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死支度

 アルバーノに肩を揺すぶられて、真理愛(まりあ)は目を覚ました。疲労が取れた気がしなかったが、頭痛はましになっていた。


 車を降りると、空気はひんやりとしていたものの、強い日差しが目を刺した。


 真理愛は木陰に入って別荘を見上げた。別荘は二階建ての洋館で、古めかしいものの青い屋根に白い外壁が鮮やかだった。


 真理愛は別荘の二階の部屋に案内された。その部屋はがらんとしていたが、中央に真理愛の身長ほどの高さのガラスケースが鎮座していた。ガラスケースの中には見覚えのある空間の裂け目があった。しかし、裂け目はクラウディオが見せてくれた門よりもはるかに狭く、向こうがかすかに明るいことしかわからない。


「あれが物をやりとりするためだけに使用しているものです。いつもは裂け目の向こうに闇が覗いているのですが、いつのまにかああして光が差し込むようになっていたと他の吸血鬼から聞き及んでいます。向こうへ手紙も送ったのですが返事は来ていません。向こうとこちらでは時間の流れが一定ではないので確かなことは言えませんが、白夜が来ているなら、もしかしたら……」


 アルバーノは最後まで言わなかったが、言わんとすることは伝わった。もしかしたら誰も生きていないかも、そう思っているのだろう。


「この裂け目は夜の国のどこに繋がっていますか?」

「ずっと開いている代わりに、座標はかなり不安定です。夜の国はこの世界の幻想と現実とのあわいに存在しているため、位置は常に変化しているようなものなのです。古にはその境はもっと広く強固に世界に存在していましたが、人間が世界の闇を払うにつけて境界は縮小し、今は繋がりを維持できていることが奇跡とも言えます」


 アルバーノは鍵を取り出してガラスケースの錠を外した。ガラス戸が開くと、かすかに芳しい夜の匂いを感じた。


「使用する場合には、こちらの星の位置を確認して、送りたい先の座標に合わせるための呪文を唱える必要があります。私は魔法使いではない上に、この世界の残滓のような魔力をかき集める必要がありまして、準備から門も開けるまで一時間くらいかかります。申し訳ありませんが、下で待っていてもらえますか?」


 真理愛はクラウディオがものの十数秒で正確な座標に門を開けた時のことを思い出して気が遠くなりかけたが、すぐに首を振って余計な考えを払い落とした。


「わかりました。お願いします」


 アルバーノが準備を進めている間、真理愛は一階のリビングルームで時間を潰すことにした。


 リビングルームには昼下がりの日差しがたっぷりと差し込んでいた。日差しを受けたチーク材のアンティーク家具がつやめいていて、よく手入れされていることが伺えた。


 真理愛は埃予防のブランケットを外してソファーに腰掛けた。


 もう一度眠ろうかと考えたが、眠気はすっかり引いてしまって難しかった。かといってぼんやりしていることにも耐えられず、仕方がないのでスマホの電源を入れた。起動して通信が復活するや否や、画面が通知で埋め尽くされた。


 真理愛が戻ってきたと町で噂が流たのか、色々な人からメッセージや電話がかかってきていた。通知を眺めながら返事をするかかなりの時間悩んだが、結局一人にだけ電話をかけた。毎晩同じ時間に着信履歴を残していた彼女に。


 一か月という時間は、真理愛がこの世界からいなくなったと人々に認めさせ、忘れさせ始めるには十分だったようで、夜の国へ召喚されて数日以後は連絡の数は減少していたようだった。だが、彼女だけは毎日欠かさず電話をかけてきていた。


「もしもし、真理愛なの?」


 数コールで応答した声は、かすかに震えていたが、凛としていた。いつなんどきも気丈に振舞おうとする彼女らしい声だった。


「うん。ずっと電話できなくて、ごめん」


 どんな反応が返ってくるか、真理愛は沙汰を待つような気持ちで待った。すすり泣く音が聞こえたが、次に聞こえた声は落ち着いていた。


「いつまでもこっちに来ないし、連絡もないから心配してた。今まで何してたの?」

「とにかく連絡できない状態だったの。あの日、栞奈(かんな)の家に行くはずだったのに、何も言えずにいなくなってごめん」


 澪川栞奈(みよかわかんな)。あの日、家を出て行くと決めた日の朝に、唯一連絡をした友人だった。


 彼女は小学四年生の時に真理愛が通う学校に転校してきた。手本のように明るくはきはきと自己紹介をした彼女は、両親の仕事の都合で全国あちこちの学校へ転入していて、それでいて親の都合に振り回される可哀そうな子という印象を全く与えなかった。


