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ふりだしからもう一度

 真理愛まりあがベッドの上で呆然としていた時間は一分にも満たなかった。悲しみ、喜び、絶望、恐怖、様々な感情が胸を去来し、やがてすべてがおさまった。


 ベッドから立ち上がり、自分の状態を確認した。漆黒の婚礼衣装ではなく、夜の国に召喚された日と同じワンピースとローファーを身に着けていた。旅行鞄もベッドの下に落ちていて、中身もほぼ全て揃っていた。持って行ったもので唯一見当たらないのはガーネットの指輪だけだった。


 真理愛は靴を脱いでから部屋の中でぐるぐると歩きながら頭を必死で働かせた。泣きそうになる自分を叱咤して唇を噛む。痛みが、夜の国で起こったすべてが夢ではないと教えてくれる。


 夜の国には白夜――厄災が訪れている。日光にさらされた吸血鬼たちは悲鳴を上げていた、空から降り注ぐ光は彼らにとって毒のようなものなのだ。


 クラウディオだけは、日光を浴びても苦しむ様子はなかった。彼は幽霊ではなく、確かな実体があり、生きていた。


 クラウディオの蘇りと白夜の発生のタイミングは、おそらく符合しているのだろう。認めたくないが、エヴァルドの予言通りになったのだ。


 このままでいいか、このまま何もかも忘れて生きていくのか。いや、よくない。それでいいはずがない。彼が怪物になったのなら、その責任は自分にもある。


 あのさよならを受け入れられない。一緒に見たかった白夜はあんなものじゃない。


 夜の国へ戻らなければいけない、白夜が訪れたあの国へ。


 彼に会って話をしないといけない。何もできないかもしれないけれど、あの国の行く末を自分の目で見届けなければいけない。


 真理愛は今すぐ飛び出していきたい気持ちを抑え込んで、スマホの電源ボタンを押して日時を確認した。


 五月三十日の朝六時二十分。家を出て行こうとした日は四月二十日の夜だったから、一か月以上が経過している。


 夜の国では、少なくとも二か月ほど過ごしたはずだ。


 二つの時間の経過は一致していない。時間のずれの法則性はまるでわからないが、今こうしている間にも夜の国ではもっと早く時間が過ぎ去っている可能性がある。


「どうやって向こうへ戻ればいいんだろう……?」


 真理愛はスマホを握りしめたまま座り込んだ。スマホの画面が暗くなり、尋常ではない数の友人や両親からの電話やメッセージの通知も見えなくなった。


 夜の国への行き方は、急に召喚されるまで知らなかったし、両親も何も知らなかった。だが、こちらから夜の国への門を開けないとは限らない。何事にも抜け道はあるはずだ。そうでなければエヴァルドからの婚約指輪や夜の国の伝承がこんなにうまく後世にまで伝わるはずがない。


 手が痛いくらいスマホを握りしめているうちに、ふと向こうでもらった白い扇子のことを思い出した。口元を隠すためにもらったのに、不慣れなせいで膝の上でお守りみたいに持ってばかりいた。


 クラウディオがくれたあの白く美しい扇子は、今は手元にないが、よく観察していたから細かいところまで思い出せる。あのきらめく装飾は夜光貝でできていた。夜光貝は、どこで採れるものだろう?


 スマホで調べるとすぐに答えが出た。夜光貝は海に生息する巻貝で、日本では屋久島以南でしか採れない。


 夜の国に海はない。夜光貝は、古の吸血鬼たちが夜の国へ渡るときに持ち込まれた可能性はあるが、それ以後に持ち込まれた可能性も大いにあるはずだ。情報だけでなく、物の行き来があった可能性は排除できない。


 真理愛は取るべき行動についてしばらく考えたが、決断するや否やすぐに立ち上がった。


 ウォークインクローゼットの扉を開け放ち、動きやすい服を選んで着替え、髪を後ろで一つに結った。鏡に映る自分は相変わらず青ざめた顔をしていたが、黒い目には光があった。


 リュックの中に動きやすい服や下着類を入れて、部屋を出た。立ち上がってから部屋を出るまで、真理愛はなるべく何も考えないようにしていた。そうでもしないと手が止まりそうだった。夜の国に戻ってきた真理愛を見たクラウディオがどんな反応をするか、考えてしまったら最後、動けなくなる。


 扉を開けた音がしたせいか、一階から両親の戸惑いの声が聞こえてきた。真理愛が一階へ降りると、両親が唖然とした顔でこちらを見ていた。真理愛は一瞬だけ息が詰まった。


「おはよう。心配かけたみたいでごめん、また行ってくる」


 真理愛はどうにかそれだけ言って、両親の横を通り抜けてキッチンへ行った。水のペットボトルと携帯食料をリュックに詰め、念のため昔キャンプで使ったナイフも入れた。


 すたすたと玄関へ向かう真理愛の後ろを、狼狽している両親がついてきた。どこへ行っていたのか、家出なのか、夜の国に行っていたのか、いつもどってきたのか、どうして戻ってきたのか。矢継ぎ早にあれこれと質問されたが、答えている時間はなかった。


 一番履き慣れているスニーカーを選んで履き、靴ひもをしっかりと結んだ。立ち上がった真理愛の肩を、後ろから母が掴んだ。


「真理愛、いままでどこに居たの?」

「御伽噺の国だよ」


 後ろを振り返らず言って、真理愛はキャップを目深に被った。


「行ってきます」

「待ちなさい、真理愛!」


 真理愛は母の手を振りほどき、制止の声に応えることなく、扉を開けて家を出た。


 早足で歩くが、後ろで両親が真理愛の名前を大声で呼んでいるのが聞こえてきて、振り切るように走り出した。胸が締め付けられたが、差し迫った問題があるから仕方がないと自分に言い聞かせた。


 元からいつかいなくなると思われていた娘だ。二回も姿を消したって何が違うんだろう。あの二人は悲しみもしないし、探しに行くこともしないはずだ。


 目の奥や喉が痛いのは、走っているせいだと思うことにした。一階に降りた時に見た両親のほっとしたような心配そうな顔が脳裏にちらついても、足を止めずに前に出した。


 真理愛は町の教会に着くと、裏手にある神父の家に行って呼び鈴を鳴らした。ほどなくしてスピーカーから声が聞こえた。


「はい、どちら様でしょう」

「暁真理愛です、神父さん、今すぐ話をさせてください」


 通話状態が切れると、すぐに玄関扉が開いてアルバーノ神父が出てきた。まだ朝早いというのに、彼はすっかり身支度を整えていた。


 神父は真理愛の姿を認めて仰天していた。


「真理愛さん、どうしてここに? 夜の国へ招かれたのでは?」

「神父さん。あなた、本当は吸血鬼ですね?」


 真理愛は申し訳ないと思いつつ、質問を無視して本題に入った。アルバーノは明らかに動揺した。


 思った通りだ。夜の国の吸血鬼の話し方にはどこか見覚えがあると思っていた。牙を他人に見せないように口をなるべく開けずに喋る方法は、アルバーノの癖だと思っていたものと全く同じだ。


 それに、イタリア人と日本人の両親を持ち、イタリア人の父親譲りだと言っていた薄い色の瞳も、夜の国の吸血鬼の瞳の特徴と酷似している。


「私、もう一度夜の国に行きたいんです。どうか手を貸してください」


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