正気と狂気の狭間にて
「私との約束を守ってくれたクラウディオさんは、決して無様なんかじゃありませんでした」
真理愛は激しさを増す頭痛に、眉間に皺を寄せた。頭が割れそうなほど痛かった。だが、自分が重要な局面にいることをはっきりと理解している今、それに取り合っている余裕はなかった。
「この国を救う方法は、人間の魂を捧げる以外に、本当にないんですか?」
「ない。あの闇の中で漂っていたときにそれを知った。魂を捧げて伽藍洞の雛は一時的に鎮まる。私は世界の仕組みを知ると同時に、世界の壊し方を理解した。唯一わからないのは私自身の正体だが、今となってはどうでもいいことだ」
話を聞きながら必死にこの状況を打開できないか考える真理愛を、クラウディオがくすりと笑う。
「残念だけど、あなたにできることはとうにないよ。世界の命運を握っているのは私だ」
「……そうやって突き放して、全部自分のせいにするつもりですか。生まれてきたことも生きることも罪だから、世界を壊す罪も自分だけが背負えばいいと思っているんですか。私に何の責任もないなんて、そんなことあり得ない。私一人の命を救うために何万、何十万もの吸血鬼たちが死ぬなんて、そんなことあっていいはずがない。たとえ世界を滅ぼして生き残ったって、そんな罪を背負って生きていくことに耐えられない……!」
声を荒げると、頭痛がひどくなった。真理愛は額に手を当てたが、すこしも痛みを誤魔化せなかった。
「辛いんだね、真理愛。それなら、その苦しみを取り除いてあげるよ」
クラウディオがゆっくりと真理愛に近づいてきた。真理愛はじりじりと後ずさる。
「何するつもりですか?」
「あなたは知らなくていいよ。この会話も、あなたがこの国で過ごした時間も、私と出会ってしまったことも、全部忘れさせてあげよう」
言って、クラウディオが手を伸ばしてきた。真理愛は腹の底から叫んだ。
「やめて! やめて、やめて、そんなことしないで、そんなこと望んでいません。私にそうまでして助けてもらう価値なんてない。だって、私のせいで、クラウディオさんは……」
背中が壁にぶつかり、真理愛は両腕で頭を抱えた。
エヴァルドとの結婚を受け入れたのは自分であることを告白すべきか、回らない頭で必死に考えた。言えば楽になるのは自分だけで、クラウディオを傷つける。だが、言わなければ裏切ったことを隠すことになり、それもまた裏切りであった。
「真理愛」
頭上から降ってきた声が聞き慣れたものに聞こえて、真理愛ははっと顔を上げた。クラウディオの瞳孔に変化はなかったが、彼は以前のように正気に見えた。
「言いたいことがあるなら聞かせてほしい。何があなたを無価値に感じさせるようになったのか、教えて」
真理愛は王都へ旅立つ前に公爵邸で過ごした時の中にいるような錯覚に陥り、喉の奥に熱いものがこみ上げた。あの時は彼との未来を夢に見て、夜の国を救えると信じていた。
「私、殿下との結婚を、自分で選んだんです。私が生きていれば、きっとクラウディオさんは私を助けるために戻ってくると、そう言われて……。ごめんなさい、私、身勝手な考えで、もう一度、会いたくて……」
真理愛は肩を震わせ、堪え切れずしゃくり上げた。流れた涙を拭おうとした手を、クラウディオに掴まれた。冷たい指先の温度で、氷漬けにされていたエヴァルドのことを思い出す。
クラウディオは真理愛の指先に口づけ、それから薬指の付け根に歯を立てた。真理愛は短く悲鳴を上げた。血こそ出なかったが、牙が押し当てられたところに赤い跡が残った。
「あなたの愛を疑ったことはないけれど、あなたと殿下の結婚式を目にするのは堪えたよ。残念ながら私はあなたが思うよりずっと利己的で、あなたを助けるために蘇ったのではない。あなたが私以外のものになるなんて認めないし、他の誰かがあなたに触れるのも不愉快で、あなたが私以外に微笑みかけるのも嫌で、ましてや結婚なんて、許さない。だから死んでも死にきれず、闇の中であなたを想い続けて、再び世界に生まれ落ちた」
燃えるように爛々とする瞳が、真理愛をうっそりと見つめていた。
「殿下には他に何をされた? どこを触れられた? 何度口づけられた? どれほど血を飲まれた? どんな言葉を交わした? 私を盾に取られてどんな要求を飲まされた?」
クラウディオは微笑んだまま真理愛の頬を両手で包み込んで、顔を上げさせた。
「今でも私を愛してくださるのなら、どうか全てを打ち明けて……?」
真理愛は呼吸を忘れて、どこか他人事のようにクラウディオの手の温度を感じていた。最初に音が遠ざかり、他の感覚も次々と遠ざかっていった。暗黒の中で一つの事実を理解する、彼は正気ではないのだと。認めなければならなかった、蘇った彼は以前とは別の存在で、怪物なのだと。
真理愛は頬に涙が伝うのを辛うじて感じ取ったが、心は動かなかった。何かが自分の中でふっつりと切れていた。
膝ががくりと折れて、クラウディオが真理愛の体を抱き止めた。シーっという音がクラウディオの歯の隙間から漏れる。
隙を突いて体の自由を奪う魔法をかけられたと気づいたときには、真理愛はもう指一本も動かせなかった。
「痛いことはしないよ。すぐに終わらせてあげよう」
クラウディオの手が真理愛の黒い髪の中にうずもれて、優しく頭を撫でた。
「静かだね。ようやくすべての吸血鬼たちが眠りに就いたようだ。この世界に二人きりだというのに、喜びよりも悲しみが勝ることに口惜しさを覚えるよ。本当ならば、あなたが元の世界へ帰るときには、たくさんの祝福と共にあってほしかった。世界を救うあなたにはそれが相応しいはずだった。どうしてこんなことになってしまったのだろうね。あなたのこの国を救いたいという気持ちに間違いなどありはしなかったのに。……あなたが元の世界で自由に生きられるよう願っていると、最後に伝えておくよ」
陽だまりのように優しい祈りを口にして、クラウディオは真理愛の額に唇を落とした。それから、思い出を奪い去るための古い言葉を唱え始めた。
真理愛は叫んでいたが、声は出なかった。
自分の間抜けさと、彼を信じ切れなかった自分の弱さを呪った。そして祈った、願った、何かに、おそらく人々が神と呼称する何かに。どうか彼を止めてほしいと切に願った。
不意に呪文が途切れた。
クラウディオが険しい顔で周囲の様子を窺い、真理愛の頭を隠すように抱き寄せた。あたりは相変わらず不気味な静けさに満ちていたが、何かが変わった様子はなかった。
「そこにいるのは誰だ?」
クラウディオは開け放たれていた扉の向こうへ鋭く誰何する。呪文が途切れたときと同じくらい突然に、戸口のところに白い髪の老婆が現れた。老婆は手にした長い杖で床を叩いた。乾いた木の快い音が鳴った。
「ようやく吸血鬼共がいなくなったと思ったら、これは一体どういう状況なんだ?」




