3
翌日は、二月とは思えない春のような陽気だった。
コートを着ていると汗ばむほどに気温が高い。うっかり昨日と似たような服装にしたことを歩き始めてから後悔する。コートを脱ぎ、腕に抱えて歩くくらいでちょうどいいほどの暖かさだった。
やわらかな空気を吸い込むと、体内に陽だまりを取り入れたように心地良い。
今日の茶太郎は、最初からリュックサックの中にいる。
規格外の犬なのですっかり忘れていたのだが、傍から見ればはるひはノーリードで飼い犬を散歩してる非常識な飼い主だ。
周りから見られていたのは可愛いからというだけではなかったのだということに和泉の一件の暴走でやっと気づいた。
首輪とリードをつけるか、リュックの中にいるかを聞いたら、渋々茶太郎はリュックの中を選んだ。息苦しくならないようにチャックは少し開けている。
そんな風に気の抜けるやり取りを朝から繰りひろげたわけだが、昨日内心で芽生えた恐怖は実のところ今はもうしぼんでいた。
あの後、茶太郎はすっかりこれまで通りの偉そうに喋るポメラニアンに戻った。
もうやることもないから帰るぞと言って先導し、自分から昨日もはるひの家に帰宅した。
親に見つからないように茶太郎は自分の部屋に隠しているのだが、はるひが居心地が悪いながらも両親とリビングで食事をしている間に、このポメラニアンはクッションやらブランケットやら部屋にあったものを勝手に使い寝心地の良い空間を作っていた。
部屋に戻ってふかふかの寝床の上ですぴよすぴよと気持ち良さそうに寝ているのを見たら、急速に色々と馬鹿馬鹿しくなったのだ。
あの時は本当に恐ろしかったし、恐怖で肌の粟立った感覚を忘れたわけではないのだが、この小さくてふわふわした生き物を怖がり続けるのは難しかった。
「商店街に行けばいいの?」
リュックに向けて尋ねる。リュックの中は茶太郎の要望でバスタオルを敷いて高さを調整しているので、会話もしやすい。
「いや、神社に向かうのだ」
「先に榊様に会いに行くの?」
「榊様の社ではなく表のオモイカネ様の神社に行くのだ。お前も一度は詣でたことがあるだろう」
「え? ああ、うん。初詣は毎年あそこの神社に行く……って茶太郎に話したっけ?」
神社の名前は長くて覚えていないのだが、確かそんな名前だった。
「ここらに住んでいるものはだいたい参拝に来るからな」
それもそうかと思い、重みでずり落ちそうになったリュックをしっかり背負い直す。
「リュックの居心地はどうですか?」
「うむ! よろしいぞ」
茶太郎は偉そうなのに変に素直で、やっぱり可愛かった。
正規のルートで境内に入るのは多分一月以来だ。
初詣の時期は混雑しているが、今日は閑散としている。人の少ない神社に来ることはなかったので新鮮な光景だ。
神社に一歩足を踏み入れると、空気が変わった。
大通りの喧騒が遠ざかり、木々の音が聞こえやすくなる。鳥居のあちらとこちらで一体何が違うのかは分からないが、清々しい。
賑やかな初詣も楽しいが、静かな神社の方が魅力があるなとはるひは感じた。
境内は広くないので、鳥居をくぐって少し歩けばすぐに拝殿にたどり着く。
傍らに咲いている梅の花に目を奪われながら参道を進むと、拝殿前に見たことのあるチェック柄のグレーのチェスターコートを着た後姿があった。
「佳乃、さん?」
彼女はとても熱心に手を合わせていた。
お参りが終わって振りかえった彼女と目が合う。
「……ああ! 昨日の」
はるひを認識すると佳乃は何かを探すように足元に目をやった。
「今日は一人なんだね」
少し残念そうにしている。犬が好きなのかもしれない。
「実は、ここにいるんですよ」
後ろ手にチャックを半分開けて茶太郎が見えるようにした。
「え! 可愛いね。でもどうしてそんなところに?」
