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一人になっても、はるひは中々動けなかった。
手の中にある佳乃のハンカチを強く握りしめる。自分の太ももをハンカチを握りしめた拳で叩いた。
骨の鈍い音がした。
もう一度叩く。ちっとも痛くない。もう一度。もう一度。何度も何度も繰り返し叩いた。
「はるひ、やめるのだ」
見かねた茶太郎が静止するために、叩き続けていた太ももによじ登ってくる。
「自分を痛めつけるのはよせ」
痛い? 何がだろう。はるひはどこも痛くない。
「茶太郎、榊様に会わせて」
榊に会わなくてはならない。会って言うべきことがある。
「今日はもう家に帰れ」
「いいから会わせて!」
茶太郎に対して声を荒げてしまった。自分がコントロール出来ない。
もう、自分が怒っているのか虚しいのか悲しいのか悔しいのか情けないのか全てがぐちゃぐちゃに混ざって分からなくなってしまっている。
「……祠に向かうのだ。榊様をお呼びすることは出来ぬ」
手のひらで雑に頬をぬぐって、茶太郎をリュックに入れる。頭の中がパンクしそうでどうやって身体を動かしているのかも分からない。
どこをどう走ったのかも覚えてないのに、気づけば、息を切らせながらあの寂れた祠の前まで来ていた。
「下ろせ」
リュックの中から茶太郎を出して地面に下ろすと、また器用に前足と鼻で祠の扉を開けていた。
「飛び込めばいいんだよね?」
「……ああ」
祠に飛び込むことに、もうためらいはなかった。
目をつむって祠に向けて足を一歩踏み出す。木々に吹き込む風がなくなったのを感じてから目を開くと、そこはあの本にまみれた社だった。
「ひどい顔をしているな」
待ち構えていたかのように榊は目の前にいた。
どうして来たのか問われなかったことで気づいてしまった。榊は、何が起きたか知っているのだ。
昨日ここを発つ時に榊は言った――「気をつけろ」と。
かっと頭のどこかが燃えたような気がした。
何が起きるのか知っていたのだったらどうして教えてくれなかったのか。間違えてしまう前にどうして教えてくれないのだ。
そもそも、取材をする意味をもっとちゃんと教えるべきだ。
愚痴を聞く程度だと浅はかな勘違いをしているのをどうして訂正してくれなかった。
今回のことは榊のせいだ。
榊が悪い。
鏡を壊してしまった、それは確かにはるひの過失だ。けれどだからってこんなことに巻き込まなくてもいいじゃないか。
ひどい。最低だ。榊がやってることは最低だ。悪趣味だ。榊が悪い。榊の――。
榊のせいに、したい。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「何が言いたい」
昨日の恐怖を思い出す。榊も茶太郎もシロも人間じゃない。人とは違う。常識が違う。はるひの気持ちも佐々木の気持ちも佳乃の気持ちもきっと榊には分からない。
人の苦しみや悲しみは榊たちにとっては天気のようなもので、晴れても曇っても雨が降ってもきっと心は痛まない。
「榊様は何がしたいんですか」
人の苦しみと無関係なくせにどうして取材と称して人の悩みを聞いて小説を書いたりするんだ。悪趣味だろう、そんなの。
小説なんて書いてないで、神様なら願いを叶えてくれればいいんだ。自分ではどうしようもないから人は祈るんだ。はるひでは何も出来ない。
誰かに任せるくらいなら榊が自分でやればいい。はるひがただ話を聞いたところで、相手に通りすがりの他人に話してしまった罪悪感を負わせるだけだ。
「榊様はどうして人の悩みなんて知りたいんですか。意味ないですよ。意味ない。知ったって意味ない。聞いたって意味ない。人の悩みを無理やり聞いて、それを小説に書いて、何になるっていうんですか。面白がってるんですか? そうじゃないなら何なんですか? それにどんな意味があるっていうんですか! 何にも出来ないのに、解決なんて出来ないのに、そんな、こんな、こんなことしたって……わたし、わたし、なにも、言えなか……」
続きはもう嗚咽にのまれて言葉にならなかった。
泣きじゃくるはるひを、榊も茶太郎もシロもただ黙って見ている。
「無理です。もう、無理です。ごめんなさい」
榊のせいにしたい。でも、分かっている。間違えたのは、はるひだ。
自分に責任はないとどこかで思っていた。榊に言われたから話を聞こうとしているだけで、はるひの意思じゃない。だから土足で心にあがりこむように話を聞こうとしてしまった。
佐々木と佳乃は違う人間なのに、愚痴を聞きさえすればいいんだとまるでゲームか何かのように、自覚はなくても心の片隅で思っていた。
心の底に沈めているものを暴くのがどういう意味かも知らずに。
それがどれだけ残酷な行為なのかも知らずに聞いてしまった。
