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川村佳乃 1

 二階の自分の部屋からリビングに下りると、家のなかはまだ、しんと静まっていた。父親も母親もまだ目覚めていないようだ。

 休日の誰もいないリビングは、住み慣れた家なのに静かすぎて少し怖くなる。カーテンが閉められていると部屋全体が薄暗いから尚更だ。

 起きてすぐにはるひは榊のいるあの社に向かおうと思っていたのだが、夕飯を抜いたのでさすがにお腹が空いていた。

 冷蔵庫を開けるとハンバーグがラップをかけて置いてあった。きっと昨日の夕食だったのだ。ラップには符箋が張られていて『はるひの分』と書かれている。

 ごめんなさい、と心の中でつぶやいてからハンバーグと冷凍ご飯を電子レンジで温める。鍋に豆腐とわかめのみそ汁もあったので、それも温めた。

 準備をしている間、茶太郎が足元をちょろちょろ動き回る。

 物珍しいのか、台所なのに何故ガスコンロがないのかなど質問してくる。

「ごちそうさまでした」

 朝ご飯を食べ終えると、使ったお茶碗たちを片付けて、洗面所で顔を洗って、歯磨きして、髪を梳かして、部屋に戻って着替えをする。

 その間、両親はまだ起きてこなかった。

 本当は起きているのかもしれない二人に向けて小さく「いってきます」と言って、はるひは家を出た。

 今日も通学で使っている黒いリュックサックを背負って歩く。また茶太郎を仕舞うかもしれないと思ったのだ。

 本日のはるひは、冬は通学でも休日でも着る紺色のダッフルコートに、汚れてもいいニットにジーパン、黒のスニーカー姿だ。

「神社に行けばいいの?」

 この格好なら林の中を歩き回ったり、あの部屋の片付けを手伝うことになったとしても問題ないだろう。

「うむ。裏手の林だ。案内するのでついて来い」

 昨日に引き続き先に歩きだした茶太郎を追いかける。

 てちてち小さな身体で歩く後姿は、普通のポメラニアンにしか見えない。

 だが、喋るポメラニアンは夢ではなかった。

 さっきからはるひの頭の中は、どうやって犬の声帯で日本語を喋っているのかとか、色は識別出来ているのかといったことでいっぱいだ。

「はるひよ、ここに飛び込め」

 神社の裏参道から林の奥に向かって獣道のようなところを歩いていくと、こじんまりとした寂れた祠があった。

 祠は小さかった。

 どの角度から見ても人一人が入れそうな高さもなければ奥行きもない。はるひの腰よりも少し高いくらいの大きさしかなかった。

「無理」

「無理ではない。飛び込むのだ」

 茶太郎は器用に後ろ足だけで立ちあがると、前足と鼻先を使って観音開きの戸を開けた。

「こんなところに飛び込んだら壊しちゃうよ」

「ごちゃごちゃうるさい! 早く飛び込むのだ!」

 中腰になって中を覗き込んでいたはるひの背中に、助走で勢いをつけた茶太郎が飛びつく。

「うわ!」

 祠と自分の距離が縮まったことで、衝突する痛みを予想して思わず目をつむる。しかし、衝撃も痛みもやってこない。不思議に思いながらも恐る恐る目を開いた。

「ただいま戻りました榊様」

 どこにもぶつからなかったのは良かったのだが、目を開けたのに視界がふさがっていて何も見えない。が、今どういう状況なのかは感触ですぐに理解出来た。

「ご苦労」

 声は、すぐ近くから聞こえた。

 せっかく片付けた部屋の本をまた崩されてはかなわないと思ったのだろう。部屋に飛び込んだはるひの顔面は、榊にわし掴みにされていた。

 もっと、こう、抱きとめてほしいとまでは言わないけれど、もうちょっとやりようはなかったのか。抗議したかったが、顔面を掴まれているせいで喋ってもうめき声しかあげられない。

