7『ご令嬢は魔法使いに願いました。この世で一番美しくなりたい、と』
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そして十年の月日が流れた。
アリアネルは今では森での暮らしがすっかり板についていた。
一人で近くの町まで買い物にでられるほどに、目が見えない生活にも慣れていた。
しかし対する老人は、この十年ですっかり老け込み、もはやその命は風前の灯にあった。
動きは緩慢になり、長い距離を歩くこともできなくなった。
アリアネルは男の老衰を受け入れきれず、彼は病気なのだと信じ込み、高価な薬を手に入れた。
老人は断ったが、アリアネルの懇願を受けて、仕方なく薬を飲んだ。
当然効果はない。
アリアネルはひどく落胆した。
他に手立てはないかと、別の薬ならどうかと模索するアリアネルを、老人は止めた。
無駄なことはやめろ、と。
「なにをしても身体の劣化を止めることは出来ない」
「でも……弱っていくおじいさんを黙ってみていることなんてできないよ……」
「気にすることはない。苦痛があるわけではないのだから」
「わたしにできることはないの?」
「ある」
老人は枯れ枝のように乾燥し、ひび割れた手で、アリアネルの頬に触れた。
「笑ってくれ。私が朽ち果てる、その最後の瞬間まで、どうか笑顔を見せてくれ」
手は強張っていたが、その手つきは優しく、まるで父母に撫でられているようだ、とアリアネルは感じた。
老人はアリアネルを心から大切にしていた。愛していた。
「無理だよ」
アリアネルは堪えきれず、泣いてしまう。
「おじいさんが死ぬのに、笑ったりなんて、できないよ……」
「死ぬわけではない」
「……魔法使いだから?」
「そうだ」
アリアネルはかぶりを振った。
彼女は信じていなかったのだ。老人が魔法使いであるなどとは。
老人は魔法使いを自称している。
けれどアリアネルは、それを嘘だと思っていた。
自分のためについた、優しい嘘である、と。
幼いころのアリアネルは、魔法と魔法使いの存在を無邪気に信じ、いつか自分もそうなろうと思っていた。
けれど成長した今では、そんなものはないのだということを知っていた。
魔法は、しょせんおとぎ話だ。
幼い自分の慰めではあったが、過酷な現実を生き抜いた彼女に、魔法という夢はもはや必要なかった。
そのためアリアネルは、老人がいくら魔法について解こうとも、自分を子ども扱いしているのだ、とまともに取り合わなかった。
母が幼いアリアネルを慰めるために魔法使いの話をしたように、老人は生きる気力を失っていた自分を励ますために、魔法などというありもしないものを語るのだ、と。
アリアネルはその老人の優しさに感謝していた。
けれどその嘘は、もはやアリアネルにはなんの慰めにもならなかった。
「もう、魔法はいいんだよ」
「まだ嘘だと思っているのか」
「じゃあ、魔法、つかってみせてよ」
「……この身体では使えないのだ。もとの身体に戻れば、使えるようになるが」
老人の光が大きく揺らぐ。
アリアネルは慌てて老人の手をとった。
「ごめんなさい、わたし、ひどいことを……」
アリアネルは老人の優しさを無下にした自分を恥じた。
「いいや。きみの疑いも無理はない」
老人はアリアネルを安心させようと、落ち着いた声を出したが、その瞳はか細く揺らぎ続けていた。
「だがどうか信じてほしい。この身体はやがて朽ちるが、死ぬわけではない。私はもとの身体に戻るだけなんだ」
「でも……その、もとの身体は、王宮に閉じ込められてしまっているんでしょう?」
「ああ。数百年前封じられてから、私はずっと動けずにいる。長い時間をかけてこの身体を作り、魂だけは外に出すことができたが、やはり作り物の身体ではうまく魔法を使うことができなかった」
老人は小さく口笛を吹き、空中に人差し指を出した。
チリンッ、と音を立てて、ティティがその指に止まる。
「唯一形になったのはこれだけだ。しかし完全とは言い難い。鳥にするつもりが、歪んだ羽虫のようなものになってしまった」
「ティティはとってもかわいいよ。それにすごくいい子だよ」
「……そうか。まあ、きみの気に入ってよかった」
老人はティティをアリアネルの元へ放つ。
チリリンッ!
