いつか闇の中でこの痛みを思い出して
この部屋が静かすぎることに気づいたのは、自分の心臓の音がうるさいからだった。廊下の方からも、窓の方からも、何の音も聞こえなかった。
もしかして魔法で音が遮断されているのだろうか、と真理愛が考えたところで、クラウディオが手に手を重ね、さらには頬をすり寄せてきたので、全ての思考が飛んだ。
目と耳からの情報が一切得られなくなった状況で、皮膚が得る情報はやけに密度が高くて鮮明に感じられた。
躊躇いがちに肌を撫でると、親指が唇に触れた。真理愛はかすかに肩を震わせた。
探り当てられたことに気づいたクラウディオは、薄く唇を開いて、それから唇で真理愛の指先を軽く食んだ。それはごく軽い力だったのに、真理愛はもう引き返せないと思った。
ゆっくりと唇の奥に指を差し入れると、歯に当たった。整った歯列をなぞり、一つ一つの歯の形を確かめるみたいに指の腹で撫でた。
どれもあまり人間の歯と変わらない、と思った矢先に、尖った牙に指が触れた。それは人間の犬歯よりもずっと長く、鋭く尖っていた。まるで小さなナイフのようだ。これに顎の力が加われば、皮膚を裂き、肉を食い破るのはたやすいだろう。
熱い吐息が指先に当たって驚いた弾みで、牙に強く指が当たった。鋭い痛みを感じた。おそらく血が出ているだろう。吐息で湿った親指の腹の表面に、血が表面張力で球状になって溜まるのが見える気がした。
指を動かさずにいると、指の腹を湿ったものでなぞられた。指の腹で感じる舌の感触はなめらかだった。過たず血を舐めとられると、頭がじんと痺れるような心地がした。思いがけず吐息が零れて、ずっと息を止めていたことに気が付いた。
「どんな、味がしますか?」
真理愛は声を潜めて問いかけた。まるで言葉を闇に隠すように。そうしなければいけない気がした。
「甘い」
クラウディオが喋ると指先がこそばゆかった。
「ねえ、あなたは殿下のせいで暗闇が怖くなった?」
「少しだけ、怖くなったかもしれません」
「そうか。ならば、あなたが独りで暗闇に怯える時に思い出すのは、私のことにしてほしい」
そんな風に哀願されずとも、触れた牙の形や、指先の痛みを、忘れられる気がしなかった。
ほとんど音にならなかったが、はい、と返事をした。クラウディオが微笑んだ気配がして、急激に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「どうかした?」
声がした位置が真理愛の目と鼻の先で、真理愛はほとんどパニックに陥った。何か、何かを言わなくてはいけない。
「いえ、その、あの……。わ、私のも、触りますか?」
「いいの?」
今度はクラウディオの手が真理愛の顔を包み込んだ。思いのほか躊躇いのないその動きに、真理愛は硬直して、反対に心臓だけがさらに動きを速めた。
唇のふちを親指の腹でなでさすられる。くすぐったくて、恥ずかしくて、むずがゆかった。指先が右へ左へ行ったり来たりしながら撫でてきて、開いてと言われているようだった。恐る恐る口を開くと、クラウディオがゆっくりと指を差し入れてきた。指の腹で歯を撫でられ、クラウディオが口を覗き込む気配がした。自分も同じことをしていたのだと思い知らされているようで、もう眩暈がしそうだった。
クラウディオの指が、犬歯の上で止まり、最も鋭い先端へと滑り降りて行く。口の中がからからに渇いて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「これが人間の牙……。ああ、信じられない。こんなにも小さくて、まろくて、まるで鈍のようだね」
指の腹を強く押しあてられても、当然、犬歯が皮膚を裂くことはなかった。未発達で加害性を欠いた歯を可愛がるようなその仕草は、彼が人間ではないことの証左だった。
クラウディオがうっそりと微笑んでいる様子が目に浮かぶ。その顔を見たいという気持ちは、怖いもの見たさと同じだった。
「あ、の。吸血鬼にとって、ひとの牙に触れたり、血を吸うことは、どれくらいのことなんですか?」
言ってから、答えをほとんど知っていることを思い出す。そうでなくてもこの空気が全てを物語っていた。それでも、馬鹿みたいな質問でも、聞かずにはいられなかった。
思案げにクラウディオの指先が真理愛の唇を撫でる。あまりに優しすぎる触れ方にぞくぞくした。
「キスよりすごい、かな」
「……焼きもち、ですか? 私が、殿下にキスしたから」
「そう、なのかもしれない。おかしいな、私はひとにそういうことを望んではならないのに」
不意にクラウディオの手が離れて行って、真理愛は真っ暗闇の中に放り出されたような気分になった。
探るように手を伸ばすと、指と指がこすれ合った。そのまま手繰るように絡めて握りしめた。
「そんなこと誰が決めたんですか?」
「誰だったろう……。自分自身かもしれないな」
そうか、とクラウディオが何かに気づいたように言った。
「私はあなたを望んでもいいのか」




