魔法使いの弟子
バンケットの準備が始まってから一日、二日と経つにつれて、真理愛は一日中陽が射さない環境に慣れてきた。日光を浴びないと体に悪影響があるのではと懸念していたが、体の調子は良好だった。太陽の光を浴びずとも野菜や果物が育つ世界であるから、人間の体も月の光だけを浴びていても問題ないのかもしれない。
しかし、体の調子とは裏腹に、時間が経つにつれて心はずっしりと重くなっていた。バンケットの招待状は次々と準備されているが、まだ貴族たちへ送られておらず、真理愛の存在を知る家庭教師たちは口をつぐんでいる。真理愛を召喚した魔法使いも、いまだ公爵邸に留め置かれているとのことだったが、真理愛は儀式が失敗した日から一度も会っていなかった。
そして、準備が始まった日から三日後、月が沈むころになってクラウディオが真理愛の部屋を訪ねてきた。マナー講師が部屋を出て行ったのと入れ替わりに入ってきたので、終わるのをずっと待っていたらしかった。
クラウディオは珍しくにこにこしており、歩くたびに後ろで一つにまとめた髪が跳ねるように揺れていた。勉強ばかりで疲れていた真理愛もつい口角が上がった。
「あなたに聞いてほしい話があるんだが、今いいかな?」
「ええ。良いことがあったんですか?」
クラウディオは部屋の外に誰も通りかかっていないことを確認してから、真理愛に耳打ちした。
「実はね、魔法使いに弟子入りしたんだ」
クラウディオが壁掛けの燭台の方へ手をかざすと、火が消え、再び火が灯った。その様子を見て、真理愛の脳裏にひらめくものがあった。
「もしかして、ピアノを弾いた日に蝋燭に勝手に火がついたのって……」
「あれも私がやったことだ。まだ初歩の魔法しか教えてもらっていないが、この世界と異界を繋ぐ門を開く魔法を習得すれば、あなたを必ず元の世界に帰すことができる」
「ほ、本当にそんなことができるんですか?」
真理愛は嬉しさ半分、戸惑い半分だった。魔法がどういうものか、難易度が高いのかも知らないので、手放しで喜ぶことができなかった。
「まだ魔法を習い始めて数日だが、どうやら私には魔法の才能があったらしい。夜の国の魔法使いは一人しかおらず、弟子も一人しか取らない決まりだが、交渉の末に秘密の弟子にしてもらうことができた」
「交渉って、どうやって弟子になったんですか?」
真理愛は元の世界との門を開ける魔法の儀式に失敗した時の魔法使いと、それを冷ややかに見ていたクラウディオを思い出しながら言った。
「ああ、かの魔法使いも最初は乗り気ではなかったが、私が熱心に頼み込んだら、見込みがあればいいと言ったんだ。そうして、教えた端から修得していく私を見て態度を変えたよ。……それからあの時支払わなかった報酬の半分で」
クラウディオが空中で何かをかき混ぜるように手を動かすと、不意に風が吹いてカーテンが閉まった。心なしか空気がきれいになった気がした。
「すごい。でも、魔法使いさんのやり方とは全然違うんですね」
元の世界との門を開くための儀式では、魔法使いは陣を描いたり長い呪文を唱えたりと、大掛かりな準備をしていた。そのうえ、魔法使い自身が魔力を蓄える必要もありそうだった。
「私は、吸血鬼にしては目が悪いのだが、生まれつき他の吸血鬼たちには見えないものが見えていた。それは光の欠片とでも呼ぼうか、空中に浮遊する半透明の何かが、いつも私だけ見えていた。あの日、初めて魔法を見た私の目に映ったのは、魔法使いの呪文によって整列する光の欠片たちだった」
そう言って、クラウディオは空を見つめ、指先で何かをなぞった。彼にだけ見えている光の欠片を、真理愛にも想像できるようにしたのだろう。
「魔法使いにはこの光の欠片は見えないらしく、それゆえ魔法の行使の為に準備を要するようだが、私は違った。見えているものを動かすのだから、普通のひとよりも上達が早いのだろう。本当に運が良かった。おかげであなたの憂いをこうして晴らすことができる」
さらにクラウディオは何かを招き寄せるように手を動かした。不意に良い香りが真理愛の鼻をくすぐる。いつの間にか、クラウディオの手の中にコーヒーカップが出現していた。
「どうぞ、今日もお疲れ様」
「あ、ありがとうございます」
真理愛は手渡されたコーヒーカップをためつすがめつしたが、正真正銘の本物で、中には熱いエスプレッソが入っていた。口をつけてみると、真理愛の好みのとろけるような甘さだった。
しばらく呆気に取られていたが、我に返ってカップをテーブルに置き、クラウディオに向き直った。クラウディオは穏やかな笑顔を浮かべて、真理愛の驚きが収まるのを待ってくれていた。
「あなたが殿下と結婚するまでに、必ず異界との門を開く魔法を習得してあなたを元の世界に帰すと約束する。私はあなただけの魔法使いになるよ」
真理愛はクラウディオの手をぎゅっと握った。そうでもしないとこの感謝の気持ちは十分の一も彼に伝わらないと思った。
自分が進む道の先には王子に食い殺される未来しかないのかもしれないと、怖くて眠れない日もあった。だが、クラウディオは約束を果たし、真理愛に別の未来の可能性を見せてくれた。
「ありがとうございます。本当に、約束を守ってくださって、ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いよ。あなたが家に帰る時まで取っておいて」
気が付けば真理愛はクラウディオの赤い瞳を見つめていた。澄んだ瞳には嘘も悪意もなく、どこまでも純粋さだけが在った。
舞い上がる気持ちを、一滴の毒のような不安が邪魔をする。
「でも、私を逃がしてしまったら、クラウディオさんはきっと罪に問われてしまいますよね」
「あなたがそんなことを気にする必要はないのに。大丈夫、逃げ延びてみせるよ」
クラウディオは真理愛が離しかけた手を柔く捕まえると、手の甲にかすかに触れるだけの口づけを落とした。
「共に運命を裏切ろう」
頭は熱でぼうっとしているのに、なぜか同時に背筋がぞくりとした。災厄の前触れと呼ばれる彼が魔法の力を手に入れることに不安を覚えたのだ。だが、それも一瞬のことで、指先の熱の中に溶けるようにして消えた。
真理愛はようやくフォルトゥナという名前の意味を思い出した。それは、ローマ神話に登場する運命の女神の名だった。