ティティは羽虫と言われたことに腹を立てたかのように、荒々しく羽ばたきながらアリアネルの肩にとまった。
「ほら、おじいさんがへんなこというから、ティティ怒っちゃったよ」
「……それの主人は私のはずだったんだがな」
チリン!
ティティはまた抗議の羽音を鳴らす。
老人は苦笑し、まあいいだろう、と言った。
「それはきみの目となり、よき友となってくれた。充分成功作といっていいのかもしれない。……しかし、だからこそ、だろうな。それを作ってから、身体の衰えが早まった」
「えっ……」
チリ……。
アリアネルはティティをそっと胸に抱いた。
ティティもアリアネルを抱きしめるように、その羽をすり寄せた。
「それでもなんとか、今日まで力をためてきたが、私はもうあと一度きりしか魔法を使えない。そして使ったが最後、この身体は壊れてしまうだろう」
「そんな……」
魔法を使えても、使えなくても、老人は無事では済まない。
結局なにひとつ状況は変わらない。
アリアネルはたまらず、老人にすがりついた。
「離れたくないよ」
「……心はいつも共にある」
「一緒に生きていたいんだよ。いままで通り、ずっと、一緒に暮らしていたいんだよ」
「永遠に続くものはない」
老人の諭すような言葉を受けて、アリアネルの脳裏に、幼いころの情景が浮かび上がる。
青空を背に建つ大きな屋敷。花で溢れた美しい庭。親切な使用人。優しい家族。いつまでも続くと信じて疑わなかった、暖かく幸福な時間。
壊したのは、自分だった。
自分の存在が、そこにあったすべての幸福を壊してしまった。
アリアネルは何度も後悔した。
あのとき、もっと自分が大人だったら。
言い寄る人びとに翻弄されず、うまくいなすことができていれば。
家族に危険が及ばないよう振る舞うことができていたら。
アリアネルは何度も願った。
過去に戻って、やり直したい、と。
けれど過ぎた時間は決して戻ることは無い。
過去に対してアリアネルができることは、決して忘れないこと、懺悔を続けることだけだった。
(でも、未来は、まだ変えられる)
もう二度と後悔したくない。その強い思いが、アリアネルを勇気づけた。
諦めるにはまだはやい、と。
「もとの身体に戻ったら、おじいさんは死なないんだよね?」
「ああ。私は封印が解かれない限り、老いることも死ぬこともない」
「封印が解けたら、自由になれる?」
「……ああ」
「それじゃあ、わたしが、おじいさんを解放する!」
老人は無言で首を振った。
けれどその動作を、アリアネルは見ることができない。
「きっと、絶対助けるよ!そしたら、また二人で暮らそう!」
老人はアリアネルの頭をそっと撫でた。
アリアネルは老人が微笑んでいることを、その手つきから感じ取る。
「わかっているのか?王宮だぞ」
「……怖くないよ」
アリアネルは王宮でのさまざまな恐怖を思い出しながらも、老人のためならばと、震えを噛み殺した。
老人はそんなアリアネルの頭を、さらに優しくなでさする。
「今のきみが行ったところで、門前払いされるだけだろう。それに私の存在は、すでに忘れ去られているんだ。王宮のどこに封じられているのか、どう解放するのか、それらを知る者は誰もいない」
たしかに、アリアネルも王宮にいたころ、魔法使いが封じられているなどという話は、一度も耳にしたことが無い。
「そんな……じゃあ、どうすれば……」
「心配することはない。自分のことは自分でなんとかする。……時間はかかるが、またこうして人型を作って、外に出る。そして今度こそ力を蓄え、封印を解く」
「時間って、どのくらいかかるの?」
老人は答えない。
アリアネルは質問を変える。
「いまの身体は作るのには、どのくらいかかったの?」