 彼女が転校してきた日には、クラスのみんなが珍しい転校生に話しかけていたのに、彼女はなぜか唯一話しかけなかった真理愛と一緒に帰ろうと誘ってきた。真理愛はいずれこの町を出て行くよそ者の栞奈と仲良くするのは大人たちが良い顔をしないのがわかっていたが、誘われたのが嬉しくて、一回だけと自分に言い訳をして彼女と一緒に下校した。それから彼女とは卒業するまで毎日一緒に下校して、長期休みには何度も遊びに出かけた。


 栞奈は転校してきたときと同じように両親の仕事の都合で小学校卒業とともに東京へ転校していった。しかし、真理愛は転校していった栞奈と毎日のように電話したりメッセージを送りあったり、交流を途絶えさせたことはなかった。真理愛にとって栞奈とのつながりは外へ繋がる窓であり、彼女の言葉は窓から吹く快い風だった。


「いつこっちに来るの?」


 そう問いかけながらも、栞奈があまり期待せず聞いているのが声色から理解できた。彼女は勘が鋭すぎるところがあり、周囲の状況を瞬時に把握して誰より早く結論に辿り着いてしまう。すでに完成された人間関係の中に入りづらい転校生の自分と、人の輪から離れて行こうとする真理愛であれば仲良くなれると見抜いたのも彼女の方だった。そして、彼女は真理愛の置かれた複雑な状況を察知しながらも、真理愛が望むようにただの友だちとして扱ってくれた。


「……またどこかに行くの?」


 悲しい声が薄いナイフのように胸にすっと入ってきた。肺がざっくり切られたように声が出なくて、少しの間が空いた。だが、沈黙で答える無礼はしなかった。


「うん、そうなの。だから、私のことをもう待たないで。泊めてくれるって言ってくれたこと、本当に感謝してる。ありがとう」


 真理愛も栞奈に倣って凛とした声で答えた。電話口の向こうで、栞奈が笑った気配がした。


「馬鹿、約束を守るのがあんたの良いところでしょ? いつか絶対こっちに来て、待ってるから。でも、お土産忘れたら許さないから」

「シュークリーム?」

「そ。生クリームじゃなくて、カスタードクリームのね」

「わかった。間違えないようにするね。じゃあ、また連絡する」

「……うん、またね。待ってるからね」


 電話が終わり、真理愛は膝を抱えて、額を膝に押し当てた。胸がじくじくと痛んだ。頭痛と胃痛もぶり返してきていて、体で痛くないところはない始末だった。


 真理愛がもう会えないかもしれないと思っていることまで栞奈は読み取ってしまっただろう。こんなことならお別れを言うべきだったかもしれない。もしくは、二度と会いたくないと思うほど嫌われるような言葉をぶつけるべきだったかもしれない。


 真理愛は再びスマホの画面とにらめっこし始めた。だが、もう一度電話をかける勇気がなかった。次に彼女の声を聞いたら、二度と立ち上がれない気がした。


 画面上では通知が川のように上から下へと流れていく。その中には両親からのものもあったし、告白されて気まずい関係になっているクラスメイトからのものもあった。


 ほとんど途方に暮れていたが、準備を終えたアルバーノが呼びに来たので、真理愛をこの世界に留めようとしてくれる人々からの言葉を見るのをやめることができた。


 裂け目がある部屋へ戻ると、裂け目そのものの様子は変わったように見えなかったが、その周囲には何冊もの本やパソコンが置かれていて、アルバーノが必死で準備してくれたのが見て取れた。


「これから最後の呪文を唱えます。王都のどこかに繋がりますが、繋がる時間は十数秒といったところです。迷わず飛び込んでください」

「わかりました」


 真理愛はキャップを被り、リュックを背負った。かすかに光が漏れている裂け目と向かい合うと、不思議と心が落ち着くのを感じた。


「神父さん、最後に一つ教えてほしいのですが、門をくぐって向こうに行けるのは、人間であれば夜の乙女でなくてもいいんですよね?」


 真理愛は断定的に問うた。アルバーノは面食らった様子だったが、頷いた。


「はい、その通りです。夜の国が滅びに瀕した時、たった一人の人間だけが渡ることができる。それが伝説の魔法使いが夜の国に定めた絶対のルール。ですが、その人間が夜の乙女である必要はないと聞いています」

