夜の国の御伽噺
男はゆっくりと真理愛の方へ近づいてきて、躊躇いがちに手を差し出した。大きくて真っ白な手は、触れたら溶ける雪を思わせた。
「ひとまず私の屋敷へ行こう。足元が悪いから、よければお手をどうぞ。もちろんあなたが嫌でなければ、だが……」
男はやけに自信なさげに言った。
断ると男をひどく傷つけそうな気がして、真理愛は手を借りることにした。男は慎重すぎるほどに柔らかく握り返してきた。触れた肌は温かかった。
男の顔を見上げると、その瞳は揺れていた。彼は戸惑っているのだと理解するのにしばらくかかり、その間ずっと見つめ合っていた。
「あ、あの……?」
「すまない、気にしないでくれ。あなたが私を怖がらないから……」
何でもない、と男は話を切り上げて、暗い森を歩き出した。
しばらく歩いてから、真理愛は男の手を取った自分の判断が正しかったと知った。ランタンで足元が照らされていても、ぬかるみや出っ張った木の根、大小様々な石が歩行を難しくしていた。
注意深く歩きながらも、時々男の横顔を盗み見た。王子だと知らずに出会ったら、雪の妖精だと思っただろう。
年齢は真理愛とそう変わらなさそうに見えてほっとする。御伽噺の中に出てくる夜の乙女と王子は、かなり年齢差がありそうだったから心配していたのだ。
周囲の木々がまばらになってくると、足元の地面もしっかりし始めた。そうなってようやく真理愛は口を開く余裕を得た。
「私は暁真理愛と言います。あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「自己紹介ありがとう。私はクラウディオ・フォルトゥナ・コンセルウァトリクスだ」
「こ、こんせ……?」
ミドルネームらしきものまでは聞き取れたが、その先が全くだめだった。
「私の名前など、あなたが覚える必要はないよ。だが、呼ぶならクラウディオで構わない」
引っかかりを覚える言い方だと思いつつ、他にも気になることがあったので流した。
「クラウディオさんは、どうして魔法使いを捕まえようとしているんですか?」
「あなたを元いた場所へ帰させるためだ。あの魔法使いは元老院の承認も得ずに、異界からあなたを無理やり呼び出したのだ」
真理愛の頭は混乱し始めた。
「夜の乙女はあなたたちの世界を救うために召喚されるのでは?」
「ああ、夜の国の建国神話か? 異界から来たあなたがご存じとは驚きだ」
「もちろん知っています。夜の国のことも、世界の滅びを食い止めた夜の乙女のことも」
真理亜は力強く頷いて、幼いころから聞かされて育った物語を語った。
吸血鬼の王子様が人間の女の子と結婚するために、王様から出された無理難題。それは吸血鬼が安心して暮らせるような新しい国を見つけることだった。そこは朝も昼も陽がささず、吸血鬼を嫌う人間が一人もいない場所でなければならない。そんな場所を探し出せず途方に暮れる二人の前に、魔法使いが現れる。
「二人がそれぞれ命よりも大切にするものを差し出すというなら、その願いを叶えてあげましょう」
魔法使いは別の世界への窓を開け、条件通りの場所へと吸血鬼たちを導いた。そして、そこは『夜の国』と呼ばれるようになった。
王子様と女の子は結婚し、王子様は王様に、女の子は女王になった。結婚式の祝宴の三日目に、魔法使いは二人に願いの代償を要求し、王様は女王を、女王はお腹の子どもを代償とした。女王と子どもをいっぺんに失って怒った王様は魔法使いを火あぶりにした。魔法使いは死の間際、夜の国に呪いをかけ、空が一日中ずっと明るくなってしまい、吸血鬼たちは外に出られなくなった。