「200年よりは、短かったと思うが」
アリアネルはたまらず唇を噛む。
両目が開いていたなら、きっと涙をこぼしていただろう。
けれど今の彼女には、どんな悲しみも、痛みも、流し出すことはできない。
飲み込み、耐えることしか、できなかった。
「わたしはふつうの人間だから、200年も生きられないよ」
「……」
「もう会えないの?」
「……」
「それじゃあ、死に別れるのとおんなじだよ……!」
アリアネルは声を震わせる。
泣くな、と老人はアリアネルを慰めたが、その声は同じように震えていた。
「……そうだな、ともすれば、死ぬよりもずっと辛いだろうな」
老人はぽつりとこぼした。
自分のために笑い、喜び、涙する。心優しい少女との生活は、老人にとってもかけがえのないものだった。
それと手放し、暗く冷え切ったもとの身体に戻ることは、彼にとっても耐えがたいことだった。
そんな老人の弱音を聞いて、アリアネルははっとした。
(そうだ。わたしよりおじいさんのほうがずっと辛いんだ)
(泣き言を言ってる暇はない)
(どうしたらおじいさんを助けられる?本当になにも、打つ手はないの?)
アリアネルはしばらく考え込んだ。
放っておいても、老人の身体は朽ち果ててしまう。
魔法を使っても、結果は同じだ。
(……魔法)
アリアネルは記憶を手繰り寄せる。
老人に今まで言われてきた言葉を思い出す。
『お前は私のものだ』
『お前には価値がある』
『代わりになるものを探していた』
『お前は最高の魔法の器だ』
その意味を理解しないまま、聞き流してきた言葉の数々。
そして今日、老人は、あと一度魔法を使えば、身体は壊れてしまうといった。
アリアネルはようやく気付いた。
最初に老人が自分を拾ったのは、決して優しさからだけではなかったのだ。
老人にとってアリアネルは利用価値があった。
もし本当に、老人に魔法が使えるのであれば、それがただの一度きりというのであれば、その使い道は一つしかない。
「おじいさん、わたしの身体をつかって」
老人は予想だにしなかったアリアネルの発言に、目を瞠る。
「……なにを言い出すんだ」
「私を拾ってくれたとき、器にするって言ってたよね?それって、わたしの身体をおじいさんの容器にするってことなのかな、って思ったの。……違った?」
老人は答えなかった。
アリアネルは確信した。
老人は魔法使いであると自称する以外に、アリアネルに嘘をついたことはない。
老人の沈黙は、肯定だった。
「やっぱりそうなんだ」
「……すまない。私は……」
「謝らないで!」
アリアネルは笑った。
これでようやく、恩を返すことができると、老人を救うことができると、心から喜んでいた。
「よかった。本当によかった。これでおじいさんは……」
「アリアネル」
無邪気にはしゃぐアリアネルの肩を、老人はつかむ。
「私はきみの身体を奪うつもりはない」
「奪われるなんて思ってないよ。わたしが自分であげるんだよ。おじいさんに、私の身体を」
「そうじゃない。私はお前に生きていてほしいんだ。お前がわたしを生かしたいと思うように……いやそれ以上に、私はお前を失うのが恐ろしい」
「そういってもらえて、すごく嬉しい。でもわたしはもう十分だよ。おじいさんに助けてもらって、おじいさんと暮らせて、じゅうぶん幸せだった」
アリアネルは微笑んだ。
それは愛する人へ向ける、この世で最も清く美しいほほ笑みだった。
拾われた理由に気づいても、アリアネルの老人へ対する気持ちは変わらなかった。
なぜなら彼女は知っていたからだ。
老人がアリアネルに向ける愛情は、本物であると。
いつか身体を奪うためについた嘘ではない。老人の親切は、優しさは、すべて本物だった。
