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夜の国のためのノクターン

 月の時が過ぎ、星の時へと移り変わると、屋敷の蝋燭が一つ、また一つと火を消され、光量が絞られていく。


 空に月が出ている間は月の時と呼ばれる活動時間で、月が沈むと星の時と呼ばれる休息の時間となる。


 しかし、真理愛まりあの活動はまだ終わらなかった。一日中勉強させられ、さらにこれから舞踊講師によるレッスンが待っていた。


 バンケットの開催が決まった翌日だというのに、ルーベンが手配した家庭教師たちが押し寄せてきたのだ。月の時には、夜の国の基礎知識や読み書き、歴史やマナーといった座学を受けさせられた。ダンスレッスンは体を動かせるので気分転換になると思っていたが、レッスンを前にした真理愛はすでにへとへとになっていた。


 ダンスレッスンを行う部屋で講師を待ちつつ休んでいる真理愛の元へ、クラウディオがコーヒーを持って現れた。ダンスレッスンを一緒に受けるためか、装飾のほとんどない動きやすそうな服に身を包んでいた。


「お疲れ様、初日からみっちり勉強していると聞いたよ。よければコーヒーをどうぞ」

「ありがとうございます」


 礼を言って小さなカップを受け取った。中に入っていたのはエスプレッソだった。一口飲むと、とろけるように甘い味がした。その甘さに悲鳴を上げていた脳が回復していく。


「クラウディオさんもお仕事だったんですよね、お疲れではないですか?」

「大丈夫。今日は主に書類仕事だったし、皆が持ってきた様々なリストを見ているばかりだったから、むしろ体は少しも疲れていないよ」


 クラウディオはにこやかに言った。真理愛はついその口元に視線が吸い寄せられて、さりげなく逸らした。


 吸血は、言うなれば愛情表現の一つで、関係の深い者同士しかしない。


 あの話を聞いてから、むしろ余計にクラウディオの口が気になってしまった。異界人だからというお目こぼしがいつまでも続くはずがないから、早くやめなければいけない。


 真理愛がエスプレッソを飲み終わった時、ちょうど舞踊講師が部屋に入ってきてレッスンが始まった。


 夜の乙女のためのバンケットでは、夜の乙女は領主とワルツを踊るしきたりになっていると講師が説明し、部屋に置かれたピアノでダンスをする曲を演奏した。それから、講師はクラウディオと軽く踊って見せてくれた。夜の国でもダンスの基本はあまり変わらないとわかって、真理愛はほっとした。


 真理愛は社交ダンス教室に通っていた時期があったので、夜の国のダンスもすんなりと踊ることができた。相手役のクラウディオもそつなくリードしてくれたので、真理愛もどう動けばいいのかすぐに読み取ることができて、講師が拍子抜けするほどあっさりその日のレッスンは終わった。


「ダンスの経験はあまりないと言っていたけど、上手だったね。あなたは謙遜が過ぎるきらいがあるらしい」

「クラウディオさんのリードのおかげですよ」


 真理愛は照れ笑いした。社交ダンス教室は好きだったが、練習であれ男性と踊ることが両親によく思われず、それなりに踊れるようになったのにやめさせられてしまったのだ。


 他の習い事にしても同じだった。両親は真理愛がいつか王子様の元へ嫁いでも恥ずかしくないようにと様々習い事をさせたが、基本的な部分ができるようになるとやめさせた。上手過ぎてもよくないでしょう、と言って。


「私は子どものころに練習させられたからね。経験を活かす場などないだろうと思っていたから、無駄にならなくてよかったよ」


 クラウディオが誰とも踊ったことがないのは、おそらく彼が不吉な白夜公だからというのが理由だろう。真理愛はまだクラウディオが差別的な扱いをされている場面を実際に目にしたことがないので、彼のように綺麗なひとがダンスに誘われず壁の花になっている様をうまく想像できなかった。


「ああ、そうだ。家庭教師たちにはあなたの存在を口外しないよう言いつけてあるから、そこは安心してほしい」


 だから家庭教師たちはやけに緊張していたんだ、と真理愛は納得した。


 クラウディオは招待状を送るまで徹底的に真理愛の存在を隠してくれるつもりらしい。長寿の吸血鬼にしてはまだ若く、不吉の象徴と言われる見た目をしていることを差し引いても、広大な領地を治める公爵たる彼の権力は絶大であるはずだから、そんなことが可能なのだろう。


