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 敷居を超えると、そこはまた林の中だった。

 うっかりスニーカーを片手に持ったまま出てしまったので、靴下で小石を踏んでしまいちょっと痛い。片足ずつ足裏の土や砂を落してスニーカーを履く。

 時間を確認すると、もう十一時になっていた。

 九時前にはここに着いていたはずだが、随分話し込んでいたようだ。

「今日はどこに行けばいいの?」

「ついて来い」

 どうやら今日も茶太郎の案内で取材対象者に会えるようだ。

 林を抜けて大通りに出ると、休日のためか人通りが多かった。

 通りすぎる人々がちらちら茶太郎へ視線を向けてくる。今すれ違った小学校低学年くらいの女の子なんて、母親にぬいぐるみが歩いてると目を輝かせて訴えていた。

 飼い主でもないのに、うちの子、可愛いでしょう? と誇らしくなってしまう。

 大通りを歩き続けると駅前広場まで来た。それでも茶太郎はまだ止まらず駅構内に向かっていく。

「ストップ」

 まさか電車に乗るのかと思って抱きあげた。もしそうならリュックの中に入ってもらわないといけない。

「どこまで行く気?」

「ここを突っ切れば商店街があるだろう」

 駅前広場は駅の北口、商店街は南口にある。なので駅構内の通路を突っ切れば、商店街のある通りに行けるのだ。

「商店街に行けばいいの?」

「そうだ、多分あちらにおる」

 地面に下ろすとまた軽快に茶太郎は歩いていく。そういえば今回は抱きあげても文句を言われなかった。慣れたのだろうか。

 通路を歩き南口を出ると、急に周りが賑やかになった。

 商店街にはチェーンの飲食店や、昔からある個人経営の店が雑多に通りにひしめいている。

 店の数が多ければ当然出歩く人の数も多い。年配の人から小学生のグループまで様々だ。

「この人数からどうやって探せばいいの……」

 佐々木の時とは状況が違う。昨日のように分かりやすい状況であれば話は簡単だったのだが、いくら榊の力が働いているとはいっても、こんなたくさんの人の中から本当に取材対象を判断出来るのか不安になる。

