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じとっとした目線を向けても、茶太郎が助けてくれる気配はない。
ちなみにどうしてリュックサックの中にいるのかというと、店内に入る直前に茶太郎をどうするか迷ったはるひが、咄嗟に入るサイズだと思いつき中に仕舞ったからである。
リュックに入ると、茶太郎は学生のくせに勉強道具の一つも入っていない中身に苦言を呈していた。
「就職浪人はしたくなかったの。どこでもいいから就職したかったの」
「そうなんですか」
はじめにあった悲壮感がもう欠片もない。ひたすら元気に佐々木は愚痴をこぼしていた。
「だって新卒でこんなに就職先が決まらないなら、来年になったらもっとやばいじゃない。院に進むほどのお金もないし、そもそも勉強なんてもうしたくなかったし」
高校一年生のはるひには大学のことはぼんやりとしか分からない。
漠然と大学に進学はするのだろうと思ってはいるが、明確な道なんてまだ決まっていなかった。
「佐々木さんはどうして大学に行ったんですか?」
「皆行くから」
せっかくだから大学について詳しく話を聞いてみようと思ったが、返ってきた答えは今はるひが持っている理由と変わらなかった。
「それだけ?」
「それだけじゃなくて、就職するにも条件が大卒のみだったりするんだよ」
「なんか、もっと、これがやりたかったから! みたいなのはなかったんですか?」
まだはるひは自分が何になりたいのかも、何が好きなのかも分からない。
幼稚園の頃は、ケーキ屋さんとか、花屋さんとか、アイドルとか、警察官とか、お医者さんとか、ぽんぽんあれになりたいこれになりたいと思っていたような気がするのに、少しずつそう思うこともなくなっていった。
「さっきも言ったじゃん。やりたいことなんてなかったの」
「一度も?」
「……変?」
不安そうな顔をされはるひは慌てた。また泣き出すかと思ったのだ。
「変では、ないですよ。私もちっちゃい時はともかく、今は何になりたいとかないですし。変じゃないです。全然変じゃない」
「ありがとう」
今度の彼女の笑顔は、大人に見えた。泣いている時は子供みたいだと思っていたのに。
「……大人も、こんな風に泣くんですね」
「泣くよ。それに三春さんからすれば私も大人に見えるかもしれないけど、二十四歳なんてぜんっぜん大人じゃないから」
遠慮なく思いっきり鼻水をかんでから、佐々木は深く息を吸って重いため息を吐いた。
「子供の頃と今の自分とで変わったなって思えるところなんて、ほとんどない。しいて言えばお酒が飲めるようになったくらいじゃない? 自分の嫌なとこも何もかもほとんど同じ。大して変わらない。ゲームでレベルアップするみたいに簡単に成長もしない。……大人になれば、社会人になれれば、勝手に大人になると思ってたのになあ」
「嫌なとこも……ですか?」
「そう。あ! 聞いてよ私の名前」
「佐々木さん、ですよね?」
「フルネーム。佐々木美咲よ佐々木美咲。ささきみさきささきみさき。早口言葉かっての!」
子供の頃からコンプレックスなんだよね、と佐々木は苦笑する。
「佐々木さん、私の名前聞いてくれます?」
名前についてならこちらも負けていない。
「三春はるひです」
愛犬にワン太郎と名付けた父親が決めた名前だ。
本人に悪気がないことは態度で分かっていたので文句は言えなかったが、友達にからかわれたりもしたので、はるひも名前がコンプレックスだった。
「はるはるちゃんだね」
「それ子供の頃のあだ名です」
嫌なことばかりだったわけではない。