「分かった」
「…………え?」
簡単に首を縦に振ってもらえるとは思っていなかったので、あっさり了承されたことに戸惑う。
本当にいいのだろうか。この行動は間違っているのではないのか。
自分の選択の何が正しくて何が間違っているのか正解が分からない。
「無理をさせたな。もういい」
榊の言葉に非難する色は一切なかった。
感情にさざ波の一つも立っていない。やはり榊は、人とは違う存在なんだ。
「これから、どう、するんですか」
不必要だったら最初からはるひを使わなかったはずだ。それとも、鏡を壊した罰として使われていただけだったのだろうか。
本当ならはるひはいらなかったのか。なんとかなるのか。はるひが、いなくても。
「どうとでもする」
「……分かりました。さようなら」
止めてほしかったのだろうか。必要だと言われたかったのか。居場所が欲しかったのか。
榊たちに所詮自分は必要なかったのだと傷つくのが馬鹿馬鹿しい。あれは必要なことだったのだと、理由をもらえれば佳乃を傷つけたことを正当化出来るとでも思っていたのだろうか。
気持ちの整理が、つかない。
「茶太郎、ついてこないで」
ぴしゃりと拒絶するように、足元に近づいてきた茶太郎を制した。
「ごめん」
一緒にいたら絶対に八つ当たりしてしまう。茶太郎は悪くないのになじってしまいそうだ。
もう二度とここには来られない。もう二度と榊にも茶太郎にもシロにも会えないだろう。
一昨日会ったばかりの相手だ。忘れてしまえばいい。
最初は夢だと思っていたのだから、今からまたそう思えばいい。
はるひと榊たちの間には始めから何も芽生えていない。
鏡が壊れたから、壊してしまったから仕方なく接点が出来ただけだ。それだけの関係だ。でも、榊たちと一緒にいると辛いことを忘れられた。
滅茶苦茶で意味の分からないことばかりで、嫌なことを考えなくて済んだ。
逃げ場所にしていた。それをはるひは、自分で壊した。
間違えてばかりだ。
ぬぐわずにいた涙が頬と目元に残ってうっとうしい。
ただいまも言わずに階段をかけ上がって部屋に飛び込む。リュックを床に放り投げた。コートを着たまま布団にもぐり込む。
身体を小さく小さく縮める。情けない自分の叫びを内側に留めるために強く頭と膝を抱え込む。
間違えてばかりの自分。このまま消えてなくなればいい。
「はるひ、帰ってきたの?」
軽いノックの音に続けて母親の声が聞こえた。こんなぐちゃぐちゃの顔は見せられない。返事をせずにもっと小さく小さくなる。
「はるひ? いるんでしょう?」
呼びかけを無視するたびに申し訳なさすぎて消えたくなる。どうして間違えてしまうんだろう。
「入るわよ」
がちゃりと扉の開く音に続いてベットに近づいてくる足音が聞こえる。ここより先にはもう逃げ場所もない。でも顔は見せられない。
少しの隙間もなくなるように布団を強く握った。
「いい加減にしなさい!」
強く掴まえていたはずの掛け布団はあっさりはぎ取られた。
「なにするの!」
叱られると身構えたのだが、想像していた叱責がやってこない。母はただ茫然とこちらを見ていた。
「……お母さん?」
恐る恐る伺うと、止まっていた時間が動き出したように母親の表情が崩れた。泣きだしそうなその顔に驚き、どうしたの、と聞く前にはるひは抱きしめられる。
「学校になんて行かなくてもいい」
勘違いされているのが分かっても訂正出来なかった。とても久しぶりに母親に抱きしめられた。コート越しでも体温が伝わる。はるひの頭を撫でる手つきは宝物に触れるかのようだ。
「お母さんはね、はるひが大事。一番大事。何度も学校に行きなさいって言ってごめんなさい」
緩慢に首を横に振る。母親は何も悪くない。何も言わずに学校を休み続けた自分のせいだ。
「はるひ。お母さんは、例えはるひが悪いことをしちゃってもはるひが好きだよ。もの凄い悪いことをしてしまったとしてもきっと嫌いにはなれないし、はるひの味方をしてしまうと思う。どんなはるひでも、お母さんは、はるひの味方」
止まったはずのものがまたこみあげてきて頬を伝う。あたたかい。更に強く強く抱きしめられた。
「なんでも話して。辛いことは辛いって言っていいし、苦しいことは苦しいって言ってほしい。嫌いな人のことを嫌いって言ってもいい。はるひの思ってること、はるひがどうしたいか、話してほしい。お母さん、はるひのお母さんだけど、考えてることが全て分かるわけじゃないから、教えてほしい」
あたたかくて、安心する。自分は今とても安全な場所で守られている。それと同時に恥ずかしくなった。
はるひは子供だ。どうしようもなく子供だ。泣けば抱きしめてもらえる。辛いと言えば助けてもらえる。自分が間違えたくせに母親に慰められている。
すがりついて泣きながら、はるひは自分の幼さを呪った。