「待って、待てって、佳乃」

 だが商店街を歩き始めてすぐのことだ。喧騒の中、男性の焦りを帯びた声が、耳に飛び込んできた。

 騒ぎの主であろう二十代の男女は、はるひがいる場所から見て斜め前方にあるカフェの前にいた。

 一人は黒のダウンジャケットを着た、穏やかそうな顔立ちの眼鏡をかけた男性。

 もう一人はチェック柄のグレーのチェスターコートを着た、長い黒髪の可愛いよりも綺麗という言葉が似合いそうな女性だ。

 男性から引き留めるように肩をつかまれている佳乃という女性は、とても冷ややかな視線を彼に向けていた。

「いい加減にしなよ。一方的に、勝手に、決めて、立ち去って。それで僕が、はい分かりましたって言うとでも思ったの?」

「……思わない」

「なら、どうして」

「説明しても無駄だから」

 にべもない様子に業を煮やしたのか、硬い表情になった男性がとうとう大声を出す。

「だから勝手に決めるなって言ってるだろう!」

「だって……、言ったって分からないよ。絶対分からない。どれだけ話し合ったって和泉くんには絶対に分からない」

「だからそれが……うわ!」

 男性――和泉が突然狼狽して佳乃から跳び退るように離れた。

 どうしたのだろうと足元に目を向けると、茶太郎が彼のズボンの裾をくわえている。

 いつの間に。

「茶太郎! なにしてるの!」

 騒ぎに気を取られていたせいで目を離してしまっていた。まさかこんな真似をするとは思っていなかったので、仰天する。

「ごめんなさい!」

 謝りながら引き離そうとするがしぶとくて中々離れない。

 自分の裾を捕まえているのが小さなポメラニアンということに気づいた彼は、落ち着きを取り戻したようだった。

「助けようとしたのかな」

 場の空気を和ませようとしてか、和泉は苦笑する。

「僕が、かっとなって怒鳴ってしまったから。佳乃に危害を加えようとしているって思われたのかもしれないね。……怒鳴ってしまって、ごめん」

「和泉くん……」

 気まずそうな佳乃に反して、ハプニングで気が削がれたのか先程まで強ばっていた彼の表情はもう緩んでいた。

「佳乃。お互いに一度頭を冷やそう」

「……頭を冷やしたところで、」

「別れないよ」

 明確な意志のこもった言葉だった。

 そんな中ではあるのだが、茶太郎がやっとズボンの裾を離した。もう勝手なことをしないように抱きかかえる。

 本来ならここですぐに立ち去るべきなのだが、頭上で別れ話が始まってしまっているので、しゃがんだまま身動きが取れない。

「理由もなく別れてほしいと言われても僕だって困る」

「じゃあ……」

「適当に作った理由を言われたって同じだよ」

 先手を取って和泉は言い訳を封じた。インスタントな理由を作られたって、そんなものは理由を言わないのと変わらないからだろう。

「今日はもう帰るから。明日、だと早すぎるか、来週改めて話し合おう」

「……分かった」

 はるひたちに「巻き込んでごめんね」と謝ると、彼は駅に向かって去って行った。

「えっと……なんか、すみませんでした」

 茶太郎を抱きかかえたまま立ちあがり、謝罪する。

 佳乃は立ち去る彼の姿を見送ることなく俯いていた。腰まである長さの髪が顔をおおい隠しているので表情が見えない。

「こちらこそ、見苦しいところを見せてしまってごめんなさい」

 そう言って顔をあげた彼女は、不自然なほどに普通の顔をしていた。

「いえ、本当に、うちの犬がすみませんでした」

 平然とした様子にしっくりこない違和感がある。

 はるひから見ても二人は重大な話をしている雰囲気だったのだが、彼女にとっては違ったのだろうか。それほどに佳乃は平然と笑ってみせた。

「むしろ止めてもらえて助かった。可愛い子だね、撫でてもいい?」

「どうぞ」

 両手で胴体を持って差し出す。今の茶太郎に拒否する権利はないので、許可は取らない。

「ふわふわ」

 大人しく茶太郎は撫でられてくれた。唸ってもいないし、顔もしかめてもいない。

 彼女の触れ方は優しかった。頭を二度撫でてから、あごの下をわしゃわしゃする。

「……喧嘩、しちゃったんですか?」

 話を聞く限りでは、そうとしか判断出来なかった。彼女から別れを切り出したようだし、きっと和泉が何かしてしまったのだろう。

「喧嘩じゃないの。私が、悪いの」

 茶太郎を撫でながら、静かにそうこぼす。一瞬だけ後悔が滲む目をしたが、次の瞬間には自然な笑顔を浮かべた。

「ありがとう」

「これくらいいくらでも」

 ねえ茶太郎。と言って、はるひは茶太郎の右前足を佳乃に向けて振った。しかしこの扱いは不服だったのか顔をしかめられる。

「それじゃあ」

 最後にもう一度だけ茶太郎の頭を撫でると、彼女は駅には向かわず商店街を歩いていった。ここら辺に住んでいるのだろうか。

「はるひ、あの女子だ」

 抱きかかえたままでいると、腕をぺしぺし叩きながら茶太郎が言い出した。

「え? 今の、えっと、よしのさん?」

「そうだ」

「どうしてさっき言ってくれないの?」

 立ち去った方に目を向けても、もう姿は見えない。今からでは追いつけないだろう。

「今は無理だからな」

「何が?」

「頑なすぎる」

 そう言うと、よじよじ腕の中から抜け出て地面に飛びおりる。

「どういうこと?」

「榊様のお力でも今日は難しいということだ」

「じゃあ……私はどうすればいいの?」

 はるひはただの女子高生だ。警察や探偵みたいに顔と名前しか知らない人を見つけるのは難しい。

 もしも偶然見つけられたとしても話を聞きだすのが上手いわけでもないので、彼女が自分から話してくれないならどうすることも出来ない。

「榊様もおっしゃっていただろう。恐らく明日までかかるだろうと」

「言ってたっけ?」

「忘れるな! 榊様のお言葉を聞きもらすでない!」

 ぷんすか地団太を踏んで怒られたが、全部を覚えていろというのは無理がある。

「ごめんごめん。それで?」

「また明日会えるはずだ」

「どうやって?」

「今はまだ分からん」

 思っていたより榊の力は不便らしい。そういえば最初の時も取材対象について尋ねたらまだ決まっていないなどと言っていた。

 どうやらはじめから把握しているのではなく、直前になるまで分からないようだ。そう考えると、占いの方が便利な気がする。

「それ本当に会えるの?」

「榊様のお力を疑うのか」

 その一言と共に、急に周りの空気が変わった。

 一歩も動いていないのに、一瞬でどこかに飛ばされて異質な空間に来てしまったかのようだ。

 商店街の雑踏が遠ざかって聞こえる。

 周囲には人通りがあるのに、どこか遠い。

 背筋が冷やりとした。コートの袖をまくれば、腕には鳥肌がたっている。

 寒くは、ない。寒いどころか気温を感じられない。ただ、圧倒的に。

「はるひ、どうなのだ」

 唸ってるわけでも、歯をむき出しにして怒っているわけでもない、茶太郎はただ静かにあのまん丸の可愛らしい目でこちらを見ているだけだ。

 普段通りの愛らしい小さなポメラニアンだ。恐れを感じるような見た目ではない。

 ――それなのに、怖い。

 これまでも茶太郎が怒ったことはあったのに、理性ではどうともならない恐ろしさを今はるひは感じていた。

「疑ってる、わけじゃなくて、あの、ほら、私、知らないことが多いから不安で……」

「そうか」

 息苦しいほどに硬質だった空気がふっとほどけた。

 無意識に息を止めていたのだろうか、走ったあとのような息切れをしている。

「はるひよ、我らは人とは違う。自分の常識で判断するのは止めるのだ」

 心臓の音がうるさい。

 榊のことも茶太郎やシロのことも、アニメや漫画に出てくる神様のようなものなのだと思っていた。キャラクターのように思っている節があった。

 夢ではないと判明しても、どうしても彼らはどこかリアリティに欠けていた。

 虚構に本当の意味での恐怖を感じることは難しい。だから、はるひは今やっと自分の肌で彼らの存在を実感した。

「……うん」

 手をぐっと握りしめても指先の微かな震えが止まらない。

 生き物としての恐怖なんて、これまで一度も感じたことがなかった。普通に生きていたら、そんな恐ろしい目には中々遭わない。

 もしかしたら榊たちとはるひの間には、人間と蟻ほどに大きな大きな差があるのかもしれない。

 今この時だけは、不安をごまかすために茶太郎を抱きしめることは出来なかった。

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