クラス替えがあってもすぐに名前を覚えてもらえてクラスメイトと仲良くなれたりもした。
はるはるちゃんと呼ばれるのだって嫌ではなかった。
からかわれるのが、嫌だっただけだ。
「だろうと思った。私は男子に早口言葉みたいにして遊ばれたなあ。……懐かしい」
「小学生って、すぐからかいますよね。まあ、でも、だいたいがノリでふざけてるだけだったので、途中から気にするのは止めました。そう思えるようになったのも中学生くらいからですけど」
「……大人だね。私、ずっと嫌だったよ。…………ねえ、三春さん。お人好しって言われたことない?」
巻き込んだのは自分でも、佐々木もまさかここまではるひが見知らぬ大人に付き合うとは思っていなかったのだ。
世の中安全な大人ばかりではない。
「言われたことないですよ? 空気読めないとか、お節介って、言われたことならありますけど」
「ああ、ね。……女の子って面倒くさいよね」
「佐々木さんの頃ってどうでした?」
「今とあんまり変わらないんじゃないかな。私はずっと周りに合わせて面倒事は回避してたよ。小学校も中学校も高校も大学も、大人になった今も周りに合わせてばっか、り……」
急に何かに気づいたようにぴたりと動きを止めると、佐々木は語気を強めた。
「三春さん学校は?」
「学校、学校は……自由登校です!」
まさか今更になって聞かれるとは思わず焦ったが、元々用意していた答えがするりと口から出てくれた。
「そういえば高校生の二月ってそういう時期か。……じゃあ三春さん、そろそろ卒業なんだ。今出歩いてるってことは進路もう決まってるんだよね?」
「し、進路……」
詰めが甘かった。そこまで詳しく決めてはいなかったので目が泳ぐ。動揺が筒抜けだ。
「ごめん! 大丈夫だよ。さっきは就職浪人がどうこう愚痴ったけど、大学浪人なんて珍しくないから。むしろ浪人中にめちゃめちゃ頑張ってランク上の大学に受かる人だっているから。大丈夫!」
「ありがとうございます。頑張りますね……」
都合の良い方向に勘違いしてもらえたが、まったく嬉しくなかった。
「頑張って、三春さん。私みたいな情けない大人にならないようにね」
肩をすくめながら自嘲気味にこぼされた言葉に、頷くことも否定することも出来なかった。
大人だって泣いたりするにしても、いくらなんでもあそこまで号泣するのは異常事態だとはるひは思う。
「佐々木さん……仕事、嫌いなんですか?」
「好きも嫌いも、ないよ。仕事に好きも嫌いもない。嫌なことならいっぱいあるけど」
「例えば?」
口元に手を当てて考え込んでから、佐々木はつらつらと嫌なことを指折り数えて並べていった。
「ここ一ヶ月毎日のように残業してること。業務外のクレーム対応をしたこと。上司が嫌味っぽいこと。新卒の後輩が優秀なこと。仕事が忙しくない時は毎週のように飲み会に誘われること。そろそろ仕事始めて丸二年だけどやりがいなんて一度も感じなかったこと。これまでずっと相談にのってくれてた先輩が転勤しちゃったこと。まあ、だから愚痴溜めこんで爆発したんだけど。あと、机の上に置いてるお菓子を同僚が勝手に食べたりするのも本当嫌だな。ムカつく。それに文句言えない自分も嫌。そういう、色んな細かいことが蓄積して、疲れて、仕事に行きたくない。仕事に行きたくないなって思うと夜眠れない。残業で帰る時間が遅くなって、もともと短い睡眠時間がもっと短くなって朝起きられない。起きたら仕事に行かなきゃいけないと思うと起きたくもないし、布団から出たくない。それで――、今日みたいなことになったわけだけど」
今まさに学校をサボっているはるひからすれば、そこまで嫌なことがあるのに辞めずに続けているのを凄いと感じた。