アリアネルは今日まで自分を包んでくれたその温もりを、疑ったりはしなかった。
「もうやめてくれ」
アリアネルの視界に灯る光が、揺らぐ。
水面に移る月が、風で揺れ動くように、対なる光は大きく揺れ、分裂し、零れ落ちた。
「おじいさん……」
アリアネルは老人の頬をそっと包んだ。
暖かい滴が、その手を伝っていく。
老人は泣いていた。
声を殺して、大粒の涙を、流していた。
「アリアネル、お願いだ。もうなにも言わないでくれ……」
老人はアリアネルを抱きしめた。
「私の望みは、たったひとつだけなんだ。このまま残りの時間を、きみと穏やかに過ごすこと、それだけが、唯一の望みなんだ」
「おじいさん……」
老人は涙を流したまま、語った。
まるで懺悔をするように、アリアネルへの思いを。
「きみを見つけたとき、なんて幸運なんだと思った」
「きみの身体を奪うことができれば、私はきっと、もとの身体と同じように魔法を使うことができるだろう。封じられていた身体を解放することができるだろう」
「長年の悲願をようやく果たせると思ったんだ」
「けれど、今ではそれを恥じている」
「私は愚かだった」
「あのときの自分を、きみをものとして利用しようとした自分を、憎んでさえいる」
「……きみに出会うまで、私は人の心を失ってしまっていた」
「王宮に閉じ込められて、長い時間を孤独に過ごした。人びとが私の存在を忘れていったように、私自身も、私の存在を忘れていってしまったんだ」
「なぜ封じられたのか。封じられてる前の私はどういう人間だったのか。それさえも思い出せなくなった」
「唯一残っていたのは、自由になりたいという願いと、私を封じた者たちにたいする怒りだけだった」
「私は人ではなくなってしまっていた」
「この世で最も醜い復讐者と成り果ててしまっていた」
「……対して、きみは、美しかった」
「すべてを奪われてなお、誰も憎まなかった。傷つけなかった」
「……いやむしろ、すべては自分のせいだとして、自分だけを憎み、傷つけていた」
「だが光を失っても、きみの心が曇ることはなかった」
「きみは今でも、美しい宝玉のままだ」
「努力家で、勤勉で、こんな貧しい暮らしの中でも不満のひとつこぼさず、日々小さな喜びを見つけることをかかさない。そんなきみは、いつの間にか私の、なによりも大切な宝物になっていた」
「きみと食べる食事はどんなものでもおいしかった。きみとならどんな仕事をしても疲れることはなかった。きみとする散歩はこの世のどんな娯楽よりも楽しいものだったし、きみの笑い声にはどんな音楽も勝ることはできないと思った」
「きみの隣で眠りにつくとき、朝目が覚めて隣にきみがいるとき、なによりも幸福を感じることができた」
「自由への渇望と怒りでいっぱいだったはずの心が、きみのことでいっぱいになった」
「私はきみに感謝している」
「私はきみのおかげで、人の心を取り戻すことができたんだ」
「ありがとう、アリアネル」
「私は、きみを愛している」
老人の告白に、アリアネルは胸が張り裂けそうだった。
老人と想いが同じだったことは、彼女にとってこのうえない喜びのはずだった。
しかしいまのアリアネルには、悲しみが勝ってしまう。
「私はきみと過ごす残り少ない時間を、幸福のままに終えたい」
「頼む、アリアネル」
「どうかもう私の傍を離れないでくれ」
「私のために身を切るような真似はしないでくれ」
「どうかそのままで、最後の瞬間まで、私の隣で笑っていてくれ」
老人の切実な願いに、アリアネルは答えないわけにはいかなかった。
「……わかった」
アリアネルはすべての思いを飲み込んだ。
そして老人が望むとおり、にっこりと、笑って見せた。
「ずっと傍にいるよ」




