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夢にまで見た王子様

 真理愛まりあは目の前に立つ男が、夢にまで見た王子様だとは到底信じられなかった。


 手の震えを抑えるために扇子を強く握り、歯ががちがち鳴らないように奥歯を強く噛み締めた。思考するよりも前に判断を下した本能が、早く逃げるべきだと警鐘を鳴らしている。


 エヴァルド・ユピテル・フェレトリウス。


 御伽噺おとぎばなしに登場する王子様で、真理愛がいつか結婚すると聞かされていた相手だった。


 生まれる前に死に、蘇った正真正銘の吸血鬼。夜の国の王子にして、夜の乙女と共に世界を救ってきた救世主でもある。千年以上の時を生きてなお瑞々しい精気に溢れ、高貴なひと特有の威容を漂わせていた。エヴァルドの美しさは言葉によって表現することさえおこがましいほどのもので、彼を目の前にすればどんな人間も喜んで自らの血を差し出すに違いなかった。


 それでも、それでもなお、アメジストを思わせる紫色の瞳が真理愛を甘く眼差し、ゆるやかに弧を描く薄い色の唇は上品に微笑みかけていても、真理愛はとにかく怖くて怖くて堪らなかった。


 何が恐ろしいのか自分でも説明できない。ただエヴァルドが自分を見ているだけなのに、体の奥底から湧き上がる衝動めいた恐怖心が自分を支配していた。クラウディオが隣にいてくれなければ、この場にへなへなと座り込んでしまいそうだった。


「真理愛、ご挨拶の仕方は覚えているね?」


 クラウディオがそっと耳打ちしてきて、真理愛はようやく我に返る。


 そうだ、王子を前にして黙り込んで硬直しているわけにはいかないのだ。


 どうにか息を吸って、慎重に吐き、一歩踏み出して、カーテシーで挨拶をした。


「お初にお目にかかります、エヴァルド殿下。私、暁真理愛と申します。この度は……」


 頭が真っ白になって、それ以上は言葉が続かなかった。


 どうしよう、どうしよう、練習したはずなのに。


 顔面蒼白の真理愛に、エヴァルドが鷹揚に微笑む。その程度の失態など気にしないと示してみせているのだろうが、真理愛はその微笑みに少しの安心感も覚えなかった。ただ脳内の空白に恐怖が侵食し、覚えたはずの挨拶の言葉は全て消えてしまった。


「も、申し訳、ございません……」


 真理愛はこらえきれなくなって一歩下がり、クラウディオの腕に引っ付いた。心臓がどくどくと早鐘を打ち、今度こそ足が震えた。


「憧れの王子殿下を前に緊張しすぎているようですな」


 クラウディオの助け舟に、真理愛は辛うじて頷き返した。


 エヴァルドがクラウディオを一瞥するが、その眼差しの冷たさと鋭さと言ったら、真理愛が恐怖を忘れて唖然とするほどだった。他の吸血鬼がクラウディオへ向ける視線とは一線を画すほどの、もはや殺意が入り混じったような鋭いものだった。


「その言葉が真実であればいいが、おまえの教育不足では目も当てられないな。社交界に出てこない公爵は挨拶の仕方さえ教えられなかったのではないか?」

「恐れながら真実にございますよ、殿下。彼女は夜の国へ来る前から殿下にお会いすることを夢見ていたそうでございます」

「その割にはおまえにべったりとくっついて離れようともしない。ああ、クラウディオ、もしや俺憎さに悪口を吹き込んだか?」


 それは会場中の空気を凍らせるような発言だった。


 王子ともあろう人が、こんなにもたくさんの吸血鬼たちの面前で、悪意を持ってひとを攻撃したことが、真理愛には信じられなかった。


「ち、違います」


 真理愛は喉をこじ開けるようにして言った。クラウディオやエヴァルドだけでなく、会場にいる吸血鬼全員の視線がこちらに向いたのを感じながら、一歩進み出た。


「本当に、殿下に拝謁するだけで緊張してしまい、ご挨拶申し上げることさえままならなかった次第でございます。申し訳ございません。エヴァルド殿下、私にもう一度機会を賜りたく存じます」


