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唯一価値あるものを賭して

 涙が枯れ果てたのが、あれから何日後なのか真理愛まりあにはわからなかった。悲しみはすでに頭の中だけに存在するものではなく、体の隅々にいたるまで偏在していて、この喪失感とは二度と離れられない気がした。


 エヴァルドの側近――ディーノは真理愛を監視し、定期的に食事と着替えを持ってきた。もっとも、ディーノは監視とは名ばかりに、真理愛を居ないも同然に扱い、仕事したり休憩したり、ほとんど自分の部屋に居る時のように過ごしていた。


 その間にも、ディーノの言った通り、エヴァルドは訪ねてこなかった。真理愛にとってそれは却って不気味に感じられた。


「マリア様は死んでも会いたくなさそうですって殿下とお会いする度に伝えてますので、式の直前まで会いにいらっしゃらないですよ」


 ディーノは仕事をしながら食事をしつつ、真理愛の質問に答えた。


「じゃあ、エヴァルド王子は私に会いたがってるんですか?」

「ええ、そりゃね。どんなひどい顔してるか見たいってにこにこ笑ってましたよ。長生きし過ぎて性根が腐ってるんでしょう。ま、気力を失ってないあなた様のそのお顔を見せたら、さぞ殿下をがっかりさせられると思いますがね」


 真理愛は自分の顔に触れてみた。この顔のどこに気力があるように見えるのか、さっぱりわからなかった。


「どうして私の利益になるようなことを? ディーノさんはエヴァルド王子の側近ですよね?」


 ディーノは書き物を中断したが、もう片方の手にあるサンドイッチを皿に置くことはしなかった。


「あなた様を式の日までお守りせよというのが殿下のご命令で、殿下のお会いしたいというお気持ちよりも優先されるものです。それに、殿下とあなた様が式までに会おうが会うまいが、式の進行や救世の儀に影響はないので、俺の仕事に影響しません。それよりも、フォルトゥナ公爵を裁判にもかけず勝手に殺したことと特別礼拝堂の火事の件で、式の前からあっちこっちから話を聞かせろと呼び出されていて、殿下は忙しいんです」


 真理愛がじとっとした目でディーノを見つめると、ディーノは頭をがしがしと掻いた。


「変な勘繰りははやめてくださいよ。数十年生きる気だった人があと数日で亡くなるのがわかってるのに、これ以上非道をしたくないなあと思ってるだけです。今際いまわの際に俺を呪わないでくださいね、恨むなら殿下だけにしてください」


 自らの主人を擁護する気さえもない、あまりにも淡白なディーノの態度に、さすがに閉口させられた。彼と話をしていると、何もかもが夢だったのではないかと疑う気持ちさえ芽生えた。


「マリア様が会いたいと仰るならお呼びいたしますが、いかがされます?」

「会いたくないです。結構です」

「ですよね。あと二日すれば嫌でも会わないとですが、それまでは止めておきますよ」


 話が終わり、ディーノは書きものを再開しようとしたが、真理愛が部屋を出て行こうとするので、サンドイッチを口に詰め込んで立ち上がった。


「外へ行かれるならご一緒します。もう月も沈んでいる、女性が一人で外出する時間じゃありません」


 星の時の王宮内は、とても静かだった。ディーノが持つ燭台の光が濃い闇を払いのけていたが、遠くを見通すことはできなかった。


 初めて王宮に来た時に圧倒された豪奢な空間には、今はもう心を動かされることはなく、虚飾に過ぎないと冷めた目で見るようになっていた。


「台所まで案内してください」

「お腹空いたんですか? 誰かに持ってこさせたのに」

「散歩もしたかったのでお構いなく」


 台所へ行くと、明日の仕込みをしている料理人たちがいた。真理愛を見て驚いた様子を見せたものの、すぐ仕事を再開した。


「ちょっとそこの人、何か食べるものが欲しいんですが……」


 ディーノが料理人の一人を呼び止めて話している間、真理愛は台所の中を勝手に進んだ。


 洗い場の脇に、綺麗になった食器や調理道具が並んでいた。真理愛はそのうちの一つの手ごろな果物ナイフを手に取った。銀色のナイフは鈍く光っていて、切れ味がよさそうだった。


「マリア様、甘いものとしょっぱいものどっちがいいですか? 甘いものだとぶどうが……」


 ディーノは振り向いた真理愛の手にあるものを見て動きを止めた。真理愛はディーノにナイフがよく見えるよう、自分の首に突き付けた。料理人たちも何が起こっているか理解し始めると、動きを止め固唾を飲んで成り行きを見守った。


「ディーノさん、これから私の言う事を聞いてもらえますか?」

「さもないと死にますって? 冗談よしてくれよ……」


 ディーノは大粒のぶどうを乗せた皿を料理人に突き返し、両手を上げた。


「わかりました。何でもしますから、ナイフを下ろしてください」


 真理愛は自分の首にナイフを突きつけたままディーノの方へ歩いた。ディーノはゆっくりと後退し、そのまま台所を出て、壁に背中を付ける。真理愛は台所の扉を後ろ手で閉めた。廊下には誰もいなかった。これで二人きりだ。


 壁にぴったりと背中を張り付けているディーノの額には汗が滲んでいた。


「俺に何をさせようって言うんです?」

「特別礼拝堂の中に入りたいんです」


 ごくりとディーノが唾を飲んだ。とうとう額から汗が一筋流れ落ちた。


 真理愛はその様を冷静に観察している自分に気が付いた。同時に、何も感じていない自分の存在にも気が付いていた。


「マリア様もご覧になったでしょう、あそこは鍵がないと入れませんよ」

「なら、鍵を持って来てください」

「あの鍵は大司教邸で保管されているもので、貸してほしいって言ったらすぐ借りられるものではないです」

「そうですか。うまくやってください。さもないと、私は死にます」


 ディーノはしばらく考えていたが、やがてゆっくりと頷いた。


「承知いたしました。では大司教邸に向かいましょう。大司教様は結構な年齢なんで、寝てたらまた明日でもいいですか?」


 ナイフの切っ先が真理愛の肌に食い込んで血が一筋流れると、ディーノはその表情からふざけたものを消した。彼の顔は血の気が引いて真っ白になっていた。


「盗んででも取ってこいってことですよね、善処します」


 話がまとまると、大司教邸へ向かった。


 悄然とした顔のディーノの横を歩くのは、部屋に籠っていた時よりもずっと有意義な時間だった。


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