第七章 告げられた未来
成功の余韻は、長くは続かなかった。
北川の大型案件は本格的に動き出し、俺は毎日のように打ち合わせと修正に追われた。真奈も昇格後の責任が増え、帰宅時間はさらに遅くなる。
だが、以前とは空気が違う。
忙しさの中に、確かな充実があった。
俺たちは、ようやく並んで走れている気がしていた。
そんなある日。
真奈が、検査薬を手に震えていた。
「……直人」
かすれた声。
陽の光が差し込む洗面所で、彼女の目は揺れている。
「陽性、だった」
言葉が、数秒遅れて意味を持つ。
「……え?」
「妊娠、してる」
世界の音が遠のいた。
心臓の鼓動だけが、やけに大きい。
三年前の未来に、こんな出来事はなかった。
当然だ。
あのとき、俺たちは別れていた。
これは、やり直した結果、生まれた未来だ。
俺は、震える手で彼女を抱きしめる。
「ほんとか」
「うん……たぶん。病院でちゃんと確認しないとだけど」
喜びと不安が入り混じる空気。
俺の胸の奥に、熱いものが広がる。
家族。
俺たちの、子ども。
想像したことがなかったわけではない。
だが、こんなにも早く、こんなにも突然に来るとは。
数日後、病院で正式に妊娠が確認された。
小さな命。
まだ豆粒のような存在。
だが確かに、そこにある。
帰り道、真奈が言った。
「怖いね」
「ああ」
「でも、ちょっと嬉しい」
俺も、同じだった。
だがその夜。
ベランダに出た瞬間、文字が浮かんだ。
——重大な分岐点に到達しました。
心臓が嫌な音を立てる。
——この未来は高確率で破綻します。
「……は?」
息が詰まる。
破綻?
何が?
——現状の選択を継続した場合、母体および胎児に重大なリスクが発生します。
血の気が引く。
そんな未来、知らない。
知りようがない。
これは三年前には存在しなかった未来だ。
「具体的に言えよ……!」
叫んでも、文字は淡々と続く。
——二回目のやり直しを実行すれば、該当リスクの回避確率が上昇します。
つまり——。
今のままでは、危険だというのか。
だが、何が原因かは示されない。
仕事か?
過労か?
東京の生活か?
俺の選択か?
背中に冷たい汗が流れる。
もし、このまま進んで、何かあったら。
もし、彼女や子どもを失ったら。
そのとき、俺はやり直しを使うのか?
それとも、間に合わないのか?
部屋の中から、真奈の笑い声が聞こえる。
まだ何も知らない。
俺だけが、この不吉な警告を見ている。
やり直せるのは、あと三回まで。
残り、二回。
ここで使えば——。
妊娠前に戻る可能性がある。
あるいは、東京に来る前。
いや、それは分からない。
やり直しは、必ずしも直前に戻るとは限らない。
最初は三年前に戻った。
二回目はどこになる?
制御はできない。
それでも、リスク回避の確率が上がる。
確率。
確定ではない。
俺は壁に拳を打ちつける。
「ふざけるな……!」
幸せになろうとしただけだ。
正直に選んできただけだ。
それなのに、破綻?
運命は、何を試している?
部屋に戻ると、真奈がソファでお腹をさすっていた。
「ねえ、直人。名前、どうする?」
無邪気な問い。
胸が裂けそうになる。
俺は、笑うしかない。
「まだ早いだろ」
「だよね。でも、ちょっと考えるだけ」
その笑顔を守りたい。
絶対に。
夜、彼女が眠ったあと、俺は暗闇で天井を見つめる。
リスクの原因を探る。
真奈は仕事を続けるつもりだ。
忙しいスタジオ。
無理をすれば、確かに危険はある。
だが、それを止めれば、彼女のキャリアに影響する。
俺がもっと稼げば?
俺が仕事を減らせば?
選択肢はある。
だが、それが本当に“高確率の破綻”を防げる保証はない。
文字は、沈黙している。
使えと言わんばかりに。
だが俺は、簡単には押さない。
やり直しは、万能ではない。
分岐の揺らぎは拡大する。
そして、未使用回数は消滅する可能性がある。
もし、期限があるなら。
もし、強制的にゼロにされるなら。
その前に使うべきか?
思考が渦巻く。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
俺はもう、自分の成功のためにやり直しを使うつもりはない。
使うとしたら——。
守るためだ。
朝日が差し込む。
真奈が目を覚ます。
「おはよ」
「ああ」
「なんか、眠れなかった?」
「少しな」
俺は彼女の額にキスをする。
守る。
何があっても。
その決意とともに、胸の奥で静かに覚悟が固まる。
やり直せるのは、あと三回まで。
その二回を、俺はどこで使うのか。
運命は、もうすぐ答えを迫る。