「首輪もリードも嫌がるので仕方なく……」
「猫みたいだね」
「そうかもしれないです……偉そうだし……」
三春家は完全に犬派なので猫を飼ったことはないのだが、一般的な猫のイメージに茶太郎は近いかもしれない。自由で気まぐれ……でもないな。特に榊に対してはまさしく忠犬だ。やっぱり犬だった。
「犬だよね?」
妙な発言で混乱させてしまったようだ。ごちゃごちゃ考え込んでいたのを中断して訂正しようとすると、佳乃の足元に黒い水滴が落ちているのが見えた。
「佳乃さん鞄!」
「鞄?」
右腕にぶら下げていた黒いトートバックから何か液体が滴り落ちている。
「うわ……やっちゃったな……」
鞄から取り出したコーヒーのペットボトルは蓋が開いていて、中身が半分以上減っていた。
財布やハンカチ、スマートフォンを佳乃はバックから取り出して左手で持つ。
トートバックの底はコーヒー浸しになっているみたいで、そのままでは使えなさそうだ。
「ここ水道とかあったかな?」
「拝殿の奥に神主が水やりに使っているのがあるぞ」
はるひの独り言を茶太郎が拾う。どうやらこちらの神社についても詳しいようだ。
拝殿に目を向けると左手に細い脇道があった。
「佳乃さん、こっちです」
そう手招いて脇道を進んだ。
脇道は、雑草は取り除かれているが右側は拝殿、左側は木々や草花に挟まれていて狭く、探検しているような気持ちになる。
行き止まりには、水やりに使われているのだろうホースがつけられたままの蛇口があった。
「貸してもらいましょう」
そう言ってホースを蛇口から外す。これでトートバックを洗うことが出来る。
今日は天気も良いし、コーヒー浸しになっている底の方だけでも水で洗い流して乾かせばどうにかなるだろう。
「使ってもいいのかな。これ、参拝者用ではないでしょう?」
「我がいるので問題ない」
茶太郎が返事をするが、佳乃にはその声は聞こえない。
「あ! 使っても大丈夫です」
「あなた神社の方だったの?」
「ではないんですけど……えっと、知り合い! 関係者に知り合いがいて!」
関係者と言っていいのかは微妙なところだが、間違ってもいないからいいだろう。
「そうなの? なら、ありがたく使わせてもらうね」
今日が暖かくて良かった。外にある蛇口から温水が出るわけがないので、冷水で洗うしかない。
もしも今日が普段通りの二月の気温であれば佳乃の手は凍えてしまっただろう。それでも本当の春ではないので、洗い流した後、彼女は冷たさを逃すように手をさすっていた。
洗ったのは底の部分だけだったので、濡らした部分に太陽が当たるように拝殿の縁側でトートバックを乾かす。
茶太郎が水やりの時に神主も腰かけているから問題ないというので、待っている時間、縁側に腰かけてひなたぼっこすることになった。
「付き合わせてしまってごめんね。……えっと、今更だけど名前を聞いてもいい?」
「三春です。予定があるわけでもないので大丈夫ですよ」
「ありがとう。川村佳乃です」
「佳乃さんってお名前の方だったんですね。えと、じゃあ川村さん?」
「よく間違われるから気にしないで。佳乃のままでいいよ」
縁側にふりそそぐ真昼の太陽はぽかぽかと暖かく、一時間くらいなら余裕で外にいられそうだ。時折吹く風だけは冷たいが、それくらいなら我慢できる。
「いい天気だね」
「そうですねえ」
茶太郎は佳乃の膝の上で冷えてしまった手を温める役をしている。天然カイロだ。
「なんかもう、春みたい。どうせまたすぐ寒くなっちゃうんだから一日だけ暖かくなっても仕方ないのにね」
「服装にも困りますしね」
神主が手入れをしているという拝殿脇にも梅が咲いていた。こうして縁側に腰かけていると、花見のポジションとしては最高だった。
