第十一章 消えない記憶
誕生日の夜は、やけに静かだった。
最初の地点に戻ったはずなのに、俺の中身だけが重い。
机の上のコンビニケーキ。
午後十一時五十九分。
そして、あの白い文字。
——やり直せるのは、あと三回まで。
違う。
もう三回じゃない。
俺はすでに二回使った。
一度目は三年前へ。
二度目は——。
父親という分岐を失った。
視界に浮かぶ。
——残り使用可能回数:一回。
胸が締めつけられる。
最後の一回。
これを使えば、何が消える?
俺自身か?
真奈との出会いか?
それとも——。
スマホを握る。
真奈の名前。
発信ボタンを押す前に、指が止まる。
この世界では、まだ俺たちは別れていない。
関係は、壊れかけている途中。
ここからまた、やり直せる。
だが。
父親にはなれない。
本当に?
文字はそう言った。
“榊原直人の未来における父親という分岐が消失しました”
未来における。
未来は固定ではないはずだ。
だが、分岐が消失したということは。
どれだけ選んでも、その道はない?
俺は、震える手で真奈に電話をかけた。
「……もしもし?」
眠そうな声。
生きている。
まだ、何も起きていない。
「起こしたか?」
「ううん。どうしたの?」
胸が詰まる。
「……誕生日、だろ」
「日付変わった瞬間に言うの?」
小さく笑う声。
泣きそうになる。
「おめでとう、俺」
「何それ」
いつものやり取り。
だが俺は、知っている。
失われた未来を。
彼女は知らない。
「明日、会える?」
俺は聞く。
「急だね。まあ、いいけど」
それだけで、救われる。
通話を切ったあと、天井を見上げる。
やり直しは、俺に選択を迫る。
だが、今回は違う。
父親という分岐が消えた。
ならば。
守るべきものは何だ?
翌日、真奈と会う。
三年前の彼女。
まだ東京の話も出ていない。
まだ、妊娠もない。
当たり前だ。
だが、俺の中には確かにあの時間がある。
「直人、なんか今日変だよ」
「そうか?」
「優しすぎる」
苦笑する。
「誕生日だからな」
「自分の?」
「そう」
彼女は首を傾げる。
俺は、決める。
今回は、最初から逃げない。
東京の話が出たら、迷わない。
彼女の夢を止めない。
そして——。
父親になれないなら。
その現実を受け入れた上で、生きる。
数週間後。
プレゼンの日。
俺は一度目のやり直しと同じように成功させる。
未来の知識は、まだ使える。
だが、今回は違う。
成功に酔わない。
あのときのように、運命を操作していると錯覚しない。
夜、真奈が言う。
「東京のスタジオから声がかかってる」
来た。
「行けよ」
即答。
彼女は驚く。
「反対しないの?」
「しない。むしろ、一緒に行く」
迷いはない。
俺は知っている。
あの未来の温もりを。
あの夜の涙を。
たとえ父親になれなくても。
あの時間は、無駄じゃない。
東京での生活。
仕事。
支え合う日々。
俺は慎重に、しかし臆病にならずに進む。
そしてある夜。
真奈が言う。
「……妊娠、してるかも」
心臓が止まりかける。
検査薬。
陽性。
視界が揺れる。
だが——。
文字は浮かばない。
何も表示されない。
静寂。
病院で確認。
医師が微笑む。
「おめでとうございます」
涙が滲む。
消えたはずの分岐。
父親になれないはず。
なのに。
夜、ベランダに立つ。
「どういうことだ」
文字が、ゆっくりと浮かぶ。
——父親という分岐は消失しました。
——ただし、観測対象外の領域においては例外が発生する場合があります。
「観測対象外……?」
——あなたが“やり直しを使わずに選んだ未来”は、観測外領域へ移行します。
息が止まる。
つまり。
俺が最後の一回を使わず。
やり直しに依存せず。
選び続ける限り。
観測の外に出られる?
だから、妊娠が起きた?
父親という分岐が“観測下”では消えたが。
観測外では、残る?
震える。
ならば。
最後の一回は、使わない。
何があっても。
観測の外で、生きる。
真奈が後ろから抱きつく。
「直人?」
「なんでもない」
「泣いてる?」
「……ちょっとな」
俺は、彼女のお腹にそっと手を当てる。
温かい。
ここに、いる。
やり直せるのは、あと三回まで。
残り、一回。
だが。
この一回を使わないと決めたとき。
初めて、本当の意味で。
人生は、俺のものになる。
物語は、最終局面へ向かう。
最後の試練が、待っている。
だが今は。
ただ、この温もりを信じる。




