血のように赤く、ミルクのように白く
冷えた縁甲板は、真理愛が歩くたびにギシギシと音を立てる。両親がこの音を聞いて起きてしまったらと嫌な妄想が頭をよぎって、頭と心臓がおかしくなりそうだった。
灯りをつけずに進む廊下は真っ暗で、感覚を頼りに歩いていく。もうしばらく歩いたら玄関にたどり着くはずだが、音を立てないようゆっくりと歩いているせいで果てなく遠く感じられた。
左肩にかかっている旅行用鞄は、これでも厳選した私物を詰め込んだはずなのに、ずっしりと重い。
中に入っているのは、選び抜いた洋服や下着類、親に秘密で買った化粧品、ずっと貯めていたお小遣い、十八の誕生日にもらったガーネットの指輪。どれも置いていくことはできなかった。
でも、部屋の壁を覆い尽くすほどの童話の本たちは、全てに置いてきた。幼いころに耳にたこができるほど読み聞かせてもらったはずなのに、内容もおぼろげになっている。もう御伽噺はたくさんだった。
それでも一族に伝わってきた御伽噺だけは、耳に、脳に、この体を流れる血に染み付いて離れない。
あなたは特別な女の子。世にまたとない美しい黒い髪と黒い瞳、それが夜の乙女の証だから。いつか異世界の王子様があなたを迎えに来る。そして、王子様と一緒に異世界を救って、結ばれて、いつまでも幸せに暮らすの。
この御伽噺の一番悪いところは、両親や町の人々が本気で信じていたことだった。そして、幼いころの真理愛も本気で異世界の王子様の存在を信じていた。
いつか王子様が迎えに来てくれるまで待つのが真理愛に課せられた現世での使命だからと、勉強も運動も満足にさせてもらえなかった。年に一度、町の教会で催されるお祭りでは、いつも真理愛が主役で、綺麗な服を着させられて一人ぽつんと祭壇に立たされていた。
成長するにつれて異常さを理解し、両親へ反発するようになったが、大学受験をすることも許されなかった。
真理愛の我慢の限界が訪れたのは十八の誕生日で、両親もいつまでも王子様が迎えに来ない自分の娘に同情的な言葉をくれた。その時、町ぐるみでおだてながら育ててきたのに、この人たちは私の人生の責任を取ってくれないのだと、はっきり気づいてしまった。
だからこの家からもこの町からも出て行く。二度と戻ることはない。これまでの人生すべてが無駄だったという事実を受け入れるのに、十八年もかかってしまった。
玄関に辿り着いて、息を止めて扉を開け、外に出た。ひんやりとした空気が緊張で熱くなった頬を包む。
今夜は新月だからか、夜の闇はいつになく深い。スマホで足元を照らしたい気持ちに駆られるが、ぐっと我慢する。
家から出られただけでは、まだ気は抜けない。ここから一時間歩いて駅に着くまで、誰かに見つかって連れ戻されでもしたら、それこそ本当におしまいだ。
再び気を引き締めて一歩踏み出したとき、踏みしめたのが硬い石畳ではなく柔らかな草で、真理愛の頭は混乱した。呼吸も忘れて足元を見るが、真っ暗で何も見えない。
「どういうこと……?」
鼻先をかすめた知らない草木の香り、首筋を撫でる生温い風、かすかに聞こえる異国の言葉――
強烈な浮遊感を覚え、続けて地面に叩きつけられるような重力に襲われる。とても立っていられず、その場にしゃがみ込み、降りかかる何かをやり過ごそうとした。
体を襲った感覚は、始まった時と同じように急に終わった。恐る恐る目を開けて周囲の様子を確認するが、やはり暗くてよく見えない。だが、草を踏みしめる音が聞こえて、近くに人がいることがわかった。
「やったぞ、成功だ!」
それは父の声でも、近所の人の声でもない。全く知らない男の声に、真理愛はすくみあがる。この辺に住んでいる人であれば全員が顔見知りであるので、知らない男などいるはずがない。もし余所者がこの町に来ているならば、その日の内に町中の人に知れ渡っていないとおかしい。
急に前方が明るくなり、アンティークのランタンを持った男の姿が見えるようになった。男は青ざめているのかと思うほど肌が白く、つり上がった唇の間から覗く歯が嫌に鋭かった。聞き取れた言葉は日本語だったが、西洋人と思しき顔立ちをしている。
「だ、誰ですか?」
日本語が通じますようにと祈りながら男に誰何する。男が口を開くより前に、怒号があたりに響き渡った。
「そこを動くな、魔法使い!」
それから空気を切り裂く音がした。魔法使いが驚きによろめいて、一瞬前まで足があった場所に飛来した何かが突き刺さった。地面に落ちたランタンの光が流れ星のようにそれの輪郭を撫でて、磨きこまれた表面に真理愛の唖然とした顔が映りこむ。それは剣だった。映画やアニメで見るような、両刃の剣だ。
真理愛が剣に意識を取られている間に、魔法使いと呼ばれた男が情けない声を上げながらよろよろ立ち上がって逃げ出した。
「バルド、奴を追え! 我が領地から出してくれるな!」
再び怒号、それから誰かが疾走する音が闇に響く。
一人置いていかれてしまった真理愛の元へ、誰かが近づいてくる音が聞こえた。真理愛はとっさにランタンから離れ、背後の木陰に隠れた。何が起こっているのか全く理解できないが、不穏な状況であることだけは確かだ。ともすれば先ほど逃げて行った男のように命を狙われるかもしれない。
息を止めて待っていると、フードを被った男が現れた。男は地面に突き刺さった剣を引き抜いて鞘に納めながら、周囲をきょろきょろと見回す。
探されてるんだ。
そう思った真理愛は、口元に手を当てて絶対に声が漏れないようにした。
「妙だな、召喚されてしまったはずだが」
男は独り言ちて、地面に落ちていたランタンを拾い上げた。そうして光が男の顔を彫り上げるように照らした。雪のように白い肌は先ほどの魔法使いと呼ばれた男と同じだったが、その瞳は赤く、髪は白かった。
血のように赤く、ミルクのように白く――
幼いころに読み聞かせてもらった童話に出てきたフレーズが、思い出の中から浮上して頭の中で響いた。
心臓が早鐘を打つ。先ほどまでとは全く違う理由で。
「王子様?」
はっとした男がこちらを見て、目が合った。そして、男もまた真理愛を真理愛でない名前で呼んだ。
「あなたが夜の乙女か」
男の声色や瞳は、悲しみや憐憫の情を帯びていて、何の事情も知らない真理愛の胸にも迫るものがあった。
家を出て新しい人生を生きるんだという真理愛の覚悟は、今やすっかり別のものへ置き換わりつつあった。
信じることを諦めた御伽噺が、今こうして否応なしに現実として立ち現れた。幼いころの甘い期待が、予言めいた物語が、真理愛の進む道を急激に塗り替えていく。
あの人と一緒に世界を救って、それから、それから。まさか本当に、そんなことが?
手のひらの下で、真理愛の心臓は強く打っていた。