どちらかというと梅には古臭いイメージがあったのだが、ゆっくり眺めてみると枝に小さな白い花が咲いている様は可愛らしい。
蕾は濃いピンク色で花弁の白さを際立たせている。
「佳乃さん神社にはよく来るんですか?」
「ううん、滅多に来ないんだけど……今日は、買い物ついでになんとなく、かな」
「なにかお願いごとでも?」
「……どうなんだろう」
佳乃は頑なすぎると茶太郎が昨日言っていたが、確かに佐々木の時とは違うようだ。こちらから促さないとどうにも話してくれそうにない。
「彼氏さんと仲直りは出来そうですか?」
「多分、出来ないと思う」
淡々とした声音だった。感情がすこんと抜け落ちた声だ。
しかし一言分だけ存在していた感情の抜けた雰囲気が嘘だったように、すぐに彼女の声音はとても自然なものに戻る。
「和泉くん――昨日の私の彼氏ってね、ものすごく優しい人なの」
「お、怒ってましたよね……昨日……」
去り際は確かに穏やかそうな顔立ち相応の言動だったが、最初の口論の印象が強すぎてあまり優しい人という言葉と彼が頭の中で結びつかない。
「あれは私が怒らせるようなこと言ったからだよ。私が、悪いの」
「佳乃さん、何かしちゃったんですか?」
佳乃が自分が悪いと言うのは二回目だ。昨日会ったばかりだが彼女は人が良さそうに見える。犬好きに悪い人はいないはずだ。しかしそうではないのだろうか。
「うん…………、あのね、和泉くんって、しんっじられないくらいにお人好しなんだ」
「そんなにですか?」
「だって私と和泉くんが話すようになったきっかけって、和泉くんが一人でいつまでも残業してたからだもん」
残業する人はお人好しなんだろうか。疑問が顔に出ていたのを見て説明が続けられる。
「私たちって会社の同僚なんだけど部署は違っていてね。本当なら接点なんてないはずだったんだけど……私が残業して帰る時いっつも明かりがついてる部署があって、気になってちょっとのぞいてみたら、そこに和泉くんが、いて。最初はよっぽど仕事が遅いか誰かに仕事押し付けられてるのかと思って気にせず通りすぎたんだけど、そうじゃなかったの。押しつけられるどころか自分から引き受けてた。呆れたことに人に頼られたら断れないし、困ってる人みると自分から手助けしちゃうの、あの人」
「それは……」
「馬鹿だよねえ。望んで貧乏くじ引いちゃうんだもん」
そう言いながらも、彼女はとてもやわらかい表情をしている。
「見かけるたびに和泉くんが残業してるから、ある日私もつい話しかけちゃったんだ。部署は違うけど、会社の忘年会とかで顔と名前はぼんやり知ってたし。……そういえば忘年会でも誰かが和泉くんのこと、いつか騙されそうで心配だって言ってたな」
どこか懐かしそうな目をしながら佳乃は続けた。
「なんとなく話しかけてみたら自分から残業引き受けてるっていうから、思わず口がすべって言っちゃったんだよね「馬鹿なんじゃないですか?」って」
「え」
どうしてそれで付き合うことになるんだろう。普通だったら最悪の第一印象になってしまいそうだ。
「自分で言っておいてなんだけど、本当に信じられないよね。面識がほぼない相手にだよ。ちょっとその日、仕事が修羅場で睡眠足りてなくてうっかり……」
「お疲れ様です……」
佐々木の時も思ったが想像以上に社会人というものは大変らしい。
「ありがとう。で、和泉くんが本当に和泉くんだなって思うところがそれに対する返答なんだけどね。彼、私が失礼なこと言ったのに「やっぱりそう思う?」って笑ったの」
「そこで笑うんですか」
「そこで笑えるから和泉くんなの。……すごいよね。私、和泉くんのそういうところ尊敬してるんだ」
付き合っている相手に尊敬してると言えることが素敵だなとはるひは感じたが、話を聞けば聞くほど彼女の行動に矛盾を覚えた。
