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何もかもがその手中に在り

 真理愛まりあはディーノと共に大司教邸へと向かう途中でも、片時も気を抜かず、ナイフを固く握りしめていた。


 ディーノはクラウディオに圧倒されていたとはいえ、あの身のこなしは相当に訓練されたものだったので、護身術も身に着けたことがない真理愛との力の差は歴然だ。一瞬の隙をついて真理愛からナイフを奪うなど極めて容易に違いなかった。


 そんな真理愛の心配をよそに、ディーノは真理愛からナイフを奪ったり、誰かに助けを求めたりしなかった。すべてを諦めたかのように無気力にとぼとぼ歩いていて、ろくに真理愛の方を見ることさえしなかった。


 大司教邸への道すがら、遠目に特別礼拝堂の様子が確認できた。


「火事があったとは思えないですね」


 真理愛は他人事のように言った。


 特別礼拝堂は、外から見た分にはほぼ無傷に見えた。特徴的なフライングバットレスも、相変わらず堅牢な骨のように建物を支えていた。


 夜の国では火を頻繁に使うので火事が多く、消火のための貯水池があちこちに作られているので、真理愛が気絶した後すぐに消火されてしまったのかもしれない。


「建物は石なので燃えてませんが、中は煤だらけですよ」


 おかげさまで、とディーノは小声で付け加えるのを忘れなかった。真理愛は無視した、全部燃えればよかったのにとは思っても口に出さなかった。


 大司教邸に着くと、二人は外から建物の様子を観察した。一階のいくつかの部屋の窓からかすかに光が漏れているので、中に人が居るのは明らかだった。


 扉の前に来ると、ディーノは深呼吸し始めた。それから、しばらく考え事をするそぶりを見せて、真理愛に言った。


「どうにか大司教様を言いくるめますが、あなた様は黙っていてくださいね。あと、ナイフは隠しておいてください」


 真理愛が頷いてナイフを後ろ手に隠すと、ディーノはもう一度だけ深呼吸をして、大司教邸のドアをノックした。


 しばらく待つと、中からひとの足音が聞こえてきた。ドアが開き、年若い男が出てきた。質素な服を着ていたが、その意匠はあの日に会った聖職者たちの着ていた華美な服と似通っていたので、彼もまたこの教会に勤めているのだと分かった。


 男はディーノの姿を認めると、扉を開け放ち、自らは脇に退いた。


「マリア様、ディーノ様、お待ちしておりました」

「……何だって?」


 ディーノの素っ頓狂な声に、男は困惑した様子を見せた。


「今夜はお二人とお約束があると伺っておりますが、何を驚かれているんですか?」

「いや、約束はしてないんですが……」


 ディーノはもの問いたげに真理愛の方を振り返ってきたが、真理愛は首を振った。あの日会った聖職者たちの名前も知らないし、今日まで自室から出ることもなかったのに、この不可解な状況の原因を知っているはずがなかった。


「ええと、何だかわかりませんが、とりあえず俺たちは大司教様に会えるんですか?」

「はい。中でお待ちですよ。お二人とも、どうぞお入りください」


 真理愛とディーノは狐につままれたような顔で大司教邸へと足を踏み入れた。


 大司教邸は、あらゆる調度が王宮ほどではないが派手派手しく、薄暗いのに目がちかちかした。


 しばらく廊下を進み、真理愛とディーノは居間へ案内された。部屋に入るなり、二人は驚きに固まった。


「やあ、そろそろ会えると思ってたよ、真理愛」


 部屋に居たのは大司教だけでなかった。大司教邸の主人のようにソファーで寛いでいるのは、見間違えようもなくエヴァルドだった。


 エヴァルドは真理愛へおよそ完璧な微笑を向けてきた。真理愛はその場に凍り付いたように動けず、呼吸もできなくなった。その脳裏には、特別礼拝堂での出来事が洪水のように溢れかえっていた。


 先に我に返ったのはディーノだった。彼は震える声で言った。


「殿下、どうしてここにいらっしゃるんですか?」

「同じことを言わせるな。真理愛に会いにいけないから、会いに来てもらおうと思ってね。今夜じゃないかとあたりを付けたんだけど、予想通りでよかった」


 真理愛はディーノと顔を見合わせた。互いに疑っていたのは一瞬のことで、どちらも何も知らなかったと気づくまでそう時間はかからなかった。


「君の目的はこれだろう?」


 エヴァルドは脇に控えていた大司教から、手のひらほどの大きさの鍵を受け取って、真理愛によく見えるように掲げた。それは特別礼拝堂の扉の鍵だった。


 真理愛は視界がぐらりと揺れるのを感じた。歪む視界の中で微笑んでいるエヴァルドは、それでもなお美しく、真理愛は気が狂いそうだった。


 エヴァルドは鍵を大司教へ返すと、立ち上がってゆっくりと真理愛へと近づいてきた。ディーノは真っ青な顔で脇へ退いた。


 真理愛は自分の肩にエヴァルドの手が置かれたのを、他人事のように感じていた。触れられているという現実が受け入れられなかった。


「君に会えて嬉しいよ」


 エヴァルドは真理愛の顎に指を添えて上を向かせ、大きな目をゆっくりと閉じていった。真理愛は瞼を動かすこともできなかったので、エヴァルドの顔が視界に映り切らないほど近づくのを目撃することになった。視界が滲んで、涙が落ちて元に戻っても、まだエヴァルドの顔はすぐそばにあった。真理愛の痛苦を間近で見つめる紫色の瞳の奥には、紛れもなく愉悦があった。


「話をしよう、また二人きりで」


 白々しい甘い言葉ばかりを囁く唇は、今度は緩やかな弧を描いた。真理愛の手からナイフが滑り落ちていった。


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