第十章 二回目
真奈が倒れたのは、雨の夜だった。
仕事から帰宅した直後、玄関で崩れ落ちた。
「真奈!」
抱き上げると、意識はあるが顔色が悪い。
「……ごめん、ちょっと、立ちくらみ」
違う。
ただの立ちくらみじゃない。
心臓が嫌な音を立てる。
すぐに救急へ向かう。
車内で、真奈は俺の手を握る。
「大丈夫だよ」
そう言う声が、弱い。
病院に着き、処置室へ運ばれる。
待合室で、一人になる。
冷たい椅子。
時計の針の音。
そして——。
視界に文字が浮かぶ。
——重大分岐発生。
——現行未来:胎児の生存確率低下。
息が止まる。
——二回目のやり直しを実行しますか?
YES / NO
頭が真っ白になる。
生存確率低下。
つまり、このままでは——。
医師が出てくる。
「現時点で流産の可能性があります。処置を行いますが、保証はできません」
言葉が遠い。
流産。
保証できない。
確率。
文字と重なる。
俺は壁に手をつく。
使えば。
今すぐ使えば。
妊娠前に戻れるかもしれない。
危険を回避できるかもしれない。
だが。
観測対象の一部が消失する可能性。
それは誰だ。
俺か。
真奈か。
子どもか。
あるいは——。
俺は目を閉じる。
あの日、妊娠を知ったときの真奈の顔。
エコー写真を見て笑った夜。
「いる」
そう言った彼女の声。
それを、なかったことにするのか。
助けるために。
消すのか。
医師が再び顔を出す。
「今、処置を始めます。ご家族の同意が必要です」
震える手で書類を受け取る。
ペンがうまく握れない。
文字が、また浮かぶ。
——実行推奨。
推奨。
誰のための推奨だ。
俺は、天井を見上げる。
やり直しは、万能ではない。
守るために使うと決めた。
今が、そのときか?
だが、使えば消失の可能性。
もし俺が消えたら?
真奈と子どもは?
もし真奈が消えたら?
耐えられない。
もし子どもが消えたら?
それは、今と何が違う?
選択は残酷だ。
やり直せるのは、あと三回まで。
残り、二回。
俺は、震えながらYESに視線を向ける。
守るためだ。
消えるのが俺なら、構わない。
彼女と子どもが生きるなら。
「……頼む」
小さく呟き、YESを選ぶ。
世界が、崩れる。
音が消え、光が割れる。
身体が落ちる。
胃が浮く。
そして——。
目を開ける。
見慣れた天井。
狭いワンルーム。
机の上のコンビニケーキ。
スマホの画面。
日付。
三十歳の誕生日の夜。
最初の夜。
息が止まる。
「……二回目、か」
急いでスマホを開く。
真奈の連絡先はある。
だが、最後のやり取りは——。
三年前の、別れる直前のもの。
東京にも行っていない。
妊娠も、ない。
まだ、何も起きていない。
胸が締めつけられる。
守ったのか?
それとも——。
視界に文字が浮かぶ。
——二回目のやり直しを消費しました。
——観測対象の一部が消失しました。
喉が凍る。
「誰だ……」
震える声。
文字は、冷たく続く。
——榊原直人の未来における“父親”という分岐が消失しました。
心臓が、止まった気がした。
父親という分岐。
つまり——。
この先、どんな未来を選んでも。
俺は、父親になれない?
「……ふざけるな」
叫ぶ。
だが、文字は消える。
静かな部屋。
誕生日の夜。
最初の地点。
残り使用可能回数:一回。
ひとつ、減った。
守ったつもりで。
俺は、何を失った?
真奈は、まだ事故にも遭っていない。
妊娠もしていない。
未来は白紙だ。
だが、俺は知っている。
あの命の温もりを。
あのエコー写真を。
あの夜の涙を。
それはもう、存在しない未来。
俺の中にしかない記憶。
俺は、床に崩れ落ちる。
やり直しは、代償を取る。
守るために使っても。
消えるのは、選ばなかった可能性。
俺は、父親になれない。
本当に?
それは確定か?
まだ、分からない。
だが。
残りは、一回。
最後の一回。
これを使えば、何が消える?
俺は、涙を拭う。
まだ終わっていない。
真奈は、いる。
未来は、ある。
父親になれないなら。
別の形で、守ればいい。
やり直せるのは、あと三回まで。
残り、一回。
最後の選択が、待っている。