泣き暮らす王様のもとへ現れた老女が、吸血鬼たちが元居た世界から夜の乙女という聖女を呼び寄せるよう助言した。王様は助言に従い、聖女が召喚された。聖女は光を遠ざけ闇を取り戻し、夜の国は再び吸血鬼たちが住める国へと戻った。そして、息を吹き返した女王は王子を産み、王子は夜の乙女と結婚し、いつまでも幸せに暮らした。
「そして、再び夜の国に危機が訪れる時、夜の乙女が現れ、王子と共に世界を救うだろう、と」
真理愛は夢中になって話し終えたが、クラウディオの顔色は優れないままだった。
「我々の国に伝わっている内容と全く同じだ。異界の人を勝手な事情で呼び出して世界を救わせる、なんて人任せなことだろうね」
急に視界が開けて、真理愛は前を向いた。星明りがかすかに辺りを照らすだけだが、それでも立派な門扉や塀、その向こうにある広大な庭や宮殿の洗練された輪郭がはっきりと見えた。闇に沈み輪郭だけが見て取れるこの光景こそが、宮殿や庭を作り上げた人々の見せたかったものなのだろう。
「たくさん歩かせてすまなかったね、ここからは馬で行こう」
そう言って、クラウディオは塀のそばに佇んでいた馬へ近づき、先に鞍に乗った。そして、真理愛の方へ再び手を伸ばす。
真理愛は今まで乗馬の経験はなく、間近で馬を見たのも初めてだった。どきどきしながら手を取ると、一気に引っ張り上げられてクラウディオの前に座らされた。
馬は軽やかなステップで歩き出し、門をくぐって見事な庭を横目に進んでいく。
「もしかして、乗馬は初めてか?」
耳元でクラウディオの声がして、真理愛の心臓がはねた。
「は、はい……」
「そうだったか。でも、安心してほしい。彼は非常に利口だから、何も恐れる必要はないよ」
クラウディオが再び耳元で優しく言った。真理愛は表情にこそ出なかったが内心恥ずかしさでおかしくなりそうだった。
宮殿の正面まで来ると、宮殿の中から使用人と思しき人々が出てきた。彼らは真理愛の姿を認めると驚きに目を見張ったが、何も言わず主人のクラウディオを出迎えた。
馬を降りて宮殿の中に入ると、まずはその薄暗さに驚いた。燭台の蝋燭の火は心なしか遠慮がちに見えた。しかし、墨を薄めたような闇の中でも、闇に調和した調度品や内装の素晴らしさには目を見張るものがあった。夜の国では、何もかもが闇の中にあってこそ美しく見えるよう形作られているのかもしれない。
応接間に連れてこられた真理愛は、クラウディオに勧められるままソファーに座った。
ほのかな蝋燭の火が大理石の床や柱を艶やかに照らし、床一面に敷き詰められた毛足の長い絨毯の模様を一層複雑に見せる。ソファーやテーブル、サイドボードといった家具は、深い色の木で統一されていて、いずれも恐ろしいほど細やかな彫刻が施され、蝋燭の火がかすかに揺れるたびに違う表情を見せた。
真理愛がしげしげと見事な花瓶を観察していると、使用人が部屋に入ってきて、クラウディオに耳打ちして、すぐに部屋を出て行った。
「魔法使いは無事に捕らえられたが、次に魔法を使えるのは早くても明日になると言っているそうだ。仕方がないから、今日のところは屋敷に泊まっていってもらえるだろうか」
「本当に私を元の世界へ帰すおつもりなのですか?」
扉を背にして立つクラウディオは、ゆっくりと首を傾げる。
「急に異界に呼ばれてしまったあなたにとっては良い話だと思うのだが、違うかな?」
「私は……」
真理愛は答えに窮した。
十八年の人生全部を捨てて家を出て行くと決めた自分も、御伽噺を信じて王子様を夢見ていた自分も、どちらも否定できなくなっていた。
「クラウディオさんは、どうして私を帰そうとなさるのですか? 私が呼ばれたということは、夜の国は危機に瀕しているのではありませんか?」
「ああ、そうだね。我が領地は日々崩落しているし、世界は危機的状況だ。けれど、私はあなたが世界を救わなくていいと考えている」




