神様、人になる
深い森の中で、目を開いた。
雨がシトシトと降っている。
湿った地面が見える。雨が降り、地面に落ちて泥がはねていた。
肌寒いな。
アモスの体は濡れていた。この雨に打たれたというより、走り続けて書いた汗の方が原因だろう。
太陽が出ていれば程よく暖かい季節だが、太陽が雲で隠されている今は肌寒さのほうが強い。
トーリは今、木の幹にもたれかかっていた。足やお尻に地面の、背中には木の感触を感じる。だらりと垂れた両腕も地面についていた。土を握る。
土の感触を両手に感じた。トーリは木の幹に持たれた格好のまま口角をあげた。
受肉はうまくできている。成功だ。
もう少し、自分の魔力をこの体に流して、馴染むのを待った方がいいだろう。肌寒いが、もう少しこの場所で待っていた方がいいだろう。
トーリは首を上げた。空を見る。トーリがもたれる木が作る枝と葉が作った屋根が雨を避けてくれていた。垂れる水はもちろんあって、それには濡れるけれども、びしょびしょに濡れてしまうことはないだろうと感じていた。
人間の体。
夢にまで見たそれが、今、自分のものになっている。
神であった自分も決して悪いものではなかった。誰からも見られず、誰にも触れられず、誰からも触れられず、何も食べられず。そしてどこにも行けず。
これからはそんな思いをしなくてもいいのだな。
体から力が抜けていく。ほっとしているのだろうか。それともこの体の疲労が限界なのだろうか。
もう少し、意識を保っておきたい。もう少し体の感覚を感じておきたい。
そう思ったが、無理だった。体がふわりと浮いて、目が回るような感覚の後、トーリの意識が飛んだ。
次に目を開けた時には、もう体の疲れは取れていた。すっきりとした感覚で身体を伸ばす。
「よく寝たな」
今まで眠ったことがないから寝起きの感覚というものがわからないけれど、たぶん、よく寝てすっきりしたというのはこういうことだと思う。
太陽は高く登っていた。今は昼頃だろうか。眠る前に降っていた雨は病んでいる。周辺に水たまりは残っていないが、地面はぬかるんでいる。
どのくらい眠っていたのかはわからない。少しの間しか眠っていないように感じる。が、先ほどまで神であったトーリの時間感覚はあてにならない。
この身体を持っていたアモスは食べるものを持っていなかった。
人間になったのであれば、いくら神だったトーリといえども空腹になるだろう。食べ物を食べなければならない。何か獲物を取ってくるか、人からもらうかしなくてはいけなかった。
「村に向かうか」
トーリは周りを見渡しながら呟いた。
約50年前だろうか。トーリが神として、この森の中にいた頃、森と人里の境界付近に人が集まってきて、気づけば村ができていた。村人の数も15人いるかいないか程度の小さな村だった。今トーリがいるところから考えて、そこが一番近い村だったし、そこならなんとか歩いていける。
村の方向は、わかっている。アモスが走ってきた方向に歩いていけばいい。ちょうどアモスが走ってきたところは生えた草が左右に分かれて獣道のようになっていた。
アモスがどんな考えでこの森に逃げ込んだのかはわからない。きっと人が近寄らないこの森に逃げ込めば助かると思っていたのかもしれない。が、アモスを追いかけていたのは呪いだった。そんな簡単に解けるものでも逃げ切れるものでもなかった。
トーリはアモスが作った獣道に入り込んだ。
獣道は長い間人間の手が入っていない森の中にある。
人が来ない場所だから、多くの動物がいる。トーリが歩いているだけでも何匹か角のついたウサギがトーリの横を駆けていく。
一匹くらいとっても問題ないだろうか。
横をかけるうさぎの一匹に手を伸ばす。捕まえられるかとおもったが、すんでのところで逃げられた。
「こいつ意外とすばしっこいな」
トーリはため息をつきながら走り去るうさぎを見つめた。
森の生き物くらい簡単に見つけて簡単に手に入れられると考えていた。
「思い通りにはいかない、か」
それからも何匹か見つけては取り逃すというのを繰り返していた。人間の体の使い方を知ろうとなるべく自分の体だけで捕まえようとしたが捕まらない。
「魔法……使うか……」
できることならまだ使いたくはなかったが。せっかく手に入れたこの肉体を早速ダメにしてしまうのは勿体無い。
人間が魔法を使う時、周囲の魔力に詠唱や魔法陣などの方法で働きかけて反応を引き起こす。それが魔法となって発現するらしい。
対してトーリは違う。トーリの場合は、自身が魔力の塊のようなものだ。わざわざ詠唱も魔法陣もいらない。自分が念じるだけで魔力が動く。外の魔力で動く人間のそれと、内の魔力で動くトーリのそれとは威力が違う。生物の体が耐えきれないのもよくある。
アモスは魔術師見習いをしていたらしい。であれば、高濃度の魔力が体内を流れる感覚や体から魔力が放出される感覚には慣れている。と、信じたい。
「頼むぞ」
トーリはつぶやいて、空を見上げた。鳥が群れになって飛んでいる。
あの中の一羽でもいい……。
落ちてくれ……。
鳥に向かって右手を伸ばす。手のひらを鳥の群れに向けて、想像した。
あの鳥の群れの真ん中に旋風が起きて、鳥が落ちる。自由落下する鳥たちにまた風が吹いて、鳥たちがトーリの目の前に落ちてくる。
いけるか?
「耐えろよ。アモスの体。復讐も果たせぬぞ」
小さく口の中でアモスの体に聞かせる。聞いてくれたかはわからない。
体の中央から魔力が集まっていくのを感じる。いけそうだ。うん。大丈夫。
「よし」
覚悟を決めた。
「いけ」
トーリがいった瞬間、はるか彼方を飛んでいた鳥の群れの中央で、竜巻のような風が吹き始めた。トーリの前髪を微風が揺らす。
鳥たちが風に煽られて落ちていく。その肉体を別の横殴りの風がトーリのいる場所へと運んでくる。
その様子を遠くから眺めながらトーリは頷いていた。
成果は上々。
使ったのは風の魔法だけだが、結果はなかなかにいいものだった。精確性も魔力の質量もともに問題なかった。それに肉体への影響もごくわずかだった。
これなら問題なく魔法を使うことができる。
だが、これをどうするか……?
トーリは足元を見つめた。
目の前には15羽以上の鳥が寝転んでいた。
仕方がない。ひとまず手で持っていくか。
トーリは近くの木から蔦を抜き取った。鳥たちの足に絡めて背中に担いだ。
トーリはこの鳥を超いする方法をしらない。知識のある人間に任せたい。
村に行けばいるだろう。村に急ごう。
トーリはまた歩き出した。