どう考えても佳乃は和泉のことを嫌いになっていない。なのに別れを切り出して、自分が悪いのだという。
けれどそれにしては和泉は別れに納得していなさそうだったし、理由にも検討がついていないようだった。
「はじめて話しかけた日から、残業してる和泉くんを見つけると声をかけるようになって、そうしている内に付き合うようになったの」
「え、そうしている内ってなんですか、どうしてですか、どっちが告白したんですか」
恋話にテンションがあがる。昨日の喧嘩を見ている手前自重していたのだが、我慢出来なかった。
「勢いがすごいね。えーっと、なんだろう、自然に?」
「自然に……?」
初恋くらいは小学生の時に玉砕しているが、現在進行形で彼氏のいないはるひにはハードルが高そうな言葉だ。
「一応、告白的なものは和泉くんがしてくれたかな」
「そうなんですか? 以外です」
「そう?」
「なんか草食系っぽい気がして」
「うーん、否定はしないけど、和泉くんって一見優柔不断っぽいのに芯があるんだよね。言うべきことはちゃんと言う人だよ。お人好しだし優しいけど、自分の意見を持ってる。一貫したお人好しっていうか」
佳乃から話を聞いていると、和泉が出来過ぎた人格者のように思えてくる。まるで聖人君子のようだ。
昨日、彼女と話している姿は普通の男の人に見えたのに。
「……なんでこんな語っちゃってるんだろうね。…………別れる前に、誰かに、私の彼氏はこんなに素敵な人なんだよって、惚気てみたかったのかな」
後半の言葉は小さく囁かれていてはるひに向けられたものではなかった。
「ごめんね、人の惚気とかうざいよね」
「そんなことないです。聞いてて楽しいですよ、いくらでも話してください」
「……三春さん、和泉くんにちょっと似てるかも」
「私、お人好しじゃないですよ?」
「そんなことないよ。気の遣い方とか、人を助ける時にためらいがないところがそっくり」
そういえば一昨日佐々木にもお人好しだと言われた。今までお節介とは言われてもお人好しと言われることはなかったのに。
「普通はもっと見て見ぬふりとかするんだよ。目の前でコーヒーこぼしてたって、知らない人の手助けなんてあんまり出来ないよ」
「見て見ぬふり、ですか?」
「だって知らない人を助けたからって自分に得はなんにもないんだよ」
得、とか考えたこともなかった。だってそんなことを考えて行動しない。
「優しい人って、損だよ。和泉くんもそう。損してばっかり、貧乏くじ引いてばっかり。でも、それでもいいんだよって笑うの。馬鹿みたい。和泉くんは幸せにならなきゃ駄目なのに」
佳乃はすがるように膝に乗せていた茶太郎を抱き寄せた。
「…………和泉くんの時間を私のせいで三年も浪費させてしまった」
「浪費って、」
会話から二人の関係性を推し量るしかないが、浪費という言葉が当てはまるような付き合いには見えなかった。
返答に迷っている内に、どんどん佳乃の言葉が重ねられていく。
「浪費だよ。だって学生の頃ならともかく大人になれば付き合った先に結婚って現実があるのに、分かっていたのに、好きになってしまって、付き合って、別れてあげられなくて、ずるずる今まで来てしまった」
「佳乃さん?」
「この前、和泉くんにプロポーズされたの。だから、もう、終わらせなくちゃいけない」
「あの、佳乃さんは和泉さんのこと好き、なんですよね?」
「好きだよ」
はっきりとした答えだった。そこに迷いは欠片もなかった。
「……好きなら、結婚すればいいんじゃないですか?」
「そう出来るなら別れてなんて言うと思う?」
言葉が喉に詰まった。彼女が考えていることがちっとも分からない。
「三春さんには分からないよ」