「それでも、今日までちゃんと出勤してたんでしょう? なら、佐々木さんは情けない大人じゃないですよ」
「三春さんは優しいね」
力なく笑った佐々木は「でもね」と言葉を続けた。
「上司に言われたんだ、『君は仕事に対して情熱がない』って。あるわけないよね。だってそもそも仕事に対してなんの感情も無いんだから、当たり前だよ。情熱なんてあるわけない」
――みんな、やりたいことってどうやって見つけたんだろう。
――情熱なんてどこから湧いてくるんだろう。
迷子の子供のように頼りなくこぼす佐々木に渡せる答えを、はるひは持っていない。
夢と、やりたいことって違うんだろうか。
夢と、情熱って同じなんだろうか。
子供のふわふわとした夢は、現実的な職業といつから結びつくようになるのだろう。
やりたいことがないと駄目なんだろうか。情熱がないと駄目なんだろうか。それが無いと、大人になっても苦しむんだろうか。
それがなくとも、頑張っていることに、価値は本当にないのだろうか。
「やりたいことがないとさ、今の仕事辞めてまで転職したって仕方ないって思っちゃうんだよね。そりゃ人間関係とか環境とか、もしかしたら今よりも良いところに転職出来る可能性だってあるのかもしれないけど、仕事そのものに対する私の気持ちは変わらない。だったら、今の職場から転職したって意味ない。上司は嫌いだけど、パワハラとかセクハラとかはないし、そこまで悪い環境ってわけでもない」
諦めようとする言葉を聞いている内に、はるひの胸にモヤモヤが溜まっていった。理由を言語化出来るほどに明確なものではない。
けれど、無性に嫌だと思った。
「……うれしい、ことって、なかったんですか」
「仕事で?」
嫌なことを我慢するのが大人で、諦められるのが大人で、自分で自分のことを情けないと自嘲するのが大人なのだろうか。
佐々木のように、やりたいことがなくとも就職して働いている大人は、他にもきっといるだろう。
やりたいことが見つけられなかった人間は、好きなことが見つけられなかった人間は、諦めたように生きていかなければならないのなら、それはきっと苦しい。
「嬉しいこと、嬉しいことか……なんかあったかな……」
仕事であった嫌なことを考えた時よりも倍の時間をかけて、彼女は一つ、思い出した。
「……ああ、私が事務やってる会社の、商品に、ついてなんだけど、お客様から商品をとても褒めてくれてるメールが届いたことが、あったんだ。私はただの事務で、商品を作ってるわけじゃないけど、あれは、なんか、……なんでかな、嬉しかったな」
ほころぶように彼女は笑った。苦笑でもなく、自嘲でもなく、心から滲み出た笑顔だった。
「あれって、いつ届いたんだっけ。忘れちゃってたな……」
「他には? 他にもあるんじゃないですか?」
「ぱっと出てこないんだけど、あったのかな」
「もし、無かったんだとしたら、……嫌です」
不意をつかれたように佐々木はきょとんとした。
「三春さんが、嫌なの?」
「……はい。嫌です」
ふてくされたように言うと、佐々木は声をあげて笑い出した。
わけが分からなかったが、やけにスッキリした顔で笑うから、気持ちが伝染してはるひまで少し嬉しくなった。
子供だって大人だって、どんな状況だって、嬉しいことがたったの一つもない日々なんてあるのだろうか。もしあるなら、はるひは嫌だ。そんなのは、嫌だ。
見えなくなってしまっただけで、きっとあるのだと思いたい。
やりたいこととはいつ見つかるのだろう。今日? 明日? 一ヶ月後? 一年後? 高校二年生になったら、大学生になったら、大人になれば見つかる?