 はるひが体勢を立て直し本の安全が確保されると、榊は顔から手を放した。

「靴を脱げ」

「え、あ、はい」

 スニーカーを履いたまま畳を踏んでいたので慌てて靴を脱ぐ。

「こちらに来い」

 話の出来る環境ではないからか、榊は隣の部屋に移動していく。

 書斎だろうこちらの部屋は昨日の惨状から多少は回復していたが、どうにか本を積み直した程度で座れる場所もろくになかった。

 榊が通った道をなぞるようにはるひは本を避けて歩いた。

 書斎と隣の部屋はふすまで仕切られていて、出入り口に使わている側以外にはやはり本が積まれている。

「おじゃまします……」

 スニーカー片手に移動した隣の部屋は、書斎に比べれば普通の部屋といえた。

 入口から見て右手には大きな本棚があり、棚の中は隙間まで本で埋まってはいたが、書斎のように畳の上にまで積まれていたりはしない。

 本棚以外は殺風景なもので、丸い座卓が部屋の真ん中に一つと、本棚側に榊のものだろう藍色の座椅子が一つ。あとは部屋の片隅に座布団が二枚積まれているだけだ。

「はるひ、お前はこの座布団を使うのだ」

 榊は部屋に入るとさっさと自分の座椅子に腰を下ろした。とくにもてなす気はないようだ。期待もしていなかったが。

「茶太郎とシロはどうするの?」

「気が利かぬな、座布団はもう一枚あるだろう」

 自分たちの分も敷けということか。今日も偉そうだなと思いながら、榊の向かいに自分の分を、中間に茶太郎とシロの分の座布団を置いた。

 座布団が置かれると、茶太郎とシロは仲良く一枚を二匹で使った。茶色と白色のふわふわが並ぶと一匹でいる時よりも更に可愛い。

「それで?」

 準備が整うとすぐに榊が話を切り出した。

「……何から聞けばいいのかも分からないんですけど」

 聞きたいことは沢山あるが、沢山ありすぎるのだ。

「榊様って、何者ですか?」

 けれど、手始めに聞くならこれしかないだろう。

「榊様は榊様だ」

「何故そのようなことも分からぬのだ」

 肝心の榊からではなく、茶太郎とシロから返答があった。はるひは答えを促すように榊を見つめてみたが、口を開く様子はなかった。

「茶太郎とシロはどうして喋れるの?」

 仕方なく、話してくれそうな二匹に対象をうつす。

「我らは神使だと最初に言ったであろう」

「紳士? 紳士服とかの紳士?」

「本当に何も知らぬのだな! 神使とは神の使い。神の眷族のことだ。狛犬くらい見たことがあるだろう」

 と、茶太郎。

「狛犬なら分かるよ。神社にある犬の石像でしょ」

「我らはその狛犬だ」

 と、今度はシロが教えてくれる。

「……なんで狛犬なのにポメラニアンなの?」

「ん?」

「ん?」

 二匹は始めて会った時のように、それぞれ右と左にこてんと首を傾けた。

「だって神社とかにある狛犬の石像って、もっとなんか強そうな見た目っていうか」

 狛犬と聞いて、ポメラニアンの姿を想像する人はあまりいないだろう。それならまだ秋田犬とか柴犬の方が納得しやすい気がする。

「はるひ、我らを見よ」

 言われた通りに茶太郎とシロを凝視した。丸々とした目が可愛らしい。

「愛らしいだろう」

「なので今流に我らも姿をリニューアルしたのだ」

 二匹はとても誇らしげだった。

「…………いや、なんで?」

 愛らしいのはその通りだが、それと姿をリニューアルしたことにどんな因果関係があるのかさっぱりだ。

「時代に取り残されないように榊様のパソコンをお借りして、我らも今の時代のあれこれを調べたりするのだがな」

 肉球でどうやってパソコンを使うんだろうと思ったが、ひとまず相槌をうつ。

「調べたところ『尊い』という言葉が、何やら愛らしいものに向けてよく使われておるようだった」

「もともと『尊ぶ』とは、神仏を尊いものとして崇めるために使われていた表現だ。即ち!」

 たし! と前足で座布団が叩かれる。

「愛らしいものの姿をした方が!」

「現代の子らの信仰を集めやすいということだ!」

 完全に意味を間違っている。

 だが、自信満々な様子に水を差すことは出来なかった。

「そ、そっか……。茶太郎もシロも……努力家なんだね……」

「うむ!」

「我らにだってアップデートは必要だからな!」

 まん丸の目がきらきらと輝いている。二匹にとってはとても自信のある変化だったらしい。

「す、凄いね……とっても愛らしいよ……尊いです……」

「そうであろう!」

「当然だな!」

 円状にカールした尻尾を二匹ともぶんぶん振っている。嬉しいようだ。

「尊い……。ええと、それで、茶太郎とシロのことは分かったんだけど」

 神使が厳密にどういう存在なのかは、多分詳しく聞いても分からない。二匹のことは、アニメに出てくるキャラクターみたいなものだと思おう。

「私はどうやってここに来たの? ここは一体どこ?」

「祠は、扉だ。扉をくぐればたどり着く」

「ここは、社だ。榊様の社である」

 また謎々のような答えだ。茶太郎たちの言葉は、はるひには難しい。

「やしろって……?」

「お前に馴染みがある言葉で言えば神社だ。だがここは神社ではない」

「表の神社とここはまた違うものだ。だからここは榊様の社である」

 今までの情報をまとめると、榊は榊。

 茶太郎とシロは狛犬。

