死という名の通過儀礼
エヴァルドの私室は宮殿の二階にあり、バルコニーからは端正に整えられた庭を望むことができた。
室内は、宮殿の煌びやかさが嘘のように、非常に落ち着いた雰囲気だった。深い色の木や布を使用した調度が多く、穏やかな闇の静謐に似ていた。
真理愛はエヴァルドと二人きりだった。しかし、その耳にはどんな声も届かなかった。心は硬い殻に閉じこもり、外界からの刺激の全てを拒絶していた。
「クラウディオは本当に死んだと思っている?」
その言葉が耳に入ってきて、真理愛はようやく外界に意識を向けた。恐ろしく座り心地の良いソファーの隅に自分がいることを知った。それから、真横にエヴァルドが座っていて、真理愛の後ろの背もたれに腕を回していることも。どうやって大司教邸からこの部屋に来たのかはまったく記憶がなかった。
真理愛は動き出した頭で、耳に入ってきた言葉の意味を咀嚼した。しかし、どれだけ考えても理解できなかった。
「何を言ってるんですか?」
声を出した途端、急激に怒りが湧いてくるのを感じた。エヴァルドへの本能的な恐怖を凌駕するほどに、真理愛は怒りを覚えていた。
「ようやく意識がはっきりしてきたかな。よかったよ、さっきの状態のままだったら魂が抜き取れたのか確認できないところだった」
真理愛はエヴァルドの頬を引っぱたいた。エヴァルドは、一瞬目を見開いたあと、苦笑した。飼い猫に引っかかれて痛みよりも結局可愛さが勝ったような、そんな笑みだった。
「ふざけないで、自分の手でクラウディオさんを殺しておいて、そんな戯言を吐くなんて、信じられない」
「俺は少しもふざけていないよ。真理愛、俺はね、奴があの闇から舞い戻ってくるんじゃないかと考えているんだ」
「……何を、馬鹿なことを。殺したのは、地獄の門に投げ入れたのは、あなたでしょう。死んだひとが蘇るなんてあり得ない」
真理愛は目の奥が熱くなるのを感じた。分かり切ったことを口にしただけなのに、自分で自分にナイフを刺したように痛かった。
「奴は普通の吸血鬼じゃない。白夜公と呼ばれる不吉な存在であり、滅びそのものだ。殺して闇に葬った程度で死ぬとは考えにくいとは思わない?」
真理愛は目の前の男をじっと観察した。エヴァルドの言葉の真意を知りたかった。真理愛を惑わすために並べた嘘ではないかと思ったからだ。だが、エヴァルドはほとんど初めて真剣な顔を真理愛に向けていた。
「君に一つ尋ねたい。夜の国の吸血鬼は、君の世界で知られている吸血鬼と同じものかな?」
真理愛は無視することも考えたが、この国の吸血鬼に対して抱いていた違和感が頭をもたげるのを感じ、答えることにした。
「……違います。この世界の吸血鬼は、血を吸い、光を苦手としていますが、まるで一つの種族のようです。私が生まれ育った世界では、吸血鬼は一度死んで蘇った元人間だと伝えられていました」
「その通りだ。この国の吸血鬼は、元の世界から渡ってきた古き者を別として、死した人間が蘇った存在ではない。何故ならこの世界に満ちる力が吸血鬼たちを変質させ、吸血鬼たちも望んだ通りに生きられるよう変質を受け入れたからだ。その結果、吸血鬼同士で子を設けることが可能になった。しかし、変質した結果、吸血鬼の子どもは産声を上げずに生まれてくるようになった。蘇生処置を施すことで子どもは息を吹き返すが、吸血鬼にとって死が宿命として刻まれていることに変わりはなかった。
だが、クラウディオの母親のロゼッタは、クラウディオが生まれた時に産声を上げ、蘇生処置を必要としなかったと証言している。つまり、奴はこの世界で生まれた吸血鬼でありながらも、死を経ることなく生きていた異常な存在だ。
俺もまた普通の吸血鬼ではない。吸血鬼と人間との間の子――君たちの世界で呼ぶところの半吸血鬼であり、死んで蘇った吸血鬼でもある。奴の中身が異質だと気づいたのも、普通の吸血鬼より鋭い感覚のおかげだ」
エヴァルドは不意ににこっと笑った。
「ああ、瞳に光が戻ったね」
真理愛はもう一度引っぱたいてやりたくなったが、すぐにやる気が失せた。クラウディオの強烈な蹴りを喰らっても死ななかった男を、非力な真理愛が叩いたところで痛くも痒くもないだろう。
「言いたいことがよくわかりません。クラウディオさんは一体何者なんですか?」
「わからないから暴いてやろうとして、殺してしまった。あそこまでやっても化けの皮が剥がれないとは思いもしなかったな」
「ひとの命を何だと思ってるの? あなたの目的は何?」
「……俺は千三百年ほど生きていて、いつ死ぬかも全くわからない。そんな俺の敵とは何だと思う?」
真理愛は答えなかった。質問に質問で返されるのは苦手だったし、何よりエヴァルドは答えを求めていなかった。
