狂った歯車、イカれた天秤
頬にクラウディオの指の背が触れた時、真理愛はびくりと肩を跳ねさせた。だが、怯えていることを悟られてはいけないと、クラウディオの赤い瞳からは目を逸らさなかった。
クラウディオが夜の国の言葉で何かを言ったが、再び同じ口の動きをした時には、真理愛にも彼が何を言ったか聞き取ることができた。
「本物だ……」
クラウディオは一瞬だけ逡巡して、堪え切れなくなったように真理愛を抱きすくめた。強い力だった。息ができないほどの抱擁に、真理愛は教会で抱きしめられたときのことを思い出した。今度は追い返されるまいと、真理愛はこっそりとクラウディオの服を掴んだ。
無言の抱擁の時間は、感動の余韻が引くまで続いた。長い時間の中、真理愛は慎重に息をしながら自分の中で巻き起こる複雑な感情の嵐をどうにか落ち着かせていた。そのせいで、彼に尋ねるべき事柄の優先順位を付けることができなかった。
「どうやってここに?」
クラウディオは真理愛を抱きしめたまま耳元で囁いた。その声は胸が痛くなるほど切ない声色だった。しかし、続く声には、ぞっとするような冷たさが宿っていた。
「誰かがまたあなたを呼び寄せた?」
「違います。自分で裂け目を通って来たんです」
「裂け目……? ああ、あれか。あんなものがあったとは、気が付かなかった」
クラウディオはまるで今まさに裂け目を見ているかのように言った。だが、当然この部屋に裂け目はない。
「クラウディオさん?」
「何でもないよ」
言って、クラウディオは真理愛の首に頬をこすりつけた。そこはちょうどエヴァルドに噛みつかれた場所だったので、真理愛は思わず身を固くした。
「殿下に噛まれたところはもう痛くないかい?」
「全然平気です。私より、クラウディオさんの方が……」
真理愛は言葉を詰まらせた。彼は怪我の具合がどうこうというレベルではなく、確かに剣で刺され、殺された。
クラウディオはすこし体を離し、真理愛の手を取って自らの喉に触れさせた。それから微笑む。
「私も平気だよ。こうして生きている」
傷跡さえもないクラウディオの肌の温かさに、指の下でどくどくと脈打つ頸動脈に、真理愛はぞくりとした。
彼は死んで、蘇った。傷だらけで絶命した状態から、傷一つない体で戻ってきた。それだけではない。彼の瞳孔は猫のような縦長のものに変わっているし、ひと一人から感じるはずがない圧倒的な威圧感を感じさせる。
他の吸血鬼たちも仮死状態で生まれてくるとエヴァルドは言っていたが、それとは一線を画している。
「どうして、どうやって……?」
真理愛はうまく言葉が出てこなかった。だが、クラウディオはその意図を汲み取ってくれた。
「さあ、それは私自身にもよくわからない。ただ、闇の中であなたのことを考えていたら、気付いたら息を吹き返していた」
クラウディオは再び真理愛を抱きしめてきた。それが目を合わせないためだと、真理愛は薄々気づいていた。クラウディオは肝心なことを隠している。彼は先ほどから白夜について言及を避けている。
「他人の家はどうにも落ち着かないね、場所を変えよう」
真理愛は床の材質が変わったことに気が付いて息を呑んだ。頭を動かすと、部屋の様子は様変わりしていた。薄暗くて見えづらかったが、壁紙からしてフォルトゥナ公爵邸の一室のようだった。だが、真理愛が公爵邸に滞在していたときにすべての部屋を見学させてもらったはずなのに、この部屋には見覚えがなかった。
クラウディオは真理愛を落ち着かせるようにそっと背中を撫でてきた。
「ここは公爵邸の離れだよ。私が育った家だ」
真理愛は耳を澄ませたが、ここも異常なほどの静けさに満ちていて、吸血鬼の気配はない。どうか公爵邸のみんなに会えますようにと願いながら街道を下ってきたのに、とっくに手遅れだったのだ。
ああ、とクラウディオがため息交じりに言う。
「どうしてあなたは夜の国に戻ってきてしまったんだ。あのまま全て忘れて生きてほしかった。だけど、それなのに、もう一度あなたに会えて心の底から嬉しいよ。過ちだと理解しているのに、どうしようもなくあなたと離れがたい」
その物言いに真理愛は激しい焦りを覚えた。まるでこれから離れることが決まっているかのようだ。
「私、帰りたくありません。クラウディオさんに会いに来たんです。夜の国がこんな状況になっているのに全部忘れて生きていくなんて、絶対にできません」
言いながら、真理愛は再び裂け目を通ってこちらに来られるかを考えていた。だが、クラウディオがその思考を読んだように言った。
「裂け目はすでに閉じたよ。もう誰も夜の国へ渡ってくることはできない。魔法使いもとうに眠りに就いていて、人間を召喚することは不可能だ。あなたは向こうへ戻れば最後、二度とこちらには来られない」
真理愛はクラウディオの胸を強く押して体を離した。だが、クラウディオの腕はまだ真理愛の背中に回されたままだった。
「……やっぱり、吸血鬼たちを眠らせているのはクラウディオさんなんですね。どうしてこんなことを?」
クラウディオはふっと表情を和らげたが、それは幻のようにかき消えた。縦長の瞳孔が裂けるように広がった。
クラウディオはカーテンが閉められた窓の方へ視線を向ける。
「吸血鬼たちは世界に降り注ぐ光を恐れて外に出られない。吸血鬼たちにとって、世界は白い闇に包まれたようなものだ。だが、これから白夜よりももっと恐ろしいことが起きる。そんなものを目にしながら絶命するよりも、眠りに就いたまま何も知らずにすべてが終わっていく方がましだと思ったんだ」
雪原の頬が、微笑によって緩やかに隆起した。
「ねえ、あなたは私が恐ろしくなった?」
とっさに返事ができなくて、それが答えになってしまった。
クラウディオは真理愛から離れて窓辺へ向かい、カーテンを開け放った。
窓から差し込む光が部屋を照らし、使い込まれた粗末な家具や擦り切れた絨毯がよく見えるようになった。それらは豪奢な壁紙や天井装飾とは調和しておらず、明らかに浮いていた。真理愛は胸がざわつくのを感じた。離れの調度品を揃えたひとは、クラウディオが使うことを知っていてあえてこれらを選んだに違いない。クラウディオはずっとこれらに囲まれて育った、おまえは蔑まれる存在だというメッセージに。
「この国を、吸血鬼たちを、恨んでいるんですか?」
窓の縁に腰を預けたクラウディオの表情は逆光で影に沈み、よく見えなかった。白い髪は光に透けてきらきら煌めく。
「いいや、恨んでなどいないよ。これは復讐ではない。ただの選択の結果に過ぎない。世界を選ぶか、あなたを選ぶかで、私はあなたを選んだ。だから世界を壊すよ」
クラウディオの言葉はさらさらとしていた。そこにはどんな迷いもない。どんな説得も無意味であることは、悲しいくらいに明白だった。
「その後は、どうするんですか。世界を壊して、それで、クラウディオさんは……?」
絞り出した声はかすれていた。叫び過ぎたせいで喉が痛かった。
影に沈むクラウディオの表情が揺らいだのが感じ取れた。だが、それが如何なる感情によって引き起こされたものかは、判断がつかなかった。
「私のことなど気にする必要はないよ。あなたが愛した男は死んだ。あなたを守ることもできず、約束も果たせず、無様に死んだ。ここにいるのは夜の国を滅ぼす白夜の化身、そしてこの国と共に再び死に行く怪物だ」