「いや、まあ、私高校生ですし、確かに結婚とかまだちょっとよく分からないですけど」
「そうじゃないよ。そうじゃない、和泉くんに分からないように、三春さんにもきっと分からないんだろうなってだけだよ」
佳乃は「もう大丈夫だから」と言ってはるひに茶太郎を手渡した。
「えっと、あの、私は、ともかく、和泉さんとは分かり合えるまで話した方がいいんじゃないですか?」
「正論だね。でもね、三春さん。もし話しても理解してもらえないんじゃないかって、考えない?」
「でも、まず話さないとそれすら分からないですよ?」
「……三春さんは、強い人なんだね。それとも高校生って皆そうだったかな」
話した方がいい。が、どうして強い人、になるんだろう。
「三春さんに見えている世界は単純に出来ているんだね」
さっきから佳乃と目が合わない。茶太郎を渡してから彼女の視線は、ただ咲いている梅の花に向けられている。
「好きなら結婚すればいいし、嫌いになったなら別れればいい。それなら正しいものは全部正義で、間違っていれば悪者なのかな」
――良い子ちゃん。
耳元で、声が聞こえた気がした。
誰が言ったのかもう覚えていない。萌か優香か未来か、それとも、朱里だっただろうか。
「人がそんなにも単純に出来ているなら悩ずに生きていけただろうね」
お腹の中に重石でも入れられたように内臓が重たい。急にここから逃げ出したくなった。
「三春さん、やっぱり和泉くんに似てるよ。優しくて健やかな家庭で育ったんだなって感じる。だからきっと分からない。話したって無駄なんだよ」
分からないと何度繰り返されただろう。最初から話すことを諦める佳乃に、はるひは腹が立ってきた。
だって拒絶されたら、拒絶された側はどうすることも出来ない。それは卑怯だ。
「佳乃さん、いくらなんでも自分勝手なんじゃないですか。どうしてそんなに話す前から分からないって決めつけるんですか」
「決めつけてるんじゃないよ。だって、事実そうだから」
「……どういうことですか?」
「三春さんは、ご両親と仲良いでしょう?」
「え? ええ、まあ、悪くはないと思いますけど」
「兄弟は?」
「一人っ子です」
「いつか結婚したいと思う?」
「そりゃ、いつかはしたいです」
「母親になりたい?」
「まだ想像出来ないですけど。そうですね」
突然謎の質疑応答が始まってしまった。佳乃が言う事実とやらとこの質問には関係があるのだろうか。
「うん、そうだろうね。だからやっぱり三春さんには分からないよ」
「今の質問はなんだったんですか?」
どうやら彼女の中では結論が出たみたいだ。それを踏まえたうえで意見は変わらないと言う。
私ね。と話を切り出そうとした佳乃だったが、ためらいが喉に言葉を押し留めているようで形にならなかった単語が息として口からもれていった。
俯いてみたり、空を仰いでみたり、何度も言葉をのみ込んでから彼女は意を決する。
「子供、産みたくないの。どうしても産みたくない。産みたいと思ったことがない」
産めない。ではなく、産みたくない。と佳乃は言った。
「赤ちゃんだって、私は可愛いとは一度も思えたことがないの」
「それは、どうして……?」
「はるひ」
茶太郎の静止は間に合わなかった。無防備にはるひは問いを投げつけた。
「子供の頃に両親が離婚していれば納得してくれるの?」
ひどく攻撃的な、硬質さのある声だった。
これまでは目をそらしていた佳乃が、はるひを真っ直ぐ見ている。とても冷たい目を、している。
「例えば夫婦喧嘩が絶えない家だったといえば、虐待されていたといえば、身内に知的障害児がいたからだとでもいえば納得してくれるの? 何かしら問題のある家庭であればいい? 私が親から愛してもらえなかった子供だったらいい? それなら許してくれる? 同情してくれる? 可哀想だねって憐れんでくれる?」