「退屈だよ。百年も生きていない君には信じがたいと思うけど、生まれてこの方味わってきた苦痛の中で最も強力なのは退屈という名の精神の飢えであり、生きている限り離れられない己の一部でもあるんだ。それはまるで……、いや、やめておこう。元より短命の君に話したところで理解できるはずもない。人間に退屈という虚無の本質の一端にでも触れられるはずがないのだから」
真理愛はごくりと唾を飲み込んだ。目の前にいる男は、一瞬のうちに別人になったのではと思うほどに、暗黒よりもなお暗い苦悩の色を全身にまとっていた。それが底の無い暗黒であることは理解できた。千三百年という時を生きた存在を、真理愛は彼の他には樹木しか知らないし、その暗黒の中に在るものはとても推し量れるものではなかった。
「だから奴が生まれてきた時には嬉しかったよ。何しろ俺でも奴の正体は予想がつかなかった。もっとも、あまり深く考察してはいない。頭の中で思索にふけって答えに至ってしまうと、現実という薄い味わいに耐えられなくなるし、驚きという貴重な感情を得られなくなるからね」
「退屈しのぎにひとを殺して、それで彼が蘇ってくると信じているなんて、頭がおかしいとしか思えない」
真理愛は吐き捨てるように言った。だが、エヴァルドは微笑んだ。真理愛はぞわりとした。その笑顔は、思った通りにことが進んだことを喜んだものだったからだ。
「君なら信じてくれると思ったよ。奴は君を想っていた、死の間際まで、ずっとね。奴が戻ってくるとしたら、君のためだとしか考えられない。ねえ、真理愛、俺と君の利害は一致すると思わないか? 俺は奴の正体が知りたいし、君は奴と会いたい。そのために、君にはあと数日で構わないから生きていてほしいんだ。君は、今はまだ体も魂も無事だが、あと数日もすれば魂のない抜け殻になる。奴はきっとそれを阻止しにやってくるよ」
荒唐無稽な話だと思った。吸血鬼が仮死状態で生まれてくるという話も、真実かどうか確かめようがない。エヴァルドの直感だけが根拠の、法螺話もいいところだ。
「そのために、彼を殺したあなたなんかと手を組めっていうの?」
真理愛は自分の声から怒りが消えて、弱々しくなっているのを嫌というほど感じていた。
そうさ、とエヴァルドは真理愛の耳に顔を寄せて、掠れた甘い声で囁いた。
「俺と一緒に奴の逆鱗に触れよう」
真理愛は唇を噛んだ。力が強すぎて皮膚が裂け、口の中に血の味が広がった。
鈍のような歯だと言われたことや、鋭い牙が指を刺した痛みを思い出した。だが、その思い出も以前より色褪せているのがわかった。痛みの輪郭はぼやけ、熱っぽい声も忘れかけている。思い出そうと焦るほどに、その形は闇の中に溶けていってしまう。
「君にこれをあげよう」
エヴァルドは真理愛に手渡したのは、特別礼拝堂の鍵だった。それはひんやりとしていて、ずしりと重かった。
「月が昇るまでに考えるといい。地獄の門に身を投げるか、あるいは生きて奴が戻ってくるのを待つか。二つに一つだ」
「……この悪魔」
エヴァルドは立ち上がり、涙をこらえている真理愛を見下ろした。
「おやすみ、真理愛」
真理愛は無言で特別礼拝堂の鍵を見つめていた。命がけで手に入れようとしたものがこうして手に入ったのに、高揚感はまったくなく、それどころかこの重みに負けて全身が地面に沈んでいくような心地がした。
不意に視界に影が落ちて、見上げたところで唇を奪われた。舌が真理愛の唇の血を舐めとり、真理愛はかっとなってエヴァルドを引っぱたこうとしたが、あっさりと避けられた。
「また明日。君の花嫁姿を見るのが楽しみだよ」
確定事項のように言って、エヴァルドは部屋を出ていった。取り残された真理愛は、袖で唇をごしごし拭いて、それから溢れ始めた涙も拭った。
魂を抜かれるまで生きるなら、エヴァルドと結婚することになる。式の準備は残念ながら滞りなく進んでいるし、夜の国に閉塞感を感じている民に対して安心を与えるためのパフォーマンスとしてまたとない機会だからだ。だが、それは真理愛にとって屈辱であり、クラウディオへの裏切りを意味した。
ぽたり、ぽたり、と鍵に涙が落ちた。拭っても拭っても、生きて悲しみと共にある限り、この涙とも離れられない。
クラウディオは、私のせいで死んだ。私が足手まといだったから、死んでしまった。彼一人だったら生きていたはずだ。彼は誰よりも強かったのだから。
もう会えない。二度と手を繋ぐこともできない。白夜を見に行く約束も果たせなくなってしまった。未来にあった彼の居場所は空っぽで、それは他の誰にも埋められない。
会いたい、もう一度会いたい。受け入れられない過去も消えてしまった未来も否定して、会いに来てほしい。
たとえ世の理を曲げてでも、吸血鬼でなくなったとしても。
そのためなら、私は――