「じゃあ、私が選ばれたのは、夜の乙女伝承と同じ黒い髪と黒い瞳を持っているからであって、それ以外にないんですね」

「そうです。それが夜の乙女の条件ですから」


 ありがとうございます、と言って、真理愛は裂け目への方へ進み出た。何も考えまいとするのに、感情が激しくかき乱されていく。


 じゃあ、私じゃなくてもよかったんだ。伝説に出てくる女の子と見た目が似ていて、この町に、あの家系に生まれたから、ちょうど夜の国の危機だったから、だから選ばれたにすぎないんだ。本当は人間なら誰だっていいのかもしれない。人間なら誰もが吸血鬼とは違って魂を持っているから、魂を引き換えにすれば夜の国を崩落から救うことができる。白夜にしても、もしかしたら似たような犠牲を払うことができれば、誰にだって止められるものなのかもしれない。


 だが、それでも真理愛は足を止めなかった。自分以外の誰かにこの役目を代わってほしいとは思えなかった。偶然だったとしても、一度選ばれてしまった、救世の方法を知ってしまった。それがどんな悪人であろうとも、余命幾ばくもない人であろうとも、自分の命と引き換えにしてもいいと思えなかった。


 アルバーノが擦り切れた表紙の本を開き、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。裂け目はごくゆっくりと広がっていく。


 出会って間もないクラウディオに投げかけられた問いかけが、耳の奥底から響いてくる。会いたい人、行きたい場所、見たいもの、私の夢、やり残したこと――。


 あの時答えられなかったけれど、今なら全て答えられる。


 両親に会って納得いくまで話がしたいし、栞奈に会いに行きたい、深く関わらないようにしていた友人たちとも本当の友だちになりたい。東京にも行ってみたいし、北欧で白夜も見たい、イタリアの遺跡やドイツのクリスマスマーケットにも行ってみたいし、ピラミッドや広大な砂漠も見てみたい。大学に行って実学を学ぶのではなく、民話や神話の研究をするのが夢だった。それから、王子様のように素敵なひとと結婚することも、本当は心のどこかで諦められていない。でも、やり残したことは向こうの世界にある。


 手を伸ばし、世界の端境に触れた。瞬間、世界の上下が入れ替わった。荒れ狂う風に揉まれるようにあちこちへ引っ張られ押され、目を開けていられなくなった。足が硬い床に触れ、そのまま背中が地面に叩きつけられた。一瞬呼吸ができなくなり、しばらく痛みでに呻いていたが、はっと目を開けると、そこはどこかの建物の中だった。背後を振り返るが、すでにそこに門はなく、ただ壁があるだけだった。


 全身が痛むが、どうやら転移は成功したようだった。だが、喜ぶことはできなかった。


 真理愛は慎重に窓に近づき、そっと外の様子を窺った。空は青白かった。太陽は見当たらないが、人間の真理愛でも眩しく感じるほど明るい。


 窓から離れて目を瞬き、残像を消した。そうしているうちに、違和感を覚えて、その輪郭がはっきりして背筋がぞくりとした。


 真理愛はもう一度窓に近づき、今度は窓を開けて、身を乗り出して周囲の様子を確認した。付近には民家と思しき建物が並び、遠くには王城が見えた。


 この明るさに夜の国の吸血鬼が耐えられないから外に誰もいないのは当然として、いやに静かだ。耳を澄ませても静寂が耳に痛いほどだ。クラウディオに元の世界へ戻される直前は、吸血鬼たちの悲鳴があちこちから上がっていたはずなのに。


 真理愛は窓を閉め、ゆっくりと部屋の外に出た。誰かにばったり会ったらどうしようとは思わなかった。城下町にあるこの家は、それどころか周囲の家からも、ひとの気配が全くしない。


 音を立てないように、慎重に息を吸って吐いた。それでも嫌な予感は消え去らない。ますます恐ろしくなってきて、真理愛は廊下を駆けだした。大きな足音を立てているのに、誰も部屋から出てこない。


 白夜に見舞われた夜の国の吸血鬼たちは、一体どこへ行った?

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