開かれた牢獄の中で
どんな闇の中であっても、彼の周りだけはいつもぼんやりと明るく見えた。その様は雪明りに似ていた。紙をめくる音も、ペンを走らせる音も、彼が立てると消えていくように感じられた。
じっと見つめていると、ふと彼が顔を上げて微笑んだ。
二十歳にして公爵の地位にあり、常に威厳ある彼も、照れ笑いをするときだけは年相応の表情を見せてくれた。その顔が見たくて、真理愛はよく用もないのに彼を見つめていた。
どうしたのと言った彼の声が聞こえなかった。蝋燭の火が消えて、質量ある闇が迫ってきた。闇は真理愛の叫び声を飲み込んだ。それでも手を伸ばして、柔らかい何かを掴んだ。
真理愛が目を覚ますと、知らないベッドで寝ていた。体が怠くてこのまま瞼を閉じてしまいたかったが、シーツの手触りや匂いに違和感を覚えて、徐々に眠気が消えていった。
ベッドの脇に、舟を漕いでいる男が居ることに気づき、身を固くする。椅子に座ったまま眠っている男は、あの時特別礼拝堂にいたエヴァルドの従者だった
真理愛の頭の中に雪崩のように記憶が蘇る。激しい頭痛と胸の痛みを覚え、耳鳴りもした。全ては夢だったと処理するには、痛みが強すぎた。いるはずのひとがいない喪失感が、あの闇のように胸の中から消えない。
両手で顔を覆い、自分のための闇を作った。手のひらの、瞼の裏の、弱い闇が辛うじて真理愛の正気を保たせてくれた。
逃げなきゃ。
とっさにそう思ったが、次の瞬間には脱力感に襲われていた。
この世界のどこにも逃げ場などない。真理愛を元の世界へ帰してくれるはずだったクラウディオは、いないのだ。
「ん……。起きました?」
目を覚ましたエヴァルドの従者が、間延びした声で言った。真理愛はベッドの上で体を硬直させた。
「首の傷の具合はどうですか。処置はしましたが、痛むようなら痛み止めを……」
「要りません」
ぴしゃりと真理愛は言った。クラウディオを卑劣なやり方で殺した男の部下からは、何一つ受け取りたくなかった。
「そうですか」
男は肩をすくめはしたが、真理愛に何かする様子はなかった。やる気というものがこの男からは感じられなかった。
真理愛は男から視線を離さないまま、重い体を引きずるようにベッドから這い出て、裸足のまま扉の方へ歩いて行った。逃げ場がないとしても、ここに居るべきではない。
「逃げるんですか? 俺はおすすめしないですね」
止める気がなさそうな調子で男は言った。実際、男は真理愛がドアノブに手をかけていても、椅子に座ったまま動きもしない。その投げやりな態度に、真理愛は猛烈に嫌な予感がしてきた。
「どうして止めないの、そのために居るんじゃないの?」
「勘弁してください、こっちは全身痛くて一歩も動きたくないんですよ。手加減されていたとはいえ、白夜公にぼこぼこにされたんで」
言って、男は鳩尾のあたりを撫でさすった。クラウディオにナイフの柄で思い切り打たれた場所だ。
「俺はあなた様に危害を加えることはありません。外の見張りも同じですから、ひょっとしたら普通に王宮の外に出られるかもしれません」
真理愛は混乱した。だったら何のために助けられたのだろう?
でも、と男は言葉を継いだ。
「あなた様以外の誰かは無事では済まないと思います。あなた様と交流があった、たとえばフォルトゥナ公爵に仕えていた方々とか」
真理愛は血の気が引いた。
フォルトゥナ公爵邸のひとびとの顔が、頭に浮かんでは闇に消えた。躊躇いなくひとを殺せる男が、どれほど残酷な行いができるか想像もできない。もう誰かが傷つくのを見るのは耐えられない。
「数日後には式がありますから、それまでに自分の意思で帰って来ざるを得ないようにする御方ですよ、殿下は」
「式……?」
「結婚式です、殿下とあなた様の」
真理愛は視界が徐々に暗くなっていくのを感じた。貧血だと気づいた時には、その場にしゃがみこんでいた。そうなってようやく男がそばに近寄ってきた。男の手を押しのけたかったが、視界がノイズだらけでよく見えず、まるで体に力が入らなかった。
「落ち着いてください。貧血を起こしてる、一度横になった方がいい」
男は真理愛の体に腕を回して抱き上げると、再びベッドに寝かせた。真理愛は不明瞭な視界の中で男を探し、睨みつけた。
「わ、たしを、殺そうとしたくせに……」
「殿下の命令だっただけで、俺自身はあなた様に害意はありません、この通りね。そもそも本当に殺したら世界の崩落を止める手立てがなくなってしまいます」
男は赤い髪をがしがしと掻いた。
「俺がこの部屋に居るのが不快だと仰るなら消えたいですが、他の者が監視に来るだけです。ま、側近の俺がいた方が、殿下がこのお部屋に寄り付かないのでおすすめです」
「どういうこと?」
真理愛は強い口調で言った。先ほどからずっと暖簾に腕押し状態で、真理愛はいらいらしていた。
「他の者より信頼されている側近だから、俺が自分の目で見たものを正直に報告すれば、殿下もご安心されて、わざわざ足を運ぶ必要がなくなるということです」
男はベッドサイドにある水差しを取り、コップに注いで飲んだ。どう見てもそれは真理愛のために用意されているものだったが、男はまるで気にする様子がない。
真理愛の冷ややかな目を受けて、男はコップを戻した。
「側近のくせに、不忠な臣下でがっかりって感じですかね。期待を裏切ってすみませんね。俺は忠誠心なんて持ち合わせていない、仕事は仕事と割り切るタイプなんです」
男は失礼しますと言って真理愛の下瞼を確認した。
「真っ白ですね。いずれにせよ肉体的にも精神的にもダメージを受けているんですから、休まれた方がいい。何か召し上がるなら用意させますよ」
「何もいりません、出て行って、一人にして」
「承知いたしました」
真理愛が布団を引き被ると、男は大きくため息を吐いた。うんざりしていることを思い知らせたいがためにそうしたように。
「何がそんなに悲しいんだか。最初からこうなると分かっていたでしょうに。殿下に逆らったらただでは済まない、当然でしょう? あ、言い忘れていましたが、逃げ出すなら俺が勤務中にしてください。業務時間外に呼び戻されるのが最も苦痛なので」
男が出て行くと、真理愛の目からは堰を切ったように涙があふれ出した。拭う気力もなく、流れた涙は枕やシーツに染み込んでいく。
今後のことを考えることは、とてもできなかった。全て何もかもがどうでもよく思えた。
悲しみが繭となって全身を包み込み、その中で全身がどろどろに溶けているような心地がした。このまま別の生き物になって、全て投げ出して、やり直したかった。だが、どれほど時が経っても真理愛は真理愛のままだった。自分自身であることから逃げることはできず、鍵の開いた牢獄から出て行くこともできなかった。