言葉が、痛い。頬を叩かれたように痛かった。
「結婚したくない。どうして? 子供を産みたくない。どうして? どうしてどうしてどうしてどうして。他人は本当に簡単に聞いてくるけど、どんな答えであれば満足するの? もしも自分が納得出来ない答えを返されたとしたらどうするの? 否定する? くだらないとか、そんなことでとか、馬鹿にする? もし理解出来なかったら聞いておいて放り投げるの?」
もう、佳乃の目を見つめ返すことは出来なかった。
「ねえ、三春さん教えて。あなたは聞いてどうするの? 何のために聞くの? 一瞬の疑問のためにどうして人の心を暴こうとするの」
「……その、人を、分かりたい。理解したいからじゃ、ないでしょうか」
苦し紛れの答えだった。この発言には佳乃の言葉のような重みがない。
「私の答えを聞いたとして三春さんには私の気持ちが分かる? 分かると私に言うことが出来る?」
問いには答えられなかった。分かるとは口が裂けても言えないからだ。
「話しても分からないよって私が言うのはそういうことだよ」
ぐちゃぐちゃだった。
思考も気持ちもぐちゃぐちゃで、その中に激流のように佳乃の言葉がどんどん流れてくる。その言葉はとても強く、深く、重い。
「分かる、なんて。理解する、なんて。言葉で言うほど簡単じゃない。どれだけ思いやっても、あなたの怪我の痛みをそのまま私が感じることはない。どれだけ愛していても私の苦しみそのものを味わうことは誰にも出来ない。あなたにだって、彼にだって、私の苦しみを同じ温度で味わうことは出来ない。自分の世界に存在していなかったものを理解することはとても難しい。簡単に出来ることじゃないし、分かったつもりになってどこかで破綻する可能性の方が高い」
何か、何かを、言わなきゃと思うのに、口から言葉が出てこない。
「私は、和泉くんに幸せになってもらいたい」
その言葉は、とても清廉でなんの混じりっ気もない祈りのように綺麗だった。
「優しいお父さんになるのが似合う人だから、私じゃ駄目なの。普通の家庭を、普通の幸せを、私は彼にあげられない。そんなの駄目。それでもいいよって私は彼に言わせたくない。和泉くんはこんな気持ちは分からないままでいい。だから、私は絶対……」
佳乃の言葉が途切れてやっと自分が呼吸を止めていたのに気づく。酸素を身体に取り込むことで少しだけ頭が回るようになった。
「い、和泉さんは? 和泉さんの気持ちは無視するんですか? 和泉さんだって佳乃さんに幸せになってもらいたいって思ってるんじゃないですか?」
分からないかもしれなくとも、それだけで全てが消えて無くなってしまうのはおかしい。はるひが佳乃を否定することは出来ない。けれど、彼女が話してくれた中には和泉の気持ちがなかった。
「和泉くんが良くても、周りもそう思ってくれるとは限らない。私のせいで和泉くんにいらない苦労を背負わせるわけにはいかない。それに、私のことなんて別れたらいつかきっと忘れてくれるよ。和泉くんを好きになる子は私以外にもいる。だから大丈夫。その子と結婚して父親になって……欲をいえばその子が和泉くんに負けないくらい優しい人ならいいな。そうなら、いい。そうなら、私は、嬉しい」
「けど、和泉さんのような人のお父さんやお母さんだったら大丈夫なんじゃないですか?」
佳乃は、幼い子供から無垢な疑問でも投げかけられたかのような反応をした。そして諭すようにこう言った。