 まっすぐにエヴァルドの瞳を見返す。心臓が口から出そうなほど緊張しているのに、不思議と手の震えはおさまっていた。


 エヴァルドの瞳はいっそう優しくなり、真理愛はぞくっとした。肉食獣がすり寄ってきたらこんな感じかもしれない、と頭の片隅で考える。


「そんなに畏まる必要なんてないよ」


 エヴァルドは、先ほどまでの氷のような声が嘘のように優しい声色で言った。


「君が緊張していたのが真実だということは、十分に伝わっていたよ」

「恐れ入ります、殿下」

「君は美しいだけでなく謙虚で素直だね、ますます気に入ったよ」


 エヴァルドはにこやかに言って、流れるような手つきで給仕が運んできたワイングラスを取り、その中身をクラウディオに向けてぶちまけた。


 ワインをかけられたクラウディオの白い髪は赤紫色に染まり、コートもワインを吸って変色していた。


「……え?」


 事態を理解した真理愛が発することができたのは、それだけだった。


 ホールにいる吸血鬼たちは、誰もが声を出さないように必死で口を閉ざしているようで、ワインがぽたぽたと落ちる音だけがやけに響いていた。


「大丈夫かい?」


 クラウディオが額に張り付いた髪をどけながら言った。


「え、ええ。私は平気です。でも……」


 真理愛には一滴のワインも付着していなかった。エヴァルドがグラスを持った瞬間にクラウディオがかばってくれたおかげだった。


 エヴァルドが嘲笑をにじませたわざとらしいため息を吐いた。


「その様子では彼女のダンスの相手は務まらないな、俺が変わろう。下がれ、クラウディオ」


 ぽたぽたとクラウディオの白い髪からワインが落ちて、床にできたワインの池に波紋が立つ。クラウディオはさっと片手を上げて使用人を呼び、すぐに床の掃除に取り掛からせた。


「承知いたしました、殿下。寛大な御心に感謝申し上げます。私は、一度下がらせていただきます」


 クラウディオは無表情のまま頭を下げた。


 真理愛はクラウディオについて行きそうになったが、クラウディオが視線でそれを制した。今まで見たことがないほど鋭い眼光に、真理愛はひるんだ。逆らってはいけないと目が訴えていた。


 クラウディオが歩く先では人垣が真っ二つに割れて道ができ、クラウディオが通った後には血のようなワインの跡が残った。それもすぐに使用人がモップで綺麗にしてしまった。


 聞き慣れた音楽の前奏が聞こえ始めても、真理愛は遠ざかっていくクラウディオの背中から目を話せなかった。


 どうして誰も彼を助けないの? どうしてこんな横暴が許されるの?


 真理愛は叫びたくなった。だが、頬の内側を噛んでどうにか耐えた。


 怒りで沸騰しそうな頭で、今の状況を分析する。おそらく、他の吸血鬼たちがクラウディオを助けないのは、滅びの兆しと呼ばれる白夜公を助けて謀反の疑いをかけられないようにしているのだ。それに何よりも、人間の真理愛だけでなく、他の吸血鬼たちも王子を心底恐れているのだ。


 異界に来て初めて感じる孤独が、周囲の視線が、すぐそばで息をしているひとの形の獣の吐息が、真理愛の心を突き刺していく。こんなものをクラウディオは二十年間も独りで耐えていたのだと想像するだけで目の奥が熱くなる。


 夜の国に来て初めて出会ったのがクラウディオと屋敷のひとびとでなければ、きっとこの国のために力を尽くしたいと考えなかっただろう。ひとや物事は多面的であることを理解していても、割り切れない思いがあった。


「真理愛」


 エヴァルドが毒のように甘やかな声で名前を呼んだ。差し出された手を、真理愛は挑戦も同然に受け取った。


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