十年後、二十年後、……もしかしたら見つからない人は見つからないままなのかも、しれない。
でも、だからって、それで全てを諦めたような顔をされるのは、嫌だ。
解決は出来なくとも、嬉しさの積み重ねは気持ちを軽くしてくれるのではないだろうか。はるひは働いたこともない高校生だけど、そんな風に考えるのだ。
「はー、なんか、馬鹿みたいに泣いて愚痴って笑ったらスッキリした。ありがとう三春さん」
だって、こんな風にありがとうと笑いかけられるだけで、嬉しいのだから。
「どういたしまして」
その後、退店の時間になるまで二人はたわいもない雑談を交わした。
最近の高校生の間で流行ってる言葉とか、話題のドラマ、好きな俳優、飼っていたペットのこと。
大人と子供で、昼休みの教室で交わされるような会話をした。
「お腹空いたね」
とりとめなく話していると、突如大きなお腹の音がカラオケボックスの個室に響いた。
照れるはるひを佐々木は微笑ましそうに見ている。
もう十三時を過ぎていた。
一人だったらもっと時間を持て余していただろうに、あっという間に時間が過ぎている。
「空きましたね」
母親に叩き起こされて朝ご飯を食べたのは七時半だった。すっかり空腹を感じている。カラオケのご飯は高いからコンビニか、ファミレスにでも寄ろうか。けれどそれよりも前に、引き延ばしにしていた問題を片付けなくてはいけない。
「どうしますか?」
「……どうしようね」
始めはへにゃりと眉を落とし弱ったような顔をしたが、悩みや不安を息と共に全て身体から吐き出すと佐々木は背筋を伸ばした。
「めちゃめちゃ怒られるだろうけど、謝る」
晴々とした言葉だった。
「大人の無断欠勤は本当にやばいんだけど、でも、もう休んじゃったから。もうそれ以外どうしようもないから。とにかく謝る」
「応援してます」
小さくガッツポーズをすると、佐々木は急に吹き出した。
「どうしました?」
「ちょっと、あの、ごめん、なんかさっき三春さんが、嫌です。って言った時の顔を思い出しちゃって……。それが、うちで飼ってた犬がおもちゃ隠されたときの顔と、そっくりで……か、可愛いなって……」
可愛いと言われても、腹を抱えながら笑われているので、複雑だ。
表情にもそれが現れていたのか、それを見た佐々木は笑いをおさめる。
「ごめんごめん。でも、嬉しかったんだよ。説明するのはちょっと難しいんだけど、なんていうのかな。誰かに、嬉しいことがないなら嫌ですって言ってもらえて、それが、うん。なーんか気が抜けたっていうか、肩が軽くなったっていうか、憑き物が落ちたっていうか、……とにかく、なんか、いいかなって思えて。だって働かないと生活出来ないし、多分、嫌なことが一つも無い職場ってのはないんだと思う。でもそれと同じくらい――嬉しいことが一つも無い職場ってのも、多分、ないんだと思う。三春さんが言うようにね。それなら私は私なりに、情熱がなくても、ちゃんと働くしかないかって思えた」
その顔からは、泣いていた時にあった悲壮感も、ずっと消えなかった不安定さもぬぐわれていた。
「よし! じゃあ、三春さん私とご飯食べに行こう」
「一緒に?」
まさか食事に誘われるとは思っていなかった。だって二人は友達でもなんでもないのだ。
妙な状況だったため短時間で打ち解けてはいたが、二人の関係を説明する言葉はない。しいていえば、知り合い、になるのだろうか。
「うん。……正直に話すとね、学生の頃だってサボったことなかったから、ちょっと連絡するの怖いんだよね。早く連絡しなきゃって思うんだけど、途中で気持ち折れたら、困るし。だから、ちゃんとご飯食べて、気合入れてから職場に電話をかけようと思うんだ」
「分かりました。じゃあ、食べましょう。ご飯」
茶太郎の入ったリュックを背負い、近くのファミレスに向かう。
あまり混み合っていなかったのですぐに食事にありつけた。二人ともよっぽどお腹が空いていたのか、やってきたパスタの皿はすぐにからっぽになった。
カラオケの代金も食事代も迷惑をかけたからと佐々木が全て支払ってくれた。はるひの財布には三千円しか入っていなかったので、申し訳ないがありがたくごちそうになった。
一度は自分で払うと申し出を断ったのだが、こちらにお金を出させる気が佐々木に一切なかったので、甘えることにしたのだ。
食事も終え、連絡先を交換すると二人はそうそうにファミレスから出て別れることとなった。
職場への電話は一人でしたいそうだ。少しだけ心配だったが、きっと大丈夫ですよと笑いかけた。
「ありがとう。久しぶりに人に話を聞いてもらえてすごく楽になった」
またね。と絆創膏の貼られた手を大きく振ると、佐々木は軽やかに歩いていった。