「人は、三春さんが思っているよりも欲深いよ。持っているものよりも足りないものばかり見てしまう。家族、性別、容姿、お金、愛情、学歴、才能、あげればキリがない。人は、自分にないものから目をそらせないの。普通がなんなのか誰も知らないけど、それでも皆普通の幸せが欲しい。そう思ってしまうのはもうどうしようもないの。良い悪いじゃない。どれだけ自分で肯定したって足りないものを見てしまう。私はそれを知ってる。だから手に入るはずの幸せを私のせいで和泉くんに手放させるわけにはいかない」
両親の仲が良くて、衣食住に不自由せず、将来の選択肢があって、そんな、そんな普通の家庭は世の中にどれだけあるのだろう。それを手に出来るのがどれだけ幸運か、手にしている人は気づかない。
結婚することで家族になるのは配偶者だけではない。その人の父親や母親、親戚含めて家族の一員になる。その全てから受け入れてもらえる確立というのは、どれだけ希少だろう。
現実は優しくないと知ってしまっている大人の佳乃では、もしもを信じて動くことは無理だ。
「どれだけマイノリティに目が向けられるようになったって少数派は少数派のままだよ。性的志向も家庭環境も身体のハンデも同じ。あれはね、当事者じゃないから同情出来るの、可哀想だと思えるの。自分にとっての現実ではないから好き勝手言えるの。当事者になったらそうはいかない。人と違うということから生まれるのは差別だけじゃない。自分とは違うという無意識の区別。それが悪いって言いたいんじゃない。ただどうしようもないだけ」
晴れ渡った青く澄んだ空を仰ぐ彼女の目は空虚だった。諦念の込められた目だった。期待を捨てた目だ。
「人と、違う。私にはそれがいっそ死んでしまいたいとすら思うほどにたまらなく恐ろしい。生きるという底のなさが怖い。……和泉くんや三春さんのような人が好きだよ。けれど一緒にいるとたまに苦しくなる。優しくて、人に何かをあげることが上手で、暖かい。羨ましい、羨ましくて、羨ましくて憎らしい。でもそれ以上に、……幸せでいてほしい」
削られた心が、はらはらと言葉になってはるひと佳乃の間に降り積もっていくようだった。
苦しい。悲しい。痛い。淋しい。欲しい。羨ましい。憎い。期待したい。期待したくない。怖い。――愛しい。
もう、堪えられなかった。
悲しいのは自分じゃない。なのに、止まれと思えば思うほどに涙は頬を流れていく。
はるひの世界に今まで佳乃は存在していなかった。見えていなかった。見えていないものを思いやることは難しい。こんな渇くしかなかった悲しみをはるひは知らない。
愚痴を聞くくらいなら自分でも出来そうだと思った自分が単純すぎて吐き気がする。
佳乃は榊の力の影響がなければ絶対にこんな話はしていない。
閉じ込めていたものを勝手にこじ開けた。
はるひが聞くべき言葉ではなかった。これは和泉が聞くべき言葉だ。
彼女の人生に関わる覚悟のない人間が聞いていい言葉ではない。
謝りたい。でも、そんな身勝手な謝罪に意味はない。
佳乃にかけられる言葉は、ない。
「……ごめんなさい。どうして私、こんなこと。ごめん、ごめんね」
声をころして泣くはるひを見て佳乃は我に返ったようだった。ハンカチをはるひの手に握らせる。
「ごめんなさい。泣かないで、三春さん」
人を労わる優しい声だった。だからこそ自分に腹が立つ。
悲しいのは、はるひじゃない。一番泣きたい人になぐさめさせている自分が情けなかった。はるひは声をころして泣いているのではない。泣けない人の前で泣く自分のみっともなさで声も出せなかっただけだ。
「私が、今話したことは全部忘れて。あんなの八つ当たりだから、泣かなくていい。三春さんは何も悪くない」
頷くことも出来ない姿を見て佳乃は「私はここにいない方がいい?」と優しく聞いた。でもそれにすら反応出来ない。
彼女は最後にまた「ごめんなさい」と言って、まだ乾ききっていないトートバックを持って神社から姿を消した。




