第五章 記憶の隙間
真奈の記憶は、完全に消えたわけではなかった。
だが、ところどころに穴が空いていた。
東京に来る決断をした日のこと。
俺が会社を辞めると伝えた夜の会話。
一緒に内見に行った不動産屋の前で笑ったこと。
それらが、曖昧になっている。
「……ごめん。なんか、うまく思い出せない」
病室のベッドで、真奈は眉を寄せる。
「無理に思い出さなくていい」
そう言いながら、胸の奥が軋む。
俺たちが選び直した未来の一部が、削り取られている。
これは偶然か?
それとも——分岐の揺らぎ。
あの言葉が、頭から離れない。
医師は「軽い脳震盪による一時的なもの」と説明した。時間が経てば戻る可能性は高いという。
だが、確信はない。
退院後、東京の部屋に戻ると、真奈は少しだけ他人行儀だった。もちろん笑うし、会話もする。だが、共有していたはずの“積み重ね”に、温度差がある。
「このカーテン、私が選んだんだっけ?」
「ああ。渋谷の店で、散々迷ってた」
「そうだったんだ……」
小さな違和感が、積み重なっていく。
俺は焦る。
思い出してほしい。
俺たちが一緒に決めた未来を。
だがその焦りこそが、距離を生む。
ある夜、真奈がぽつりと言った。
「直人、なんか必死だよね」
「……そうか?」
「うん。優しいし、支えてくれるけど……どこか、怖い」
怖い。
その言葉に、心臓が跳ねる。
俺は未来を知る者として振る舞ってきた。
正しい選択をしようと、常に先回りしてきた。
だがそれは、彼女から見れば「計算」に映るのかもしれない。
俺は、彼女を守りたいのか。
それとも、自分の後悔を消したいのか。
分からなくなる。
仕事も停滞していた。事故の件で数日抜けたことで、いくつかの案件を失った。信用は回復できるが、時間はかかる。
夜、ベランダに立つ。
東京の夜景は無数の光で満ちているが、心は重い。
そのとき、また文字が浮かぶ。
——記憶の固定化が進行しています。
——やり直しを行えば、現在の損失を回避できる可能性があります。
喉が鳴る。
やり直せば——。
大阪出張の前に戻り、事故を完全に防ぐこともできるかもしれない。
もっと慎重に動けば。
打ち上げを止めれば。
あるいは、出張自体をキャンセルさせれば。
だが、それは本当に可能か?
未来は固定ではない。
別の形で、もっと悪い何かが起きるかもしれない。
そして、回数は減る。
残り、二回。
俺は、画面を見つめる。
もし、ここで使えば——。
真奈の記憶は完全に戻る可能性が高い。
俺たちの積み重ねも、失われない。
代わりに、別の分岐が発生する。
それが何かは、分からない。
だが今、目の前で少しずつ距離が生まれている現実を、俺は直視できるか?
部屋の中から、真奈の咳が聞こえる。
俺は、目を閉じた。
守りたい。
それは本心だ。
だが、やり直しを使う理由が「怖いから」なら——。
俺は、また逃げることになる。
ゆっくりと、NOを選ぶ。
文字が消える。
逃げない。
この未来で、やり直さずに向き合う。
それが、俺の選択だ。
翌朝、真奈はベランダに出てきた。
「寒いよ」
「ごめん」
俺は笑う。
少し沈黙が流れたあと、真奈が言う。
「ねえ、直人。私、全部思い出せなくてもいいかも」
「……え?」
「もちろん思い出せたら嬉しいけど。今、こうして一緒にいるのは事実だし。これから積み重ねればいいよね」
胸が、締めつけられる。
俺は、過去を完璧に修正しようとしていた。
だが彼女は、未来を見ている。
「今」から作ればいいと。
涙が滲む。
「……ああ」
その瞬間、理解した。
やり直しは、過去を修正する力ではない。
選び続ける覚悟を試す装置だ。
残り、二回。
まだ、使わない。
だが運命は、容赦なく次の試練を用意している。
数日後、北川から連絡が入った。
「大型案件、入ったんです。榊原さん、共同でやりませんか?」
規模は、これまでとは比べ物にならない。
成功すれば、俺は一気に業界に名を売れる。
だが、納期は真奈の重要なコンペと重なっている。
また、選択だ。
仕事か。
彼女か。
俺は、深く息を吸う。
やり直せるのは、あと三回まで。
その制限の中で、俺はどこまで正直でいられるのか。
試されるのは、未来を知る力ではない。
今、この瞬間の覚悟だ。




