崩落の断崖へ
月が昇って空がわずかに明るくなっていくのを、真理愛は馬車の小窓から眺めていた。
フォルトゥナ公爵邸を離れていくにつれて、馬車はがたがたとよく揺れた。道の整備がされていないのは、放棄された地域に近づいていっているせいだった。
「かなり揺れているね、車酔いは大丈夫かな?」
真理愛の向かいに座るクラウディオが言った。
「ええ、大丈夫です。私、乗り物には結構強いんです」
真理愛が力強く言うと、クラウディオはくすっと笑った。
バンケットを間近に控え、準備も大詰めになっていたが、真理愛はクラウディオと共に断崖の崩落へと向かっていた。
今日は家庭教師たちの講義の日程を調整してようやく丸一日時間を空けることができた日で、かねてより希望していた崩落の現場を見に行く途中だった。夜の国を救いたいと決断した手前、伝聞ではなく自分の目で崩落の現場を見ておくべきだと考えていた。
ついてきたクラウディオは「私も今日は仕事がない」と言っていたが、客車の中でずっと予算関連の書類を片手に持っているあたり、嘘だったらしい。
真理愛の中での貴族のイメージは毎日優雅にサロンへ行ってお茶をして舞踏会に参加してというふんわりしたものだったが、クラウディオは毎日可哀そうなくらい仕事に追われていた。
フォルトゥナ公爵家に仕える吸血鬼は、真理愛から見れば多く感じられたが、あの宮殿を維持して広大な領地を経営することを考えると少なすぎるらしかった。クラウディオの両親が存命だったころにはもっと多くの使用人がいて家令もいたそうだが、クラウディオが当主になってからは退職が相次いでしまったため、クラウディオが責任を感じてあらゆる業務を引き受けていると、以前ルーベンからこっそり教えてもらった。
忙しそうなクラウディオの姿を見て、真理愛も何か手伝えないかと聞いてみたことがあったが、それよりも勉強が先だとやんわり断られてしまい、ぐうの音も出なかった。
魔法使いによって召喚された時、耳に入ってくる言葉は日本語に、真理愛が喋る言葉は夜の国の言葉に翻訳されるようになっていた。だが、それ以外は特に補填魔法はなく、真理愛の夜の国の文字の読み書きレベルは子ども未満で、夜の国の文化も法律も不文律も知らないので、何の役にも立てなかった。
クラウディオは揺れる客車の中で書類を見て時々ペンを走らせていたが、ようやく仕事が終わったのか書類をまとめて封筒に仕舞った。真理愛と目が合うと、肩をすくめてみせた。
「せっかくあなたと二人になれたのに、仕事にかまけてばかりですまなかった」
真理愛は照れたのを紛らわすために首を振った。
「崩落の現場を見たいと我が儘を言ったのは私なので、気にしないでください」
「我が儘だとは思っていないよ。むしろあなたの責任感の強さには感服するばかりだ。それに、家庭教師たちから話を聞くところによると、あなたはとても勉強熱心な生徒のようだね」
急に一気に褒められて、真理愛はとうとう照れているのを隠せなくなった。
「出来の良い生徒じゃないかもしれないですけど、意外と勉強は楽しいです」
異界へ来るまでの自分は、この世界に未練があったらいけないと言い聞かされて、勉強も習い事を頑張っても親には良い顔をされなくて、全てを中途半端にしていた。
でも、フォルトゥナ公爵家で家庭教師たちの講義を受けるうちに、本当はずっと何かのためにがむしゃらになってみたかったのだと気づいた。この世界では、真理愛が何をしても途中で取り上げる人はいない。それどころか、続けることを許してもらえる上に、努力した以上に褒めてもらえる。だから、勉強も、音楽も、踊りも、どれも他の人より優れてはないけど、好きになるまで続けることができた。
「あなたが楽しそうでよかった」
その短い言葉には、これ以上ないほどの喜びが詰め込まれているように聞こえた。
クラウディオは真理愛が楽しそうにしている姿を見て、いつも嬉しそうに微笑む。それがなぜか、まだ真理愛は受け止め切れていないだけで、本当は理解している。
同じ感情を互いの中に見つけ合っているはずなのに、互いに行動に踏み切れていない。この国の現状や置かれている立場を考えれば、現状では当然の着地点かもしれないが、真理愛は煮え切らなさにもやもやしていた。
「私、元の世界に戻れたら、今みたいに勉強を頑張ってみようと思います」
真理愛は自分の中に芽生えかけた苛立ちを消すように言った。彼が大胆な行動を取ってくれないことを彼のせいにするのは、絶対に間違っている。
「故郷へ帰れたら何を学ぶ予定なんだ?」
「ひとまず大学受験に向けて勉強を……。あ、大学というものがあって、その前に私の国では一定の年齢になると必ず学校に入学して、段階的に勉強をさせられて――」
真理愛が日本の学校制度について自分の経験を交えつつ説明しているうちに、馬車が減速して止まった。
「着いたみたいだね、降りるとしよう」