 この場所は榊の社ということが分かった。……茶太郎とシロが狛犬ということくらいしか疑問が解決していない。

「榊様は小説家なんですか?」

 一つくらいばしっと答えてもらおうと、座卓に身をのり出して榊に問いかける。

「そうだ」

「榊様はどうやって小説家になったんですか?」

 こんな不思議なところにいて、不思議な力を持っている人が普通の人間のわけがない。そんな人が小説家? 何から何まで疑問だらけだ。

「パソコンがあれば小説は書ける」

「本屋さんに榊様の小説は売っているんですか?」

「売っているな」

「榊様、それは……えっと、どうやって?」

「ネット環境があれば今時どうとでもなる」

「ここネット使えるんですか!」

 そういえば、茶太郎もパソコンで調べ物をしていると言っていた。

「ど、どこから……」

「向こうの社務所にルーターがあるのでな」

「ルーターに貼られているラベルにパスワードが書いてあるだろう」

 確かにある。はるひの家の無線ルーターにも、ネットワーク名とパスワードが記載されたラベルが貼られている。

「それを確認して我らが」

「榊様にお伝えしたのだ」

「は、………………はんざい?」

 どのような罪に問われるのかは分からないが不正利用は多分駄目だ。

「失敬な!」

「そもそもが人間の方がこの土地に勝手に住んでいるのである!」

「代々祀っている血筋であるからここに住めているだけなのだ!」

「そうだ! だから我らがちょっとネット回線を拝借するくらいは些細なことだ」

「と、いうわけだ」

 怒涛の説明を最後に持っていく榊だ。二匹が榊の分まで喋るのである意味バランスが取れている。

「それに神社のものはどう扱っても良いと、随分前に許可は得ている」

「そうである!」

「問題ないのだ!」

 どうやら表の神社とこの社は共存しているらしい。犯罪ではないようで良かった。

 まともな答えをもらえたかは別として、絶対に聞こうと思っていた大きな疑問は確認出来た。

 榊が本当に小説家として働いているなら、公的な手続きはどうしているのか。パソコンはどうやって手に入れたのか。などの細かい質問も頭に浮かんだのだが「榊様のお力でなんとかなるのだ」で、それらは全て説明が終わってしまうような気がした。

 はるひもそろそろ榊たちとの会話に慣れ始めたようだ。簡単に予想がつく。

「お前が考えつく疑問のだいたいは榊様のお力でなんとかなるのだ」

「お前の頭では説明したところで理解出来ぬのだからもう諦めるのだ」

 質問するまでもなく想像通りの発言を茶太郎が、そしてシロが追い打ちをかけてくる。

 幽霊とか悪魔とかゾンビとか神様とか妖怪とかオカルト的なことをはるひは信じていないし、霊感も一切ない。

 多分神様的なものだろう榊に、神使だというポメラニアン。

 これまでの常識からすれば到底信じられない。しかし、しかしだ。

 どれだけ現実を疑ってみても榊も茶太郎もシロも目の前に存在してしまっているし、スマートフォンには昨日会った佐々木からのメッセージが届いている。

「…………はい、そうします」

「分かればいいのだ」

「今日もきりきり働くのだ」

 ――それと、鏡を壊したことも、夢ではなかったというわけだ。

 多分神様であろう榊の持ち物を壊したのがどういう意味になるのか怖すぎて、はるひは考えるのを止めた。

「今日はどうすればいいの?」

 はるひだって祟られたくはない。大人しく働くのが最善だろう。

「茶太郎、本日も頼んだぞ。今日と……、恐らく明日までかかるだろう」

「かしこまりました榊様。我にお任せください」

 うやうやしく返事をする茶太郎が可愛くて笑いそうになったとき、ふと新たな疑問が浮かんだ。

「……取材も、私なんかがしなくても、榊様の力でどうとでもなるんじゃないですか?」

 取材に行きたくないというわけではなく、素朴な疑問だった。

 不思議な力を持っているなら、人間の助力など不要なのではないかと思ったのだ。

「私の力は万能のものではない」

 どうやら神様でも出来ることと、出来ないことがあるようだ。

「鏡が壊れさえしなければ、万能ではない私でも不便はなかったのだが、壊れてしまったものは仕方ない」

「さっそく行かせていただきます」

 逃げるようにはるひは動いた。とにかく取材とやらが全て終わるまでは言う通りに働くしかない。

「はるひ」

 意図せず、足が、止まった。

 その声は静かだったのに、とても強く届いた。

 呼びかけに導かれるままに目を向ける。

 榊は中肉中背で、特別大柄なわけでもなければ、目を奪われる美貌というわけでもないのだが、惹きつけられる雰囲気があった。

 それはきっと、人では持ち得ない、雄大な山や大海原のような自然の静謐さや存在感を彼が持っているからだろう。

 深い深い夜色の目が、はるひを捉えている。

「気をつけろ」

 それだけ言うと、背後にある本棚から本を取り出し読み始めた。もうちらりともこちらに視線を寄こさない。

「ありがとうございます……いってきます……」

 まさか榊から普通の人がかけるような言葉が出てくるとは思わず驚いたが、そのおかげで少し距離が縮まったような気がした。

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