膳立てをするのが当たり前だった。先輩のためなら白も黒にする。
扉が開く音がした。振り向くと、課長が入ってきた。
「聞かせてもらったよ。年長者を敬え…か。まぁ、気持ちは分かるよ」
若手がざわめいた。見ろ、俺の感覚が正しかったんだ。
「だがね、君は敬われるような振る舞いをしていたか?本来やるべき仕事を押し付け、備品一つ補充しない。若手に遅刻をもみ消すよう命令する。そんな人間、誰が敬うかね」
違う、俺の時代はそれが当たり前だ。先輩への忖度も出来ない世の中になったのか…
「これ以上は看過できない。これ以降の遅刻は厳格に就業規則に則って対応する。但し、これまでの遅刻に関しては厳重注意として、不問に付す。これは私の善意だと思ってくれ」
そう言うと、課長と他の社員は部屋を出て行った。へっ、何が善意だよ。善意で社会が回っているとでも言いたいのか。俺は30年選手だぞ。
「課長、主任は心を入れ替えるでしょうか?」
「どうかな…彼は、自分が周りに助けられていた事に気づいていない。善意の怖いところはそれなんだ」
腹の虫が治まらない俺は、終業後に居酒屋で呑む事にした。一人で呑むのは退屈だ。麻雀仲間に連絡したが、皆一様に断られた。どいつもこいつも使えねぇな。
だいぶ寄った俺は、帰る道すがら体調不良に襲われた。呑みすぎたのか、酷い目眩だ。そのまま路肩の排水口に足を踏み外し、倒れてしまった。誰かが119番に連絡してくれたらしい。救急車が到着すると、隊員に担架に担ぎ上げられ、救急車へ載せられた。
「悪いな」
「いえ、仕事ですので」
搬送先の病院で、俺は急性アルコール中毒の他に、排水口に転んだ事で片腕片脚を骨折し、暫く入院となった。病院生活では、何かと看護師がやってくれる。
「仕事ですから」
入院から数日後、会社の総務担当者が俺に書類を届けに来た。働けない間は傷病手当金が出る。だが、もう少し早く来てほしかったものだ。
「忙しいところ、ご苦労さん」
「いえ、私の仕事ですので」
そう言うと、社員は帰っていった。
会社の給湯室
「主任、この前道端で倒れてたのよ」
「あぁ、救急車を呼んであげた件よね」
「うん。まぁ放っとけないしね」
「お疲れさま、ちょっとお茶入れさせて」
課長、どうぞ。
「おぉありがとう!ご親切に。いただきます」
終




