第八章 選択の代償
妊娠が分かってから、真奈の生活は一変した。
つわりは軽いほうだったが、疲れやすくなった。スタジオには事情を伝え、仕事量は多少調整してもらったものの、責任ある立場であることに変わりはない。
俺は、できる限り家事を引き受けた。料理も洗濯も掃除も、全部やる。
仕事は、セーブしなかった。
セーブできなかった、というほうが正しい。
北川の案件は佳境に入っている。ここで結果を出せば、安定した収入の基盤ができる。子どもが生まれる前に、地盤を固めたい。
だが——。
あの警告が、頭から離れない。
——この未来は高確率で破綻します。
具体性のない恐怖ほど、厄介なものはない。
ある夜、真奈が急に顔色を変えた。
「……ちょっと、お腹痛い」
血の気が引く。
「どのくらいだ?」
「我慢できないほどじゃないけど、変な感じ」
すぐに病院へ向かう。
診察の結果は、軽い張り。安静にすれば問題ないという。
大事には至らなかった。
だが、俺の中で何かが弾けた。
これが“高確率”の始まりか?
次は?
もっと大きな何かが起きるのか?
帰宅後、真奈は横になり、すぐに眠った。
俺は、暗闇の中で待つ。
まるで、文字が現れるのを。
そして——。
視界に、淡く浮かび上がる。
——リスクレベル上昇。
——二回目のやり直しを実行しますか?
YES / NO
喉が乾く。
今なら、まだ間に合うのか?
妊娠が発覚する前に戻れるかもしれない。
東京に来る前かもしれない。
あるいは——。
戻った先で、妊娠を避ける選択をすれば。
危険は回避できる。
だが、それは。
この命を、なかったことにするということだ。
俺は、画面を睨む。
守るために使う、と決めた。
だが、何を守る?
命か。
可能性か。
未来か。
もし、やり直して妊娠自体を回避したら。
真奈は安全かもしれない。
だが、それは“この子”ではない。
別の未来。
別の命。
それでも、同じと言えるのか?
俺は、震える。
「……直人?」
真奈が目を覚ます。
「どうしたの?」
俺は、彼女の手を握る。
「何かあったら、仕事やめるか?」
「え?」
「無理しないでほしい」
真奈は、少し驚いた顔をしたあと、柔らかく笑う。
「やめないよ。でも、ちゃんとセーブする。私一人の体じゃないんだから」
強い。
この人は、強い。
俺よりも。
「直人」
「ん?」
「もし、何かあっても……後悔しないように、今を大事にしよ?」
その言葉に、胸が締めつけられる。
後悔しないように。
やり直しがあるからこそ、後悔を恐れていたのは俺だ。
だが、彼女は違う。
一度きりの前提で、生きている。
俺は、画面に視線を戻す。
YESは、すぐそこだ。
だが。
ゆっくりと、NOを選ぶ。
光が消える。
二回目は、使わない。
この未来で、守る。
やり直して命を消す選択は、俺にはできない。
それがどんな確率でも。
翌日、俺は仕事の方針を変えた。
北川の案件は、信頼できるメンバーに一部を委ねる。
自分が抱え込みすぎない。
収入は少し減るかもしれない。
だが、時間は増える。
夜、真奈と並んでソファに座る。
小さなエコー写真を、二人で見つめる。
「まだ、よく分からないね」
「ああ」
「でも、いる」
確かに、いる。
俺たちの選択の先に、生まれた存在。
未来は固定ではない。
ならば、守り方も一つではない。
数週間後。
安定期に入る直前、再び病院へ。
検査の結果を待つ間、俺は息ができないほど緊張していた。
医師が微笑む。
「順調ですよ」
膝から力が抜ける。
破綻は、起きなかった。
少なくとも、今は。
帰り道、空がやけに青い。
俺は、初めて気づく。
あの警告は、未来の確定ではなかった。
高確率。
つまり、選択次第で変わる。
やり直しを使わずに、回避できた。
それは——。
俺たちが、自分で選んだからだ。
その夜、文字が浮かぶ。
——分岐の安定化を確認。
——残り使用可能回数:二回。
数字は減っていない。
だが、意味が変わった。
やり直しは、保険ではない。
最後の覚悟だ。
俺は、まだ二回持っている。
だが、使わずに済むなら、それが一番だ。
真奈が、俺の肩にもたれる。
「直人」
「ん?」
「ありがとう」
「何もしてない」
「してるよ。ちゃんと、今を選んでる」
その言葉が、胸に深く刺さる。
やり直せるのは、あと三回まで。
だが、今は使わない。
この未来を、信じる。
そう決めた矢先——。
俺のスマホが鳴る。
非通知。
嫌な予感。
通話に出ると、無機質な声。
「榊原直人様ですね」
背筋が凍る。
「あなたの“やり直し”について、確認したいことがあります」
心臓が止まりかける。
やり直しを、知っている?
これは——。
偶然ではない。
運命が、次の段階に進んだ。