 クラウディオ自身は自らの地位をそこそこと評価していたが、おそらくかなり低めに見積もっていることだろう。記憶が正しければ、公爵はいくつかある爵位の中でも最も位が高く、王族に次ぐもののはずだ。


「食事の前に着替えなくてはいけないし、そろそろ戻ろうか」

「あの、私、ピアノを弾いていってもいいですか?」

「ええ、どうぞ」


 真理愛は持ち手付きの燭台をピアノの上に置いて、椅子に座った。


 装飾的な木製のアップライトピアノは古めかしく見えたがよく手入れされていて、調律もされているようだった。


 ピアノも他の習い事と同じように中途半端なタイミングでやめさせられた。真理愛がやめると言ったときには、先生にはかなり引き止められたが、結局親の許しはもらえず続けられなかった。


 けれど、習い事をやめたあとも、親には秘密で学校に残ってこっそり弾いていた。放課後の音楽室でピアノが得意な友だちに教えてもらう時間が好きだったと、その時が過ぎ去った今ようやく気が付いた。幼稚園の先生になりたいと言っていた彼女は、今も元気にしているだろうか。


 クラウディオは部屋を出て行くかと思ったが、蝋燭の火を眩しそうにしながらも真理愛の隣に立った。


「も、戻られないんですか?」

「ああ、それよりもあなたの音楽を聞きたい。異界の音楽にも興味がある。それに、貴族にあるまじき考えだが、食事や仕事、外出のためだと、事あるごとに着替えるのは本当はしたくないんだ。どうかこのことはルーベンには秘密にしてほしい」

「わかりました。でも、簡単な曲しか弾けませんから、期待しないでくださいね。それに、さっきのワルツの曲も私の世界にある音楽と似ていましたし、クラウディオさんにとって珍しい音楽ではないかも……」


 真理愛が予防線を張ると、クラウディオがくすっと笑った。おそらくまた謙遜だと思われたのだろう。


 真理愛は居住まいを正して、鍵盤の上に指を置いた。ひんやりとした白い鍵盤は、蝋燭の火のゆらめきに合わせて動いているように見えた。


 息を吸い込み、指先で鍵盤を押す。選んだ曲はショパンの夜想曲ノクターン、さわりのところしか弾けないが、夜の国にはぴったりの音楽だ。


 この国の空には太陽こそないが、天鵞絨ビロードのような深い色の空には常に星が輝き、満ちては欠ける月が昇る。世界を包み込む闇こそが吸血鬼に安息をもたらし、ほのかな光が寄り添い闇をさらに美しく彩る。不安は尽きないし、寂しさも消えない、けれど夜の闇の美の深淵に触れられたのは、この国のおかげだ。


 不意に蝋燭の火が消え、闇が濃くなった。視界の端でクラウディオが火を消したのが見えた。おそらく真理愛が何を考えながらこの曲を弾いているのか読み取ったのだろう。星明りだけが部屋に降り注ぎ、鍵盤の輪郭をなぞる。真理愛は感覚だよりに闇の中に指を差し込んで、弾き続けた。


 夢中になって弾くうちに、体と思考が分離していく。覚えた通りに演奏する体を、冷静な頭が観察し始める。


 ああ、そうか。お父さんとお母さんが私に色々なものを与えながら、与えた全てを中途半端に取り上げた理由が、わかってしまった。元の世界に未練がないように、身軽な体にしてあげたかったんだ。


 演奏が終わって顔を上げると、闇の中でもクラウディオの姿がはっきり見えることに驚く。星の光を跳ね返すその姿は、冬の夜の滑らかな雪のおもてを思い出させた。目の奥の熱さは、その美しい冷気に触れて引いていった。


「夜想曲かな、良い演奏だったね」

「あ、ありがとうございます」


 この人が王子様だったらよかったのに、と真理愛はピアノの蓋を閉めながら思った。もしそうだったら食べられる心配はしなくてよかったし、自分の気持ちに気づかぬふりをしなくてよかった。


 使用人が部屋に入ってきて、食事の支度が整ったと告げた。


「行こうか」


 クラウディオがピアノの上の燭台を取ると、火を灯していないはずなのに蝋燭に火がついた。


「今日からは私と一緒に食事を取ってもらう。マナーを覚えてもらわないといけないからね」

「あ、はい。わかりました。よろしくお願いします」


 目にしたものについて質問したかったが、食堂へ向かうまでの間ずっとクラウディオは呼びに来た使用人と仕事の話をしていたので、結局聞けずじまいだった。


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